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石垣原の合戦
石垣原の合戦

 鎌倉時代から約400年続いた大友氏は、22代義統(よしむね)の時、朝鮮出兵時の不始末を問われ豊臣秀吉によって改易される。その秀吉が亡くなると、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)は天下分け目の「関ケ原」へと突き進む。西軍方に付いた義統は、大友氏再興の夢を賭けて、再び豊後の地を踏み、立石(別府市南立石)で挙兵する。これに対し、東軍の黒田、細川軍も素早く動き、実相寺山で大友軍と対峙した。
 慶長5(1600)年9月13日、両軍は石垣原(別府市荘園町)で激突する。大友軍は吉弘統幸の活躍で優勢に戦いを進めるが、数に勝る黒田、細川軍が徐々に巻き返し、統幸は境川付近で討ち死にする。統幸の死で大友軍は壊滅し、総大将の義統は黒田如水に降伏した。
 義統は徳川家康のもとに送られた後、常陸国宍戸(ししど)に幽閉され、その地で慶長15(1610)年に波乱の生涯を閉じる。
 以上が、九州の関ケ原といわれた『石垣原の合戦』の顛末である。

 ※詳しくは、戦記_石垣原の合戦温泉名人に挑戦をご覧ください。

(2011年12月25日作成)


大友義統本陣跡
別府市南立石本町

慶長5(1600)年9月、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)の間で「関ケ原の戦い」が勃発する。豊後を改易されていた大友義統は、大友氏再興の夢をかなえるため、西軍として再び豊後の地に足を踏み入れ、立石で挙兵する。杉乃井ホテル北側の天満社付近に義統の本陣跡の石碑がある。

(2011年12月撮影)


吉弘統幸陣所跡
別府市南立石1区

吉弘統幸は大友氏改易の後、従兄弟の立花宗茂(福岡県柳川市)のもとに身を寄せていた。統幸は、豊臣秀吉が亡くなり「関ケ原の戦い」が始まると、旧主の大友義統の挙兵に参加する。杉乃井ホテルに向う坂道の途中、大友軍の右翼を担った統幸の陣所跡の碑が立っている。

(2011年12月撮影)


杵築(きつき)
杵築市杵築16−1

杵築城は大友一族である木付氏の居城であったが、大友氏の改易に伴い亡び、松平氏のものとなる。現在の城郭、町並みは松平氏の時代に築かれたものである。なお、地名が木付から杵築になったのは、幕府の朱印状が、誤って「杵築」と記されたことによる。大友氏再興を賭けた石垣原の合戦は、この城の攻防戦から始まる。

(2011年12月撮影)


実相寺(じっそうじ)山
別府市実相寺周辺

写真の右が実相寺山(じっそうじやま、仏舎利塔がある)で、左が角殿山(かくどのやま、現在のルミエールの丘)になる。石垣原の合戦では、黒田、細川連合軍が立石に陣を構えた大友軍に対峙するため、実相寺山と角殿山に陣を敷いたとされる。

(2011年12月撮影)


石垣原古戦場跡
別府市荘園町3組

大友軍と黒田、細川連合軍は境川を挟んで激しく激突する。特に「忠内(ちゅうない)ケ堀」が激戦の地と言われ、その場所と思われる所に「石垣原古戦場跡」の石碑がある。古戦場跡には「石垣原合戦殉節烈士の碑」が建てられ、戦で亡くなった兵士の供養が行われている。

(2011年12月撮影)


七ツ石稲荷大明神
別府市荘園町2組

石垣原古戦場跡から約300m東南に下ったところに七ツ石稲荷大明神がある。ここが、大友軍の武将、吉弘統幸が最後を遂げた場所と云われている。統幸は、黒田軍の井上之房との槍の一騎打ちに敗れ、この地で自害したとされる。奥に「別府八湯・温泉道」に選定された「七ツ石温泉」がある。

(2011年12月撮影)


吉弘神社
別府市石垣原西6丁目

大友軍は吉弘統幸の死で壊滅し、総大将の大友義統は黒田如水に降伏する。戦の後、村人が統幸の遺骸をこの地に埋葬し、弔っていたが、大正11(1922)年に墓所の前に社殿が建てられ、現在の吉弘神社となる。社殿の裏手にある板碑が統幸の墓と云われる。傍の石碑は、細川氏に仕えた次男によって建てられたという。


(2011年12月撮影)


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