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 弘治3(1557)年、中国地方の雄として知られた大内氏が滅亡する。大内氏が滅ぶと、その旧領は大友義鎮(後の宗麟)と毛利元就によって二分された。大友氏が豊前と筑前、毛利氏が周防と長門を手中に収め、国境を接するようになると、両者の直接対決は避けられないものになっていく。
 永禄元(1558)年、元就は大友氏が支配していた門司城を奪い、九州への侵攻を開始する。九州の玄関口である門司城は、博多と堺を結ぶ航路となる関門海峡を眼下に望める重要拠点であった。永禄4(1561)年、義鎮は門司城を奪還するため、1万5千の大軍を率いて豊前に出陣した。大友軍は毛利氏の守る門司城を激しく攻め立てるが、逆に毛利水軍によって背後を突かれ、撤退する。
 永禄7(1564)年、義鎮と元就は将軍足利義輝の調停によって和睦する。そして、義鎮は南蛮貿易で得た財力を使って、朝廷や幕府を味方につけるという外交力によって豊前と筑前を取り戻した。
 しかし、元就は出雲の尼子氏を降伏させると、再び九州に侵攻し、大友氏と激しい戦いを繰り広げることになる。
 

 ※詳しくは、戦記_門司城攻防戦門司港レトロを散策をご覧ください。

(2017年3月26日作成)


松山城祉
福岡県京都郡苅田町大字松山

東九州道の苅田北九州空港ICを降りて北九州空港に向かう道路の途中、右手に小高い山があるのに気が付く。それが、松山城祉である。戦国時代、この城の支配権をめぐって大友氏と毛利氏が争った。永禄4(1561)年8月、大友義鎮は門司城を奪還するため、1万5千の大軍を率いて豊前に出陣し、この松山城を本陣として指揮を執った。
(2015年11月撮影)


門司城 本丸跡
福岡県北九州市門司区字古城山

元暦2(1185)年に平知盛が源氏との合戦に備えて、この山に城を築いたのが始まりと云われる。山頂(標高175m)からは、北側に関門海峡、南側には門司港周辺の街が望める絶景の場所である。戦国時代、この城を支配していた周防の大内氏が滅びると、豊後の大友義鎮と安芸の毛利元就の間で、城の争奪戦が幾度となく繰り広げられた。

(2015年11月撮影)


本丸から関門海峡を望む
福岡県北九州市門司区字古城山

本丸跡から北西方向に目を向けると、関門橋を眼下に望める。この橋は関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と北九州市門司区門司(和布刈地区)を結んでいる。古来より、この海峡は日本海と瀬戸内海を結ぶ運河のような役割を果たし、大陸(中国、朝鮮)貿易の中心地だった博多と自由都市の堺を結ぶ海上交通の要所であった。

(2015年11月撮影)


関門海峡から門司城址を望む
山口県下関市みもすそ川公園

永禄4(1561)年、大友義鎮は毛利元就から奪われた門司城を奪還するため、豊後から大軍を率いて城を包囲する。義鎮は陸上から攻めるとともに、海上からも南蛮船3隻による艦砲射撃で城内を恐怖に陥れた。ところが、あまりにも速い潮の流れに不慣れな南蛮船は、思うように航行が出来ず、砲弾を数発撃っただけで、引き返したという。

(2015年11月撮影)


めかりPAから関門海峡を望む
福岡県北九州市門司区門司

門司城は和布刈(めかり)公園の一角に位置している。「めかりPA」の駐車場から関門海峡に目を向けると対岸に下関一帯が広がって見える。永禄4(1561)年、大友軍に包囲された城を救援するため、毛利元就の命を受けた三男の小早川隆景は、対岸の赤間関(現在の下関市壇ノ浦)に陣を敷き、水軍を使った機動作戦を展開し、大友軍を翻弄する。

(2015年11月撮影)


甲宗(こうそう)八幡神社
福岡県北九州市門司区旧門司1丁目

貞観2(890)年、清和天皇の勅命により、神功皇后ご着用の御甲(かぶと)をご神体として神社が創建される。御甲をご神体としていることから甲宗と呼ばれる。永禄4(1561)年の門司城攻防戦では、大友軍の先陣を任された戸次鑑連(後の立花道雪)がこの神社まで攻め込み、小早川隆景と対決する。これが、後に好敵手となる両者が初めて出会った戦いとなる。

(2015年11月撮影)


和布刈(めかり)神社
福岡県北九州市門司区門司3492

和布刈神社は九州最北端の神社で、仲哀天皇9(200)年に創建されたと伝わる。神社の前に広がる関門海峡は、潮の流れが速いことから「早鞆ノ瀬戸」と呼ばれ、古くから航海の難所だった。そのため、この海域に向かって建てられた神社は、海上守護神として信仰されるようなる。永禄4(1561)年の門司城攻防戦では、大友軍がこの神社付近まで攻め込んだといわれる。


(2015年11月撮影)



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