天正6(1578)年、大友宗麟(義鎮)は島津氏に日向(宮崎県)を奪われた伊東三位入道(義祐)の頼みを受け、島津討伐のため日向に侵攻する。田原紹忍(親賢)が率いる3万の大友軍は日向を南下し、宮崎平野の入り口に位置する高城を包囲する。高城は高城川(小丸川)と切原川に挟まれた小高い丘に築かれ、島津氏の重要な戦略拠点である。
大友軍は高城救援に来た島津軍と高城川を挟んで激突した。大友軍は戦いを有利に進めるが、島津の囮に誘い出され、挟み撃ちにあって大敗する。大友軍の敗北は戦術面もあるが、島津軍が島津4兄弟を含む総力で決戦に臨んだのに対し、大友軍は田原紹忍に任せたままで、宗麟と義統が戦場に不在という危機意識の無さと驕りが招いた結果と言える。
本来、この戦いは「高城川の合戦」と呼ぶべきであるが、高城川を耳川と誤って記述している大友記(江戸時代に書かれた書物)の呼び方が広く知れ渡ったためである。戦いの後、九州6ケ国を支配していた大友氏の勢力が弱まり、九州は島津氏、竜造寺氏を含めた三つ巴状態となる。
※詳しくは、戦記_耳川の合戦と大御神社を散策をご覧ください。
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