永禄年間(1558〜1569年)、大友宗麟と毛利元就は大内氏の旧領である豊前、筑前(福岡県)をめぐって争奪戦を繰り広げた。門司城攻防戦で一旦和睦した両者であったが、元就は出雲(島根県)の尼子氏を滅ぼし、背後の憂いをなくすと、再び九州へ進出する。
宗麟は元就に調略されて反旗を翻した宝満山城の高橋鑑種(あきたね)、古処山城の秋月種実らを討伐するため、軍勢を筑前に送る。大友軍と毛利軍は博多を守る重要拠点となる立花山城の奪取を巡って、多々良川を挟んで戦うが勝敗がつかず、にらみ合いが半年間続く。
両軍が対峙している間、宗麟は元就に滅ぼされた大内氏と尼子氏の残党を支援し、周防(山口県)、出雲を撹乱する。元就は反乱の広がりを恐れ、事態を早急に収拾するため、九州からの全軍撤退を命じる。毛利軍が去ると、立花山城を含む筑前は宗麟の支配下となる。
その後、毛利氏は中国地方へ勢力を延ばす織田信長に備えるため、九州進出を諦めざるを得なくなり、九州での覇権争いは宗麟の勝利で幕を閉じる。宗麟は知略によって毛利軍を九州から追い払うと、名実ともに九州6ヶ国の支配者となり、大友氏の黄金期を築き上げる。
※詳しくは、戦記_多々良川の合戦と秋月城下を散策をご覧ください。
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