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大友氏歴史年表
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耳川の合戦

 天正6(1578)年、大友宗麟(義鎮)は島津氏に日向(宮崎県)を奪われた伊東三位入道(義祐)の頼みを受け、島津討伐のため日向に侵攻する。田原紹忍(親賢)が率いる3万の大友軍は日向を南下し、宮崎平野の入り口に位置する高城を包囲する。高城は高城川(小丸川)と切原川に挟まれた小高い丘に築かれ、島津氏の重要な戦略拠点である。
 大友軍は高城救援に来た島津軍と高城川を挟んで激突した。大友軍は戦いを有利に進めるが、島津の囮に誘い出され、挟み撃ちにあって大敗する。大友軍の敗北は戦術面もあるが、島津軍が島津4兄弟を含む総力で決戦に臨んだのに対し、大友軍は田原紹忍に任せたままで、宗麟と義統が戦場に不在という危機意識の無さと驕りが招いた結果と言える。
 本来、この戦いは「高城川の合戦」と呼ぶべきであるが、高城川を耳川と誤って記述している大友記(江戸時代に書かれた書物)の呼び方が広く知れ渡ったためである。戦いの後、九州6ケ国を支配していた大友氏の勢力が弱まり、九州は島津氏、竜造寺氏を含めた三つ巴状態となる。

 ※詳しくは、戦記_耳川の合戦大御神社を散策をご覧ください。

(2020年3月15日作成)


都於郡(とのこおり)

宮崎県西都市大字鹿野田

建武2(1335)年、都於郡城は伊東祐持によって築かれた山城である。伊東氏はこの城を拠点として、日向の大半を支配下に治める。本丸跡の公園には、天正遣欧少年使節で有名な伊東マンショの銅像がある。マンショは伊東氏の一族である。


(2019年11月撮影)


松尾(まつお)
宮崎県延岡市松山町

松尾城は懸(あがた)城とも呼ばれ、土持(つちもち)氏の居城とされていた。島津義久が伊東義祐を日向から追い出すと、松尾城主の土持親成は大友宗麟を裏切り、島津氏に寝返る。怒った宗麟は松尾城を攻め、親成を自害に追い込む。

(2019年11月撮影)


宗麟の陣営跡(現在の妻那神社)

宮崎県延岡市無鹿町二丁目

大友宗麟は島津氏討伐で日向に遠征した時、務志賀(現在の無鹿町)に本営を置いた。そして、この地にキリスト教による理想郷を造ろうと夢をみる。地名の務志賀はポルトガル語の「musica(音楽)」に由来する。

(2019年11月撮影)


高城(たかじょう)

宮崎県児湯郡木城町大字高城

日向に侵攻した大友軍は高城を包囲する。高城は高城川(現在の小丸川)と切原川に囲まれた小高い丘にあり、島津家久と山田有信が3千の兵で籠城する。現在、本丸跡には模擬櫓(やぐら)が復元されている。残念ながら、撮影当日は工事中のシートに覆われており、見ることが出来なかった。


(2019年11月撮影)


高城川(現在の小丸川)

宮崎県児湯郡木城町大字高城

高城川は高城の南側を流れる1級河川である。高城を包囲していた大友軍は島津軍に誘き出され川を渡って突撃するが、挟み撃ちにあい混乱に陥る。逃げ惑う大友の将兵は川の深みにはまり、溺れ死んだ者が多かったという。


(2019年11月撮影)


切原(きりはら)

宮崎県湯郡木城町大字高城

高城の北側を流れる切原川は高城の麓で高城川と合流する。高城を包囲していた大友軍は島津軍の奇襲に会い、切原川を越えた自陣へ引き揚げる。決戦を覚悟した大友軍は再び川を越えて高城川原の島津前衛隊を攻撃する。


(2019年11月撮影)


高城川 合戦場跡

宮崎県児湯郡木城町大字高城

高城を包囲する大友軍と援軍に駆けつけた島津軍は高城川と切原川に挟まれた川原で激突する。この川原で島津の前衛隊を破った大友軍は勢いに乗って高城川を渡って攻め込むが、伏兵による挟み撃ちに会い反撃される。


(2019年11月撮影)


財部城(現在の高鍋城)

宮崎県児湯郡高鍋町上江

財部城は土持氏、伊東氏、島津氏と城主が替わり、秀吉の九州征伐後、筑前の秋月氏が移り本拠とする。大友氏の日向侵攻では、大友軍に包囲された高城を救うため、島津義弘が5千の兵を率いて入城し、救出作戦を練る。


(2019年11月撮影)


宗麟原供養塔

宮崎県児湯郡川南町湯迫

宗麟原供養塔は、天正6年に高城川で行われた大友氏と島津氏の戦いで亡くなった戦没者を供養した塔である。この戦いに勝利した島津義久は、犠牲者の霊を敵味方の区別なく、手厚く弔うよう山田有信に命じて造らせたと云われる。


(2019年11月撮影)


(みみかわ)

宮崎県日向市美々津町

高城川の戦いで敗れた大友軍は豊後へ向けて敗走するが、島津軍の追撃を受けて耳川まで追い詰められ、3千人近い兵士が戦死する。そのため、実際の戦場は高城川であったにもかかわらず、「耳川の合戦」と呼ばれている。

(2019年11月撮影)



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