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大友戦記 臼杵城攻防戦
合戦展開図(ここをクリック!!)
1.島津軍2千が平清水口に布陣

天正14(1586)年11月5日、島津家久は鶴賀城攻撃を前にして、野村備中守文綱、白濱周防守重政に兵2千を付け、臼杵城攻撃に向かわせた。

家久としては、鶴賀城攻撃中に臼杵城から出てきた兵によって背後を突かれる恐れがあったので、先に抑えておこうと思っていたのであろう。

島津軍は、大友方から寝返った柴田紹安(じょうあん)の案内で臼杵に入り、平清水口(ひらそうず、現在の土橋交差点付近)に布陣する。

臼杵城(丹生島城とも言う)は、大友宗麟(義鎮)が臼杵湾に浮かぶ丹生島(にゅうじま)と呼ばれる島に築いた城である。

丹生島は、南北が100m、東西が420mと云う細長い島で、島全体が急峻な崖に囲まれた天然の要塞である。

海上の防衛は、臼杵湾の北側を若林水軍、南側を薬師寺水軍が担うという周到さであった。

当時の城は大手門が海側(島の東側)に設けられ、陸から船で遠回りして入るようになっており、陸地に近い西側が裏門になっていた。

その後、大手門は大友氏が滅んだ後に臼杵城に入った福原氏、田中氏によって陸地に近い西側に変えられ、現在に至っている。



2.国崩し(大砲)が炸裂

島津軍は、平清水口から臼杵城を望める菟居島(うさいじま、現在の平清水、光蓮寺付近)まで兵を進めたが、城は四方を海という天然の堀に囲まれ、容易には攻められなかった。

対岸から城に向かって鉄砲を撃ち放つが、弾は届かず、ただ空しく銃声が響くだけであった。

臼杵城には、隠居したとはいえ、まだ大友方に影響力のある大友宗麟が、僅かな配下と城下から集まった老若男女とともに籠っていた。

その夜、宗麟は城内にいる主だった将を呼び、

「島津の精鋭とはいえ、この城は容易に攻められまい。しかし、黙って籠城しているのは癪(しゃく)である・・・。一泡吹かせて、大友の底力を見せてやろうではないか!!」

と、それぞれに策を授けた。

この時、57歳になる宗麟は、往年の鋭い眼光を取り戻していた。

翌朝、ポルトガルから購入した『国崩し』と呼ばれる大砲が持ち出され、砲台に据えられた。

宗麟の命令で武宮武蔵守親実が、城を遠巻きにしている島津兵に向って撃ち放った。

凄まじい爆音とともに弾は、菟居島に陣取る島津兵に命中し、多くの死傷者が出て、たちまち混乱状態になった。



3.平清水の戦い

『国崩し』の威力で敵が混乱する中、臼杵鎮順、柴田礼能(れいのう)、統勝親子は、菟居島(現在の平清水、光蓮寺付近)の島津兵に襲いかかり平清水口(現在の土橋交差点付近)まで追い払う。

城へ引き返す途中、臼杵鎮順と柴田礼能は民家に隠れていた敵の伏兵に囲まれ、攻撃を受ける。

鎮順は、からくも逃げ帰ったが、礼能は馬から落ちて討ち取られてしまう。

父の死を聞いた統勝は平清水まで引き返し、多勢の島津軍の中に攻め入り、父のかたきを討ったが、自らも討ち死にしてしまう。

柴田礼能、統勝親子は、天徳寺親子と呼ばれており、宗麟から寵愛されていたという。

特に礼能は『杏葉の紋』の使用を許され、大友一族に準じる扱いを受けていた。

天徳寺とはキリスト教会の意味なので、おそらく、キリシタン信者であろう。

この戦いの前、礼能は宗麟から疑いをかけられていることを知る。

前にふれたとおり、島津に内応し、島津軍を案内して臼杵までやって来た柴田紹安は、礼能と同族であるのが原因らしい。

「我らが潔白であることを証明するには、紹安を討ち取るしかあるまい・・・」

と言って、出陣したという。

この親子の死は、さぞや宗麟を悲しませたことだろう。



4.仁王座の戦い

城から打って出た古庄丹後入道と葛西周防入道は、仁王座(現在の二王座、におうざ)方面の敵に襲いかかり、激戦の末追い払う。

島津兵は、岩を砕いて道を通したといわれる『仁王座の切り通し』まで引き上げたが、吉岡甚吉(統増)、利光彦兵衛、吉田一祐の兵に待ち伏せされ、鉄砲による銃撃を受け逃げ惑う。

吉岡甚吉らは、昨夜のうちに船で城を出て、この地で待ち伏せしていたのであった。

これに福良の丘に潜んでいた吉弘鎮直と平清水から引き返す途中の臼杵鎮順が加わり、前後から島津兵を襲い、島津の有力武将が討ち取られた。

これらは、すべて、宗麟が授けた策であった。これは、大砲と鉄砲を利用した戦術で、宗麟が西洋人から学んだものと思われる。



5.島津軍の退却

その後、島津軍は徐々に兵を引いたが、臼杵勢の追撃を阻むための一隊は残した。

城中では、血気にはやる若い将を中心に残る島津兵を攻撃しようと勇んだが、宗麟はこれを許さなかった。

わずか3日間の戦いで、宗麟が心血を注いだキリスト教の建築物や南蛮文化が栄えた町は、破壊されたり焼かれて、灰燼に帰してしまった。



作成 2010年4月20日 水方理茂


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