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1.大友氏の改易

鎌倉時代から約400年続いた豊後大友氏は、22代義統(よしむね)の時、豊臣秀吉によって改易されてしまう。

大友氏は、キリシタン大名として有名な宗麟(義統の父)の時代に黄金時代を築き、九州の覇者に登り詰めた。

天正6(1578)年、宗麟から家督を継いだ義統は、南九州で台頭してきた薩摩の島津氏と九州の覇権を賭けて日向の高城川で戦い(耳川の合戦)、大敗を喫する。

この戦に敗れた大友氏は九州での勢力を徐々に失い、覇権は島津氏に移っていく。

天正14(1586)年、島津氏による豊後侵攻が始まると、大友氏は家臣達の相次ぐ離反で滅亡の危機を迎える。

この危機に際し、隠居の身であった宗麟は老体に鞭打って大坂城に赴き、豊臣秀吉の援助を取り付けた。

義統は、秀吉から援軍として派遣された四国連合軍とともに、豊後に攻め入った島津軍と戦うが、戸次川の合戦(大分市中戸次)で敗れてしまう。

戸次川で敗れた義統は府内(大分市)を退去し、高崎山(大分市、野生のニホンザルで有名な高崎山自然動物園)に籠もって抵抗するかと思われたが、豊前の龍王城(宇佐市安心院町龍王)まで逃れた。

平時は府内の大友館で居住し、敵の侵略などの緊急時には高崎山に籠って戦うのが大友氏の通例とされていたので、義統の行動は敵前逃亡と見られても仕方が無かった。

島津軍は府内を手中に収め、豊後の大半を占領したが、宗麟が臼杵城(臼杵市)、佐伯惟定が栂牟礼城(佐伯市)、志賀親次が岡城(竹田市)で抵抗を続け、秀吉軍の救援を待った。

天正15(1587) 年、豊臣秀吉の本隊が九州に上陸すると、形勢は一気に逆転し、島津軍は豊後から撤退する。

島津氏の当主、義久は薩摩に退いて豊臣軍を迎え撃とうとしたが、圧倒的な兵力の差を悟り、ついに降伏した。

こうして、義統は秀吉から豊後一国を安堵(あんど)され、島津軍によって蹂躙(じゅうりん)された豊後を取り戻すことが出来た。

その頃、義統の父である宗麟が、津久見の館で58歳の生涯を閉じる。


天正18(1590)年、天下を統一した秀吉は「唐入り(1592〜1597年に行われた文禄、慶長の役)」と称して、16万の大軍を動員して朝鮮に侵攻する。

大友義統も第3軍の黒田長政配下として、6千の豊後兵を率いて文禄の役に出兵した。

文禄2(1593)年正月、平壌(ピョンヤン)まで進攻した小西行長軍は、明の援軍20万の攻撃を受け窮地に立つ。

行長は、後衛として大同江南方の黄州に布陣していた義統に救援を要請したが、義統はその救援を行わず黒田陣に退却してしまった。

窮地を脱して逃げ延びた行長は、義統のとった行動に憤慨し、このことを直ぐに秀吉に報告する。

これを聞いた秀吉は激怒し、義統を「豊後の臆病者!」と罵(ののし)り、遂に改易処分にしたのである。

秀吉の示した改易理由は、朝鮮での戦線離脱のみならず、天正14年の島津軍侵入に際して、豊前の龍王城まで逃亡したという過去の不始末も含まれているものだった。

秀吉が、過去の事例まで引き合いに出して義統を改易したのは、それなりに計算があったものと思われる。

つまり、義統が一国を預ける器で無いことを見抜いており、家臣らの恩賞とし与えるための領土として、豊後を手に入れる口実を探していたのだ。

なぜなら、文禄の役では小早川秀包、黒田長政も小西行長の救援を断っているが、両者には何の咎めは無かったのである。

改易後、剃髪(ていはつ)して宗巌(そうがん)と改名した義統は毛利輝元(山口市)に、嫡男の義乗(よしのり)は加藤清正(熊本市)に預けられた。

朝鮮に出兵中の大友軍は、現地で生駒近則、蜂須賀家政、黒田長政、福島正則、戸田民部、立花宗茂、毛利吉成等に配分された。

しかし、大友氏譜代の家臣の中には、こうした処置に反発し、病と称するなどして、帰国するものが少なくなかったという。

その後、義統は豊後から遠く離れた佐竹義宣(水戸)に預けられ、義乗は徳川家康(江戸)に預けられることになる。

秀吉は豊後を直轄地とした後、七つの藩に分割して豊臣恩顧の家臣達に分け与えた。

これで、豊後は長年続いた大友氏の支配が終わり、小藩分立の時代になっていく。



2.義統豊後に下る

慶長3(1598)年8月、天下人として権力を振るい、大友氏を改易に陥れた豊臣秀吉が没する。

秀吉の死後、大友義統は赦免され自由の身となり、江戸にいる嫡男義乗(よしのり)の元に身を寄せた後、側室と息子の正照(まさてる)を伴い上洛した。

上洛した義統は、豊臣の家臣増田長盛(ました・ながもり)の配慮により大坂天満に居を得ることが出来た。

改易されてから、住居も定まらぬ苦しい生活を強いられていただけに、増田の支援は、義統の豊臣方への帰順(きじゅん)に少なからぬ影響を与えたものと考えられる。

慶長5(1600)年6月、徳川家康は会津の上杉景勝征伐のため伏見城を出発する。

8月1日、石田三成は家康の留守を狙って伏見城を攻め落とし、天下分け目の「関ケ原の合戦」へと突き進んでいく。

このような政治情勢の中で、義統は大友氏再興の命運を賭けて豊臣(西軍)、徳川(東軍)のどちらを選ぶかの厳しい選択を迫られる。

江戸にいた嫡男の義乗は、家康の会津征伐に従軍しており、義統自らも家康の尽力により赦免されたこともあって、義統の東軍への帰順は当然と思われていた。

しかし、西軍の石田三成から、

「旧領の豊後を与えるので、我らの味方となって豊後へ赴き、豊前、豊後の地から東軍を駆逐してもらいたい」

と言う甘い言葉で、巧みに説得されると、

「豊後を頂けるのであれば、・・・。早速、旧臣を招集し、豊後に向かいましょう」

と喜んで、承諾する。

西軍の実質的な総大将である石田三成は、九州の名門である大友氏を味方にすることで、九州での戦いを有利に導きたい思いがあった。

三成の戦略は、豊後に入った義統が小倉の毛利氏(西軍)と組み、中津の黒田氏(東軍)を攻撃して豊前、豊後を手中に収め、その勢いで、筑後、肥前、薩摩と連携し、肥後の加藤清正(東軍)を包囲するというものであった。

ところが、家康も三成の戦略を予想し、豊後に東軍のクサビを打ち込むことを忘れていなかった。

そのクサビとは、福原直高(石田三成の妹婿)の改易で空白になっていた豊後の速見郡5万石を丹後宮津の領主細川忠興(ただおき)に飛び地として与えた事である。

忠興は、木付城(現在の杵築城)に重臣の松井康之(やすゆき)を城代として置き、西軍に睨(にら)みをきかせていた。

松井は千利休や津田宗及と並ぶ茶人としても知られ、子孫は肥後熊本藩(細川氏)の筆頭家老となり、代々肥後八代城主を努めている(一国一城制の例外として)。

この細川氏の豊後進出は、豊前、豊後の勢力関係に大きな影響を与えた。


慶長5(1600)年8月、大友義統は旧領回復の夢を抱いて豊後に向かう。

大坂を発つ義統には、豊臣秀頼から武具百領、長槍百本、鉄砲三百挺、銀千枚、馬百頭が贈られたという。

義統が豊後に向うという知らせは、瞬(またた)く間に中津城の黒田如水(孝高、通称官兵衛、秀吉の軍師として知られる)や義統の旧臣のもとに届いた。

義統は豊後へ向う途中、周防の上関(山口県熊毛郡上関町)に滞在していた時、

「東軍に味方するように」

と、如水から勧められたが、断っている。

また、柳川の立花宗茂(むねしげ)のもとに身を寄せていた旧臣の吉弘嘉兵衛統幸(よしひろ・かひょうえ・むねゆき)も、徳川軍に従軍している義乗のもとに向かう途中、上関で義統に謁見し、東軍に味方することを進言した。

統幸は、大友宗麟(義鎮)を支えたことで有名な「豊州三老」の一人、吉弘鑑理(あきまさ)の孫で、曾祖父は「勢場ケ原の合戦」で討ち死にした吉弘氏直である。

父の鎮信は耳川の合戦(島津との戦い)で討ち死、叔父の高橋紹運(じょううん)は岩屋城の戦い(島津との戦い)で玉砕している。

立花道雪(どうせつ)の養子になった立花宗茂は紹運の実子なので、統幸の従兄弟になる。

吉弘氏は、大友一門の中でも最も「死をも恐れぬ凄まじい忠誠心」の一族と言われている。

統幸は、旧主の義統に会うと、

「大友家を改易に追い込んだ豊臣に味方するより、殿の赦免に尽力された徳川殿に付く方が道理かと・・・」

と、進言した。

しかし、義統は納得せず、

「石田殿は、旧領豊後を約束してくれた。それに比べ、徳川殿は何も言ってこないではないか・・・」

と、旧領回復の好機が得られたことを告げる。

「しかし、石田殿では天下は収まりませぬ。約束は、かなわぬかと・・・」

と、統幸は西軍の不利を説明したが、

「わかっておる。それでも、可能性に賭けたい。是が非でも豊後に戻りたいのじゃ・・・」

と、義統の意志は変わらなかった。

義統の豊後への思いを聞いた統幸は、

「それほどまで、豊後に・・・。わかりました、お供させて頂きます」

と、共に豊後へ向う決意をする。

義統は、毛利氏から用意された船に乗り、旧臣達とともに期待に胸躍らせて豊後へ向かった。



3.立石布陣

慶長5(1600)年9月9日、豊後の浜脇(別府市)に上陸した大友義統主従は、立石(別府市)に陣を構える。

立石が大友氏にとって縁起の良い場所だと云うことは、大友主従の誰もが知っていた。

鎌倉幕府から豊後守護職を任じられた大友の初代能直(よしなお)は、弟の古庄重能(ふるしょう・しげよし)を代官として豊後に派遣した。

重能は船で浜脇に上陸し、立石に陣を構え、大友氏の入国に抵抗する土着の大神(おおが)氏一族を制圧し、豊後を平定したという。

また、義統の父宗麟(義鎮)は、府内で起きた「二階崩れの変」を滞在中の浜脇で聞くと、すぐに立石に退いて陣を構え、事態を収拾し、家督を継いだとされる。

義統の呼び掛けに応じて、旧家臣を中心にどれだけの兵力が結集したのかは定かではないが、合戦まで僅か3、4日ということを考えると、千人を超える兵力の結集は困難と思われる。

駆けつけた旧臣の中に、岡城の中川氏に仕えていた田原紹忍(しょうにん)と宗像掃部助鎮続(むなかた・かもんのすけ・しげつぐ)がいたことは、義統にとって心強かった。

紹忍は義統の叔父(母の兄)にあたり、耳川の合戦(島津との戦い)敗北の責任を取って退くまでは、加判衆(重臣)の筆頭を務めていた。

また、紹忍は戦いを有利に進めるため、中川氏の旗、差物を多数用意し、中川氏の合流を偽装する。

これは、後で大きな問題になり、中川氏は窮地に立たされ、潔白の証を立てるため多くの犠牲を払うことになる。

立石に入った大友軍は、現在の杉乃井ホテルの施設が並ぶ高台に、義統の本陣を中心に吉弘勢が右翼を、宗像勢が左翼を固めるように布陣した。

 ・義統の本陣:杉乃井ホテルの北側にある天満社付近

 ・吉弘の陣:杉乃井ホテルに向う坂道途中のみゆき坂展望台

 ・宗像の陣:堀田に向う高架橋(高遠道路上にある)周辺

大友軍が布陣した立石の高台は、後方は断崖絶壁と朝見川が堀をなし、前方に別府湾と石垣原の原野を見渡せるという天然の要害である。

これから見ると立石布陣は、事前に豊後の旧臣と緊密な連絡を取り、持久戦をも視野に入れた戦略的な計画であったと考えられる。



4.木付城攻撃

木付城(現在の杵築城)は、明徳4(1393)年に大友一族の木付頼直(よりなお)によって築かれ、木付氏の居城とされていた。

城は八坂川河口の断崖に築かれ、三方を海と川に囲まれた堅固な城で、天正14(1586)年の島津との戦いでは、島津の大軍を退けている。

なお、この地が木付から杵築へ表記変更されたのは、6代将軍徳川家宣より与えられた朱印状に、誤って「杵築」と記されたのが始まりと云われている。

大友氏の改易に伴い木付氏も亡びると、城は福原直高(石田三成の妹婿)に与えられていた。

福原直高は、豊臣秀吉の死後、朝鮮の役での裁量をめぐり、武断派から糾弾され、徳川家康によって改易される。

その後、木付城は、丹後宮津城主の細川忠興(ただおき)に飛び地として与えられ、細川家重臣の松井康之(やすゆき)が城代として守っていた。

大友義統(よしむね)が豊後に向うとの連絡を受けた木付城では、領内の庄屋や百姓頭らが義統に協力するのを防ぐため城内に引き入れ、城の防備を固めた。

立石に布陣した義統は、早速、軍議を開く。

「集まった兵は1千に満たないが、旧臣達への連絡に抜かりは無いか?」

と、義統が尋ねると、

「連絡しておりますが、武士を捨てて、帰農した者がほとんどでございますので・・・」

と、叔父の田原紹忍(しょうにん)が申し訳なさそうに答えた。

大友氏が改易になった後、他家に仕官出来た者は僅かで、旧臣のほとんどが地元で帰農し、庄屋や百姓頭として生き延びる道を選んだと云う。

「そうであったか、皆に苦労をかけたのう・・・」

と、義統は皆に詫びるように言った。

すると、吉弘統幸(むねゆき)が立ち上がり、

「黒田軍が動き出す前に、木付城を占領しましょう。そうすれば、大友方の力を誇示することになり、動揺する豊後の領主達を味方に付けるとともに旧家臣団の結束にも弾みがつきます」

と、木付城への先制攻撃を説いた。

「しかし、木付城には、別府、日出、杵築周辺に住む旧臣達が、人質として閉じ込められているが・・・」

と、宗像掃部助が慎重論を述べた。

それに対し、統幸は、

「城内の人質とは連絡がついており、我らが攻撃すれば、中から手引する手筈になっています」

と、攻撃作戦について述べた。

「よし、木付城を攻撃する。大将は統幸に任せる」

と、義統が言うと、木付城攻めが決定した。

9月10日の夜、吉弘統幸は2百名の兵を率いて、木付城攻撃に向かう。

人質として二の丸にいた野原太郎右衛門の手引きで、城下に火が掛けられると、夜明けから戦闘が開始された。

統幸は人質となっていた旧臣達を救い出し、本丸の攻撃に迫ったが、木付城側も松井康之(やすゆき)がふんばり、城を死守していた。

その時、偵察からの知らせが入る。

「黒田軍2千の兵が、こちらに向っています」

中津城の黒田如水(じょすい)は、義統の浜脇上陸を聞くと、すぐに、時枝平太夫鎮継(しげつぐ)、井上九郎右衛門之房(ゆきふさ)らを先発隊として木付城に向わせていた。

知らせを聞いた統幸は、

「さすが如水殿、動きが早い・・・。背後を襲われては、危ない!!」

と、つぶやくと、すぐに退却命令を出す。



5.黒田、細川軍が実相寺に布陣

大友勢が木付(杵築)城から撤退してから、黒田軍の先発隊が木付城に到着する。

黒田軍先発隊の時枝(ときえだ)平太夫は、城に入ると

「大友勢は、我らに恐れをなして逃げたか・・・。どうせ、寄せ集めの雑兵どもであろう。恐れるに足らず!」

「このまま、間髪を入れずに、大友の本陣を攻めようではないか」

と、進軍を主張した。

時枝は、豊前の時枝城(宇佐市大字下時枝)を本拠とする国人で、大友の勢力が強いときは大友に帰順し、勢力が弱くなると叛旗を示していたが、黒田氏が豊前を治めるようになってからは黒田氏に仕えていた。

「しかし、大殿(如水)から、本隊の到着を待つようにと・・・」

と、井上九郎右衛門が言ったが、武勇を誇る黒田の諸将は、時枝の主張に従った。

こうして、黒田の先発隊は如水の指示に反して、大友軍のいる立石(別府市)に兵を進める。

木付城を守る松井康之も、僅かな兵を城の守りとして残し、3百の細川勢を率いて黒田先発隊に続いて出陣する。

立石に向った黒田、細川の両軍は鉄輪(かんなわ)で合流し、大友の本陣が望める実相寺(じっそうじ)山周辺に布陣した。

井上九郎右衛門、野村市右衛門ら黒田軍の2番隊が角殿山(かくどのやま、現在のルミエールの丘)、松井が率いる細川軍が実相寺山(現在、山頂に仏舎利塔が建っている)に陣を敷く。

そして、時枝平太夫、母里太兵衛らが率いる黒田軍の1番隊が、先陣として実相寺山と角殿山の間道から石垣原に向かって進む。



6.黒田軍の敗走

当時、石垣原は立石から実相寺に広がる原野で、大友本陣から黒田、細川軍の陣までは、直線距離で約2キロメートル(徒歩で約1時間)ある。

黒田、細川軍が杵築を出発し、鉄輪(かんなわ)に到着した頃、大友の偵察はその動きを察知して、狼煙を上げて襲来を本陣に知らせた。

吉弘統幸は、狼煙(のろし)が上るのを眺めながら、

「いよいよ来たか。これが最後のご奉公となろう・・・」

と言うと、義統に会うため本陣に向かう。

統幸は、義統の前に進み出て拝礼すると、

「如水(じょすい)殿が相手では、苦戦となりましょう。ご恩に報いる為、死を賭けて戦う覚悟です。これが、最後のお別れになるやも・・・」

と、涙をこらえながら、出陣の挨拶をした。

義統は統幸に近寄り、手を握りながら

「これまで、本当に良く仕えてくれた。そなたを家臣に持てたことが、私の誇りである。頼り無い主君で申し訳なかった・・・」

と、涙ながらに言葉をかけた。

統幸は、袖で涙を拭うと、

「では、・・・」

と、再度、拝礼をして、石垣原へ下って行く。

13日、統幸は100人で編成する鉄砲隊を率いて、実相寺山麓の原野に潜み、黒田、細川軍の到来を待ち伏せる。

黒田1番隊が、先陣を切って石垣原に向おうとした時、前方の草むらから一斉に鉄砲が放たれた。

不意を突かれた黒田1番隊は、退却しながら応戦する。

そこへ、鉄砲の音を聞いた実相寺山の細川軍、角殿山の黒田2番隊が、急いで山を駆け下りて、戦闘に加わる。

実相寺山と角殿山から下りてきた兵の加勢により、不利になった大友勢は、立石へ敗走を始める。

「敵は恐れをなして逃げるぞー。逃すなー!!」

と、時枝(ときえだ)が叫ぶと、黒田1番隊は敗走する大友勢を追撃する。

細川軍の松井康之も、大友勢を追撃しようとしたが、黒田2番隊の井上九郎右衛門が駆けつけ、

「敵の敗走には、策があるものと見る。ここは立ち止まって、様子を見たほうが良い」

と、引き止められたので、それに従った。

すると、井上の言ったとおり、立石に退く大友勢を追った黒田1番隊は、側面から宗像掃部助が率いる伏兵の攻撃を受ける。

突然の伏兵に黒田1番隊は、混乱した。

黒田1番隊が乱れ始めると、それまで敗走していた統幸は、反転して、本陣からの援軍とともに黒田1番隊を攻め立てる。

黒田1番隊は総崩れになったが、猛者で知られる母里太兵衛友信(ぼり・たひょうえ・とものぶ)らが防戦し、忠内ケ堀(ちゅうないがほり、現在の古戦場橋付近)まで退きながら何とか食い止める。

母里は、黒田如水が精鋭の家臣を選んだ「黒田24騎」の中でも、特に優秀な「黒田八虎(はっこ)」の1人であり、福島正則から「日本号」と呼ばれる名槍を呑み取った「黒田武士」のモデルとしても知られる。

双方、一歩も引かず激戦となったが、大友勢の勢いに押された黒田1番隊は劣勢となり、久野次左衛門、曽我部五右衛門が討死した。

「ひるむなー、逃げる者は斬るぞ!!」

と、時枝は味方に檄を飛ばしていたが、

「時枝殿、このままでは無理じゃ。ひとまず退却としよう」

と言う、母里の言葉に従い、退却命令を出す。



7.壮烈な統幸の死

今度は、大友軍が敗走する黒田勢を追って実相寺近くまで追撃し、実相寺山麓の細川勢に攻撃を仕掛けた。

大友軍は細川軍の守りが堅いと見ると、攻撃の矛先を細川軍に変えて攻め込む。

吉弘統幸は馬上より大太刀を振るい敵陣に切り込むと、黒田軍の武将、小田九朗左衛門を槍の一騎打ちで討ち果たすなど奮闘した。

しばらくして、角殿山の黒田2番隊と細川勢が参戦すると、形勢は逆転する。

大友勢は死に物狂いで戦ったが、数に勝る黒田、細川軍に圧倒され、宗像掃部助ら、多くの武将が討ち死にした。

統幸は多くの切り傷を負いながらも孤軍奮闘し、軍勢を立てなおすため、石垣原へ後退しようとしていた。

その時、黒田軍の武将で旧知の間柄であった井上九郎右衛門に出会う。

井上は、母里太兵衛と共に「黒田八虎(はっこ)」の1人に数えられ、槍の名手として知られる。

「井上殿、久しぶりでござる。お手合わせ願おう!」

と、統幸が声をかけると、

「統幸殿、久しぶりじゃ。槍(やり)でお相手致そう!」

と、井上は十文字の槍を持って駆け寄る。

統幸も豊後一を誇る槍の名手として知られていた。

統幸の突く槍は、井上の胸板に幾度も当たるが、鎧(よろい)を突き抜けるまでには至らなかった。

井上の槍が統幸の左頬(ほお)をかすめた時、十文字槍の横槍で兜(かぶと)がずれ、視界が塞がる。

「隙有り!」

と、叫ぶと同時に、井上の槍は統幸の左脇腹を突いていた。

「不覚であった・・・」

「もはや、これまでか・・・」

と、統幸は脇腹を押さえて、馬上にうずくまったまま、馬を走らせた。

「追えー!!」

井上は、逃げる統幸を追わせた。

深手を負った統幸は、やっとのことで境川付近(七ツ石稲荷大明神)までたどり着くと、横たわる石に登り、

「我は、大友義統が家臣、吉弘統幸なり。我が首取って手柄にせよ!!」

と叫ぶと、腹を十文字に掻き切って自害する。

この時、統幸は37歳であったという。

彼もまた武門の誉れ高い吉弘一族の忠義の将であった。

こうして、正午から午後6時にかけて約6時間行われた合戦は、黒田、細川軍の勝利に終わる。



8.大友義統降伏と戦後処理

9月13日、立石に向っていた黒田如水の本隊は、日出(ひじ)町の豊岡あたりに来て、黒田、細川軍勝利の知らせを聞く。

翌14日、実相寺に到着した如水は軍議を開き、大友軍の首実検(討ち取った首の主を確認する)の後、立石攻略戦と降伏勧告について協議した。

それに先立ち大友義統は降伏の意を固め、黒田軍の武将で、妹婿でもある母里太兵衛のもとに田原紹忍を派遣して仲介を依頼する。

一説には、義統は自害を企てたが、叔父の紹忍に止められ、降伏することにしたといわれる。

その日の夕刻、義統は海雲寺で剃髪し、部下10名と共に如水の本陣に出頭した。

黒田氏の軍門に下った義統は、常陸国宍戸(ししど)に幽閉され、その地で慶長15(1610)年に波乱の生涯を閉じる。

義統の後、大友氏は嫡男の義乗(よしのり)が後を継ぎ、高家(こうけ)として存続する。

高家とは老中に属し、幕府の典礼儀式を司る役職であり、武田、畠山、吉良氏等と共に名門の者が世襲するものとされた。

また、次男の正照(まさてる)は姓を松野に改めて、肥後熊本藩(細川氏)に仕えることになる。

石垣原合戦の終わった翌9月14日、中央でも天下分け目の「関ヶ原の合戦」が行われ、これも一日で決着し徳川家康の覇権が確立する。

戦後の処理は苛酷を極め、改易(所領没収)された大名は90家(約438万石)、減封4家(約221万石)にのぽり、新たな大名配置が強行された。

大分県域二豊の主な大名異動は次のようであった。

 ・黒田長政 : 豊前中津 → 筑前福岡
 ・細川忠興 : 丹後宮津 → 豊前中津
 ・稲葉貞通 : 美濃八幡 → 豊後臼杵
 ・木下延俊 : 播磨姫路 → 豊後日出(速見)
 ・竹中重利 : 豊後高田 → 豊後府内(大分)
 ・毛利高政 : 日田(隈府)→ 佐伯
 ・来島長親 : 伊予来島 → 森(玖珠)
 

 ・早川長政 : 豊後府内 → 改易
 ・大田一吉 : 豊後臼杵 → 改易
 ・熊谷直陳 : 豊後安岐 → 改易
 ・垣見家純 : 豊後富来 → 改易



作成 2011年12月25日 水方理茂


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