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1.忍び寄る毛利の気配

永禄7(1564)年、門司城攻防戦で毛利軍に敗れた大友宗麟(義鎮)は、出雲(島根県)の尼子義久に毛利の背後を突かせ、将軍足利義輝から和睦の仲介を取り付けるという外交手段で、豊前と筑前(福岡県)を取り戻していた。

「元就は、再び豊前と筑前に攻め入るに違いない。それにしても、毛利の水軍は侮れぬ」


毛利水軍の恐ろしさは、宗麟の頭から離れなかった。

「毛利軍が海から攻めてきたら、府内館(大分市)では防ぎきれまい」

「鎮興(しげおき)に相談してみるか・・・」

宗麟は毛利水軍に対抗するため、佐賀関一尺屋を所領する若林鎮興に大友水軍の育成を任せていた。

「鎮興、毛利水軍に対抗できる城を造りたい。どこか、良い場所は無いか?」

「臼杵湾に浮かぶ丹生島(にゅうじま)が最適かと・・・」

「海から攻め込んだ敵は、干満の差が激しい湾の中で身動きが取れなくなり、湾の両岸に配備する味方の水軍で包囲すれば、殲滅できます」

「なるほど、丹生島か・・・」

臼杵を訪れた外国人宣教師が「城のような島」と云ったように、島全体が要塞の城であった。

宗麟は丹生島に新しい城(現在の臼杵城)を築き、そこに居を移す。

現在の臼杵城は周囲が埋め立てられて、陸続きになっているが、当時は海に囲まれた島で、干潮の際、島の西側部分がわずかに砂州で陸地とつながっていた。

その姿は、フランスの「モン・サン・ミッシェル」を思わせる城であった。

急峻な崖に囲まれた島は、陸からの攻撃に対しても、高い防御機能を備えていた。

戦国末期、戦いの主流が弓矢から鉄砲になると、鉄砲の射程距離を超える幅の水堀と高い石垣を備えた平城、平山城が多くなっていくが、その先駆けとなったのが、この「丹生島城」であろう。

永禄9(1566)年11月、毛利元就は、月山富田城(島根県安来市広瀬町)の尼子義久を降伏させ、背後の憂いを絶つことが出来た。

「これで、安心して豊前、筑前を取りに行ける・・・」

元就は、大友支配に不満を抱える北部九州の国人衆に

「毛利に従えば、これまでの所領を安堵し、支配権を認める」

と呼びかけ、調略に取り掛かる。

大友氏は義鑑(宗麟の父)の頃から、支配地域を広げると、従来の守護、守護代に代わる奉行として「方分(ほうぶん、かたわけ)」と言う役職を宿老の中から選び、直接、豊後から派遣し、一元的な支配を行なっていた。

従って、宗麟が支配地を広げることで、その地域を治めていた国人、寺社衆等からの反発が生まれてきた。

元就は、その反発勢力を支援することで、北部九州進出の足がかりとした。

毛利氏は地方領主の独立性を認め、共生による集団体制で領土を拡大していくが、血族支配や、国人、土豪といった守旧勢力の存在を認める保守的な体制であった。

この体制は、豊臣政権の頃まで良い方に機能するが、関ヶ原の合戦では、この悪い方が出て、徳川に敗北し、多くの領土を失うことになる。



2.休松(やすみまつ)の戦い

永禄10(1567)年6月、筑前の宝満山城と岩屋城の高橋鑑種(あきたね)が、古処山(こしょさん)城の秋月種実(たねざね)、五箇山(ごかやま)城の筑紫広門と連携し、毛利元就の支援を得て、大友氏に反旗を翻す。

鑑種は大友氏庶流の一萬田氏の出身で、筑後の名門、高橋氏の名跡を継いでいた。

「毛利狐(元就)め、ついに動いたか。秋月と筑紫の謀反はわかるが、大友一族の流れをくむ鑑種までが・・・」


7月、大友
宗麟は戸次道雪(鑑連)、臼杵鑑速、吉弘鑑理、吉岡宗歓(長増)、斉藤鎮実らを主力とする大友最強軍団3万に出陣を命じた。

毛利が来るまでに、攻め落として来い!!

戸次、吉弘、吉岡の軍勢は鑑種の守る宝満山城(福岡県太宰府市大字北谷)、臼杵勢は岩屋城(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)、斉藤勢は五箇山城(福岡県那珂川市五ケ山)を攻撃する。

岩屋城、五箇山城は落城するが、鑑種率いる8千の兵が篭る宝満山城は、守りが固く落とすのに手間取っていた。

「道雪殿、宝満山攻めは長期戦となろう。秋月に背後を突かれると苦しくなるぞ」

「いかにも・・・」

8月、総大将の道雪は、吉岡、斉藤勢を宝満山城攻めに残し、戸次、臼杵、吉弘勢2万の兵で秋月討伐に向かう。

大友軍は小石原川沿いに秋月城に攻め込み、種実を古処山城(福岡県朝倉市秋月野鳥)に追い込んだ。

古処山城は朝倉市と嘉麻市の境にそびえる古処山(標高859m)に築かれた山城で、秋月氏の詰め城となっていた。

道雪は城を取り囲み、城内の兵糧が尽きるのを待った。

城の包囲を始めてから30日になろうとした頃、

「毛利の大軍が押し寄せてくる」

と言う噂が広がり、心ならずも大友軍に従軍していた豊前、筑前、筑後の国人衆は、それぞれ勝手な口実をつけて自領に引き上げてしまう。

「一旦退き、毛利軍の情報を探らねば・・・」

道雪は古処山の包囲を解き、筑後川の北岸に後退することを全軍に伝える。

9月3日の夜、大友軍の撤退を察知した鑑種は、

「この機を逃さず、大友軍を蹴散らせてやる」

と意気込んで、4千の兵を率いて、臼杵、吉弘の陣に夜討ちをかける。

不意を突かれた臼杵、吉弘の陣は大混乱に陥り、道雪が布陣する休松(やすみまつ、福岡県朝倉市)を目指して敗走した。

戸次の陣では秋月勢の夜襲に備え、かがり火を絶やさず、防御態勢を整えていた。

そこへ、多くの兵がなだれ込んでいく。

「敵襲だ、撃てー!!」

ズドーン、ズドーンと戸次勢の鉄砲が火を放つ。

「撃ちかたやめー!! あれは、味方だ」

道雪は敗走してきた臼杵、吉弘勢を収容しながら、秋月勢の攻撃を防いだ。

「鑑速殿、鑑理殿、ここは、我らが引き受ける。早く撤退を!!」

「そうか、申し訳ない」

道雪は殿(しんがり)となって敵の攻撃を防ぎ、全軍を撤退させた。

「この先、進みたければ、この戸次道雪がお相手する。いざー!!」

この戦いで、大友軍は4百人以上が戦死したという。

特に戸次勢の被害が多く、戸次家中だけでも道雪の弟5人を含む50人の戦死者を出した。

悲報を受け取った宗麟は、道雪に弔意と秋月への憤りを述べる書状を送っている。

毛利軍の九州上陸は偽の情報で、実際は
伊予(愛媛県)の河野氏を支援するため四国に向かっていた。



3.立花城の戦い

永禄11(1568)年2月、立花山城(福岡県新宮町、久山町、福岡市東区にまたがる標高367mの立花山に築かれた城)の立花鑑載(あきとし)が大友宗麟に叛く。

「大友軍が、休み松で秋月軍に大敗した。これで、大友の支配から解放されるぞ!!」

立花氏は大友氏6代貞宗の子、貞載を始祖とし、筑前における大友氏の中心勢力であった。

4月6日、鑑載は毛利元就が送った清水左近将監を大将とする援軍を立花山城に受け入れ、城の守りを固める。

筑前の要衝を守る立花氏が毛利に寝返ると、大友氏の領国であった筑前の大半が毛利方になびいた。

「なんと、西大友と呼ばれた立花までが謀反とは・・・」

宗麟は怒りをあらわにし、立花山城攻撃の命を下す。

「すぐに立花山を攻め、鑑載の首を持ってくるよう、道雪に伝えよ!!」

道雪は休み松で敗れた兵を立て直し、大友軍3万の軍勢で立花山城を攻撃する。

立花山城に籠る鑑載は4ケ月に渡り、大友軍の猛攻を防いだ。

難攻不落と言われた立花山城を正面から攻撃して落とすことは困難であった。

「なんとしても、毛利の本隊が来るまでに落とさねば・・・」

城内に知り合いの多い道雪は、鑑載の重臣の一人、野田右衛門大夫に密書を送る。

「大友氏の血族である鑑載が、主家に叛くことはあるまじき行為、やむを得ずして鑑載と行動したことは理解できるが、これ以上の義理立ては無用である。御屋形様も大夫の心情は理解しておられる故、今こそ大友に対する忠義を示せ」

右衛門大夫は、鑑載の謀反に異を唱えていたこともあり、道雪の説得を受け入れ、大友軍を城内に引き入れる。

突然の大友軍出現で、城内は大混乱に陥り、立花山城は7月23日に落城する。

逃走した鑑載は、追いつめられて自害し、その首は豊後に送られた。

6月に四国から帰国した毛利の本隊は、休む間もなく立花山城の救援に向かおうとしたが、すでに遅かった。

道雪は、津留原掃部介(かもんのすけ)、臼杵進士兵衛(しんしひょうえ)、田北民部丞(みんぶのじょう)に立花山城を任せ、古処山城を攻撃している斉藤勢の加勢に向かう。

8月、古処山城に篭る秋月種実は、毛利からの援軍を期待出来ないと悟り、弟の元種を人質として、大友軍に降伏を申し入れた。

道雪は、降伏した秋月勢を従えて、宝満山城攻撃に合流する。

戸次、臼杵、吉弘の大友軍が、宝満山城の包囲網へ集まってきた頃、吉川、小早川の毛利軍が関門海峡を渡り、九州に上陸する。

佐賀の竜造寺隆信が、毛利の動きに連動する形で、大友に従属する肥前、筑後の国衆を切り崩しにかかり、大友軍の背後を脅かす存在になりつつあった。

その頃、筑前に出陣中の吉岡宗歓から、丹生島城の宗麟宛てに書状が届く。

「尼子の残党と大内の御曹司の挙兵については、準備が整いました。後は、元就を安芸から誘い出すのみです。御屋形様が自ら出陣すれば、元就も決戦を挑んで参りましょう。留守を狙って、水軍が府内を襲うことも考えられますので、備えを怠らないよう願います」

書状を読み終えた宗麟は、大友水軍に海上の守り固めさせ、出陣の準備に取り掛かった。

「さすが、宗歓じゃ。狙い通り、毛利狐(元就)が出てくれば良いが・・・」

永禄12(1569)年正月、宗麟は嫡男の五郎(後の義統)を府内館から丹生島城に移すと、自ら大軍を率いて府内から玖珠、日田を通って、筑後川沿いに久留米に進み、高良山(福岡県久留米市)に本陣を敷いた。

高良山は、西方に佐賀平野、北方に大宰府、博多方面に進軍出来る要所である。

宗麟の出陣により、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の6ケ国の兵が集まり、総力5万の軍勢となる。

高良山では、宗歓が出迎えた。

「宗歓、望み通り出向いたぞ」

「ご足労をお掛けします]

「で、次の一手は・・・?」

「用心深い元就には、もう一つ餌が必要です。主力軍を佐賀攻めに向かわせ、防衛を手薄にして筑前の奥深くまで誘い込みましょう」

「そうか、わかった」

宗麟は戸次、臼杵、吉弘勢に佐賀城攻撃を命じる。

攻める大友軍3万に対し、竜造寺軍3千は城に籠って迎え討った。

「攻撃やめー、やめー!!」

「誘いに乗って攻めれば、沼に足をとられ、全滅するぞ!!」

当時の佐賀城は大湿原に囲まれ、容易に攻め込むことが出来なかった。

「むやみに攻撃してはならぬ。蟻の子一匹も通さぬように城を取り囲め!!」

道雪は、大軍で城を包囲し、兵糧攻めする。

その頃、門司、小倉方面から九州に上陸した吉川元春、小早川隆景ら毛利軍は、立花城攻撃に向かい、元就も孫の輝元を伴い、長府(山口県下関市)まで出陣した。

しかし、佐賀城には毛利軍が九州に上陸したことが伝わらず、

「まさか、宗麟自らが出馬するとは・・・、和睦するしかあるまい」

竜造寺隆信は人質を差し出し、宗麟の和睦を受け入れた。

4月17日、宗麟は龍造寺氏と和睦すると、軍勢を立花山城の救援に向かわせる。



4.多々良川の戦い

大友軍は立花山城の救援に向かうが、城を包囲する毛利軍は多々良、香椎周辺に布陣し、大友軍の進攻を阻んだ。

篭城が続く立花山城内では、食糧不足と飲み水に苦しんでいた。

「餓死するか、打って出るしかない」

城将の津留原掃部介は、宗麟に密使を送り、指示を仰いだ。

「よく耐え抜いた。ひとまず、城を明け渡し、後日に期すように・・・」

5月3日、宗麟の命により立花山城は開城し、毛利軍に降伏する。

総大将の小早川隆景は、降伏した城兵たちの健闘をたたえ、丁重に大友軍の陣営まで送り届ける。

「毛利も、味なことをするわい」

道雪は隆景の粋な計らいに微笑んだ。

5月18日、毛利軍4万は多々良川を渡り、吉川、小早川勢を主体とする15段備えの陣形で、大友軍に攻め込む。

大友軍は戸次、臼杵、吉弘勢の1万5千を3手に分けて先陣とし、脇備えに志賀、田原、朽網、一万田ら豊後勢と、筑前、筑後の国衆2万を配置した。

「プォー、プォー・・・。プォー・・・」

法螺貝の音とともに、両軍合わせて7万5千人となる九州最大規模の合戦が幕を開け、激しい銃撃戦が始まった。

銃撃の隙間を縫って、吉弘隊が長槍で突進すると、その後を臼杵隊が騎馬で突入する。

しかし、戸次隊は戦闘態勢をとったまま、動く気配がない。

臼杵隊、吉弘隊は、小早川勢の強い押し出しに耐え切れず、後退を始める。

「このまま、押し切れー!!」

小早川勢は、箱崎付近まで大友軍を追い詰める。

「今だ、撃てー、撃てー!!」

道雪の掛け声で、8百挺の鉄砲を二手に分けた戸次勢の二段射撃が始まった。

「かかれぇー!!」

鉄砲で乱れた小早川勢をめがけて、長槍隊が突進する。

戸次勢に側面を突かれた小早川勢は混乱し、陣形が崩れていく。

「引くな、引いてはならぬ。逃げる奴は斬る!!」

隆景は懸命に叫び、態勢を立て直そうとする。

「戸次勢に続け!!」

大友軍は、一斉に津波のように毛利軍めがけて殺到する。

隆景は追撃する大友軍を振り切りながら、多々良川を越えて退却した。

「戸次道雪、敵ながら見事じゃ・・・」

この戦いで手痛い打撃を受けた隆景は、あらためて、道雪の戦術に感服させられた。

道雪は、戦国屈指の名将と褒めたたえられ、甲斐の武田信玄が対面を希望したという逸話もある。

その後、両軍は多々良川を挟んで18回の戦いを繰り返すも、決着はつかず膠着状態が続く。



5.毛利軍の撤退

多々良川を挟んで大友軍と毛利軍の睨み合いは、春から秋にかけて半年に及んだ。

9月になると、吉岡宗歓が多々良川の前線を離れ、宗麟の本陣(高良山)を訪れた。

「ようやく、元就が関門海峡を渡りました。そろそろ、詰めに入る時では・・・」

「そうか、すぐに豊後へ帰る。理由は、病だ!!」

宗麟は、持病が悪化したと称して、宗歓を伴い密かに豊後へ引き揚げる。

宗歓は本陣を訪れる前に、戸次道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を呼んで、秘策を打ち明けていた。

「御屋形様は、病のため豊後へお戻りなる。毛利に撤退の気配があれば、すぐに追い打ちをかけ、殲滅して下され」

「御屋形様が病とは・・・? さては、知恵熱が出ましたかな・・・?」

「あっ、はっ、は、は、は、・・・」

一同は大笑いした。

「毛利の本隊がこの地に留まっておれば、国元は手薄でござろうな・・・」

「宗歓殿、まさか御屋形様が空き巣に・・・」

「なるほど・・・、了解した。作戦が成功することを祈る」

後に「豊州三老」と呼ばれる道雪、鑑速、鑑理は、宗歓の考えをすぐに理解し、それぞれの役割を確認した。

豊後に戻った宗麟は、客将として保護している大内一族の輝弘(大内氏第14代政弘の次男、高弘の子)を呼んだ。

「輝弘殿、いよいよ、大内氏再興の時が来ましたぞ!!」

輝弘の父、高弘は大内義興の弟だったが、義興に謀反を起こして失敗し、豊後国に亡命していた。

高弘の死後、輝弘は、父の悲願であった大内氏の再興を虎視眈々と狙っていた。

「毛利軍が筑前に釘付けになっている今、海路で山口に乗り込み、大内の旧領を取り戻して下され」

と、宗麟は足利将軍家から手に入れた大内家督相続の認可状を輝弘に渡した。

「大友殿のご恩は、生涯忘れません」

10月11日、輝弘は、大友よりの援兵6百を引き連れ、若林鎮興率いる百艘の大友水軍に護衛され周防灘に面する秋穂(山口市南東部)に上陸する。

山口に進軍する輝弘のもとには、大内氏の旧臣が馳せ参じ、兵は3千まで膨らみ、その勢いで旧大内館を占領し、高嶺城(こうのみねじょう)を攻める。

また、時を同じくして、山中鹿之助に擁立された尼子氏の遺子、尼子勝久は、宗麟の援助を受け、5千の兵で旧領の出雲に侵入し、月山富田城に進軍する。

「大内輝弘が山口で兵を挙げ、旧領奪回の動きあり!!」

「出雲に尼子勝久が出現、月山富田城に進軍中!!」

この知らせを聞いた毛利元就は動転した。

「なんと、宗麟に一杯食わされたか・・・」

元就は、目の前の大友軍よりも、山口の大内の方が心配であった。

「立花山は捨て置き、即刻、山口へ戻る!!」

元就は、71歳の老体に鞭打って、筑前進出を図ったが、涙を呑んで撤退命令を下した。

12月15日、寒風吹き荒れる中、毛利軍は吉川元春が殿(しんがり)となって、毛利軍の撤退が始まった。

毛利軍撤退の状況を見た大友軍は、背後から襲いかかる。

立花山城の浦宗勝と桂元重は、2百の兵とともに毛利の捨て石となる覚悟で残留した。

横殴りの激しい風雪の中、新宮から古賀、津屋崎を経て芦屋へと続く毛利軍の退却は逃亡ともいえる厳しく苦しいものであった。

追撃戦で意気上がる大友軍と逃げ帰る毛利軍の戦意の差は大きく、毛利軍は多くの兵を失う。

討ち取られた将兵は、3千5百人にも及んだという。

立花山城を守っていた浦、桂の両将は、毛利本隊の退却を見届けると、城を開け渡し、大友軍に投降した。

総大将の道雪は、先の籠城戦で味方の兵が助命された恩を返すため、城に残留していた毛利の将兵を丁重に扱い、毛利へ送り届ける。

山口では、毛利の本隊が九州から帰還したとの噂が広まると、大内家再興を掲げる輝弘のもとに集まった多くの兵が、いつの間にか離散してしまった。

「所詮、寄せ集めの兵か・・・。大友殿を頼るしかあるまい」

輝弘は再起を図ろうと、海路で豊後への脱出を試みるが、追いつめられて富海(とのみ、現在の防府市)の茶臼山で自害する。

輝弘を討ち取った毛利軍は出雲へ出陣し、布部山の戦い(島根県安来市広瀬町布部)で尼子軍を撃退する。

元亀2(1571)年6月、多々良川の合戦から3年後、毛利元就が吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)において死去する(享年75歳)。

毛利氏は孫の輝元が後を継ぐが、中国地方へ勢力を伸ばし始めた織田信長との新しい戦いが始まり、再び九州へ上陸することはなかった。

10年以上続いた大友氏と毛利氏の筑前、豊前における覇権争いは大友氏が勝利する。

立花山城は戦功のあった道雪に任され、それに伴って名を立花道雪と改める。

宗麟は、多々良川の合戦(永禄12年)から耳川の合戦(天正6年)までの10年間、名実ともに北部九州6ヶ国の支配者となり、大友氏の黄金期を築き上げる。



作成 2019年 3月13日 水方理茂



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