弘治3(1557)年、中国地方の雄として知られた大内氏が滅亡する。大内氏が滅ぶと、その旧領は大友義鎮(後の宗麟)と毛利元就によって二分された。大友氏が豊前と筑前、毛利氏が周防と長門を手中に収め、国境を接するようになると、両者の直接対決は避けられないものになっていく。
永禄元(1558)年、元就は大友氏が支配していた門司城を奪い、九州への侵攻を開始する。九州の玄関口である門司城は、博多と堺を結ぶ航路となる関門海峡を眼下に望める重要拠点であった。永禄4(1561)年、義鎮は門司城を奪還するため、1万5千の大軍を率いて豊前に出陣した。大友軍は毛利氏の守る門司城を激しく攻め立てるが、逆に毛利水軍によって背後を突かれ、撤退する。
永禄7(1564)年、義鎮と元就は将軍足利義輝の調停によって和睦する。そして、義鎮は南蛮貿易で得た財力を使って、朝廷や幕府を味方につけるという外交力によって豊前と筑前を取り戻した。
しかし、元就は出雲の尼子氏を降伏させると、再び九州に侵攻し、大友氏と激しい戦いを繰り広げることになる。
※詳しくは、戦記_門司城攻防戦と門司港レトロを散策をご覧ください。
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