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多々良川の合戦

 永禄年間(1558〜1569年)、大友宗麟と毛利元就は大内氏の旧領である豊前、筑前(福岡県)をめぐって争奪戦を繰り広げた。門司城攻防戦で一旦和睦した両者であったが、元就は出雲(島根県)の尼子氏を滅ぼし、背後の憂いをなくすと、再び九州へ進出する。
 宗麟は元就に調略されて反旗を翻した宝満山城の高橋鑑種(あきたね)、古処山城の秋月種実らを討伐するため、軍勢を筑前に送る。大友軍と毛利軍は博多を守る重要拠点となる立花山城の奪取を巡って、多々良川を挟んで戦うが勝敗がつかず、にらみ合いが半年間続く。
 両軍が対峙している間、宗麟は元就に滅ぼされた大内氏と尼子氏の残党を支援し、周防(山口県)、出雲を撹乱する。元就は反乱の広がりを恐れ、事態を早急に収拾するため、九州からの全軍撤退を命じる。毛利軍が去ると、立花山城を含む筑前は宗麟の支配下となる。
 その後、毛利氏は中国地方へ勢力を延ばす織田信長に備えるため、九州進出を諦めざるを得なくなり、九州での覇権争いは宗麟の勝利で幕を閉じる。宗麟は知略によって毛利軍を九州から追い払うと、名実ともに九州6ヶ国の支配者となり、大友氏の黄金期を築き上げる。

 ※詳しくは、戦記_多々良川の合戦秋月城下を散策をご覧ください。

(2019年3月13日作成)


宝満山(ほうまんざん)城
福岡県太宰府市大字北谷

宝満山(標高829m)は、古くから霊峰として崇められている。大友氏の重臣、高橋鑑種は大宰府の備えとして、この山に城を築く。永禄10(1567)年、鑑種は大友宗麟に叛き毛利へ寝返り、大友軍の攻撃を受ける。毛利元就は援軍を送り込むが、大内、尼子残党の挙兵により、撤退する。援軍を絶たれた鑑種は宗麟に降伏し、家督は吉弘鑑理の次男、高橋紹運に引き継がれる。

(2019年3月撮影)


岩屋城
福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋

岩屋城(標高291m)は宝満山城の出城として、高橋鑑種によって築かれる。永禄10(1567)年、大友宗麟に叛いた鑑種は大友軍の攻撃を受けて敗れ、城は吉弘鑑理の次男、高橋紹運に引き継がれる。天正14(1586)年の島津軍との戦いでは、紹運が岩屋城に籠り徹底抗戦の末、城兵とともに大友氏に忠義を尽くし、玉砕したことは有名な話である。

(2019年3月撮影)


古処山(こしょさん)城
福岡県朝倉市秋月野鳥

古処山城(標高859m)は、この地を所領する秋月種雄によって築かれる。戦国時代、秋月氏は少弐氏、大内氏、大友氏と主君を変えて勢力を保っていた。弘治3(1557)年、文種が大友氏から離反して毛利氏につくと古処山城は大友軍の猛攻に遭って落城し、秋月氏は滅亡する。しかし、毛利に逃れていた文種の次男、種実が元就の支援を受けて旧領の奪還に成功する。

(2019年3月撮影)


休松(やすみまつ)城
福岡県朝倉市下淵501−1

休松山(安見ヶ城山)は標高300mの山で、戦国時代には秋月氏の出城があった。豊後の大友氏の進出により、この地で秋月氏と大友氏の壮絶な争奪戦が繰り広げられた。永禄10(1567)年、大友軍に奪われた城を夜襲で奪い返した「休み松の戦い」で知られる場所である。現在は、手前の山肌にソーラパネルが敷き詰められ、時代の流れを感じさせられる。

(2019年3月撮影)


立花山城
福岡県福岡市東区大字下原

大友氏6代貞宗の子、貞載は立花山(標高367m)に城を築き、立花氏を名乗る。永禄11(1568)年、立花鑑載は毛利氏に内応して大友氏に叛き、激怒した大友宗麟の攻撃を受けて敗死する。その後も大友氏と毛利氏は城の争奪を繰り広げるが、元亀元(1570)年に大友氏の支配となり、戸次道雪が立花氏を継ぐ。撮影の日はPM21の影響で、山がかすんでいた。

(2019年3月撮影)


高良山(こうらさん)

福岡県久留米市御井町

高良山(標高313m)は、太古より信仰の山として崇められ、中腹には高良大社が鎮座している。また、筑前、筑後、肥前の国境に位置するこの地は、軍事的な要所でもあり、倭国大乱、磐井の乱の舞台となり、白村江の戦いでは、後方基地の役割を担う。南北朝時代には護良親王が南朝方の本拠地とし、戦国時代には大友宗麟が本陣を置いたことで知られる。

(2019年3月撮影)


佐賀城
佐賀県佐賀市城内2-18-1

佐賀城は龍造寺隆信の居城であった村中城を鍋島直茂、勝茂親子が慶長13(1608)年に改修、拡張して築城した平城である。永禄12(1569)年、大友宗麟は高良山に本陣を置いて城を包囲するが、九州に上陸した毛利軍に備えるため、和睦し撤退する。その後、隆信の敗死によって竜造寺氏は断絶し、家老の鍋島直茂が後を継ぎ、佐賀藩の藩祖となる。


(2013年5月撮影)


多々良川

福岡県福岡市東区多々良

この川を挟んで大きな戦が2度行われた。南北朝時代の足利軍と菊池軍、戦国時代の大友軍と毛利軍の戦い。永禄12(1569)年の大友と毛利の戦いでは、戸次道雪と小早川隆景が名勝負を繰り広げるが、決着がつかず膠着状態が半年続く。その間、大友宗麟が大内、尼子の残党を支援し、毛利の背後を脅かしたので、毛利軍は九州から撤退していく。

(2019年3月撮影)



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