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1.義祐の日向落ち


天正5(1577)年12月、日向(宮崎県)に君臨していた伊東三位入道(義祐)が薩摩(鹿児島県)の島津氏との戦いに敗れ、姻戚にあたる大友宗麟(義鎮)を頼って豊後(大分県)に逃れてきた。


伊東氏は源頼朝に重用された工藤祐経の後裔で、守護職の島津氏と抗争を繰り返しながら宮崎平野に領土を広げた。


伊東氏11代の義祐は日向に48の支城を構え、朝廷から従三位(じゅさんみ)の位階を送られるなどして最盛期を築く。


ところが、義祐は次第に京風文化に溺れるようになり、武将としての覇気は失われていく。


元亀3(1572)年、全盛期にあった伊東氏は「木崎原の戦い」(宮崎県えびの市)で島津氏に大敗し、義祐の勢力は次第に衰退していった。


木崎原の戦いから5年後、島津氏は本格的に日向に侵攻する。


義祐は味方の裏切りにあい、戦うことなく居城とする佐土原城(宮崎市佐土原町)を抜け出し、米良山中から高千穂を通って豊後に逃亡した。


女子供を連れての逃避行は辛く苦しく、150名の一行が豊後にたどり着くと80名に減っていた。


その中には、後に天正遣欧少年使節となる伊東マンショの幼い姿もあった。


豊後に到着した義祐は宗麟と会見し、日向への出兵を願い出るが、


「三位(義祐)殿、私は隠居の身でござる。その件は、御屋形様(義統)に伝えましょう」


と、即答は得られなかった。


宗麟は2年前に家督を嫡男の義統に譲るが、事実上の実権を握り続けていた。


義祐が戦うことなく国外に逃亡したので、島津氏は大きな犠牲を払うことなく日向を手に入れることができた。


島津氏は源頼朝から薩摩、大隅、日向の守護職に任じられ、九州では大友氏と並ぶ名門の一族である。


島津の領内では一族による内紛が長く続いたが、15代当主の貴久が宿願であった薩摩、大隅の統一を果す。


貴久には、義久、義弘、歳久、家久という優秀な4人の子がおり、


「義久は総大将としての徳があり、義弘は武勇と軍略に長け、歳久は冷静な判断力を備え、家久は戦術を巧みに操る」


と、祖父の日新斎(忠良)が高く評価していた。


島津氏16代当主の義久は、末弟の家久を佐土原城に置き、日向の統治を任せる。



2.第1次日向出兵


伊東義祐が豊後へ落ち延びたことが知れ渡ると、島津氏に従っていた伊東氏の残党(旧臣)は、

「日向(宮崎県)に出兵する時は、我が城へ迎え入れ、先導役を務めたい」

と、日向との国境にある栂牟礼城(大分県佐伯市)の佐伯宗天(そうてん、惟教)に密書を送る。


島津義久は義祐を追い出して日向国を手に入れるが、領内には伊東氏に心を寄せる者が潜んでいる状態で、完全に掌握しきれてなかった。


日向奪還を願う義祐は、宗麟の義弟である田原紹忍(じょうにん、親賢)を度々訪れ、


「旧領の半分を差し出すという条件で、宗麟殿へ日向出兵の説得を頼みたい」


と、進物を贈り続ける。


義祐の熱心な懇願は、宗麟の心を動かすが、


「出兵の隙をついて、安芸(広島県)の毛利輝元と肥前(佐賀県)の龍造寺隆信が、領内に攻め込む恐れがある」


と、多くの重臣が反対する。


ところが、宗麟には、織田信長と盟約を結ぶという秘策があった。


「毛利は東方の織田軍との戦いで、九州に手を出せまい。竜造寺には道雪(立花道雪)と紹運(高橋紹運)が筑前にいるので、心配いらぬ」


「なぜ、それほどまでして、伊東をお助けに・・・?」


「困っているものを見捨てるようでは、諸国の者から君子として崇められることはない。伊東を助けて島津の横暴を阻止することは、九州探題としての務めである」


宗麟の一言で、日向出兵が決定した。


「手始めとして、縣(あがた・現在の延岡市)の土持(つちもち)を攻める。その後、南下して日向から島津を追い出す」


土持氏の当主、親成(ちかなり)は伊東氏に対抗するため大友氏に服従していたが、島津氏の勢力が日向全域に及ぶと大友氏を裏切り、島津氏に寝返っていた。


天正6(1578)年3月18日、大友軍は大友義統を総大将とする3万の軍勢が日向に向けて出陣した。


出兵に際し、宗麟は伊東の残党を使って日向国内を攪乱しようと画策する。


「三位殿(義祐)の願い通り、日向へ出兵することになった。ついては、島津を背後から脅(おびや)かしてくれまいか」


「喜んで・・・。島津に一泡吹かせてやりましょう」


義祐は家臣の長倉祐政と山田宗昌(後の匡得)を呼び、日向での調略(裏切り工作や情報収集)を命じる。

耳川の敗戦後、宗昌は佐伯惟定の軍師となり、天正14年の島津軍侵攻では栂牟礼城に迫る島津の大軍を撃退している。


4月8日、大友軍は宇目(大分県佐伯市宇目町)を経由して二方面から縣に攻め入る。


都於郡(とのごおり)城に駐留していた島津義久は、相次ぐ伊東旧臣の反乱に手を焼き、親成に援軍を送ることが出来なかった。


宗麟と三位入道(義祐)の企てた攪乱戦法が、功を奏した。


4月10日、土持氏の居城である松尾城(宮崎県延岡市松山町)は大友の大軍によって攻め落とされ、親成は自害する。


総大将の義統は、耳川(日向市幸脇と美々津町の境界から日向灘に注ぐ2級河川)を境とする日向北部を平定すると、佐伯宗天を松尾城の城督として残し、意気揚々と府内に凱旋した。




3.第2次日向出兵


天正6(1578)年9月、土持(つちもち)討伐から半年後、大友宗麟は再び日向攻めを目指す。


4月〜9月の間、一旦兵を引いたのは、田植え、稲刈りの時期に戦いを避けるためであったと考えられる。


当時は兵農分離が進んでおらず、多くの兵は貴重な兵糧を賄う農民でもあった。


「再度、日向へ攻め込む。今度の敵は島津となるが、恐れることはない!!」


大友義統の呼び掛けにより、九州6ヶ国から4万の将兵が集合し、日向路と肥後路の二方面から日向に向けて出発した。


日向路は、田原紹忍、佐伯宗天、田北鎮周、吉岡鑑興の加判衆4人に加え、豊前、筑前、筑後の諸将が従う。

肥後路は、志賀道輝、朽網宗歴の2人を中心とする南郡衆(豊後大野市、竹田市一帯の武将)から成る。


今回は、宗麟自身も家族、カブラル神父と2名の修道士を伴い、3百の家臣を率いて臼杵から船を使って出陣した。


宗麟の船には十字架の旗が掲げられ、まさに十字軍の遠征のようだった。


出航の1ケ月前、宗麟はカブラル神父による洗礼を受けてフランシスコと名乗る。


「豊後国内では一族、重臣らが切支丹をめぐり、争いが絶えない。新しい土地で切支丹による国づくりをしたい」


宗麟は豊後を義統に任せ、自らは新しい土地でのキリスト教国家の建設を夢見ていた。


縣(あがた、延岡市)に上陸した宗麟は、自身の居所に定めた地を「務志賀(むしか)」と名付け、新しい都市の建設に取り掛かる。


この地名は音楽(スペイン語の"musica")という意味で、現在でもその地は「無鹿町」として存在する。



4.高城(たかじょう)包囲


天正6(1578)年10月20日、田原紹忍を総大将とする3万の大友軍は耳川を渡り、島津氏の戦略拠点となる高城(宮崎県木城町)に到着する。


高城は高城川(現在の小丸川)と切原川に囲まれた小高い丘にあり、城将の山田有信が5百の兵と共に守っていた。

「大友軍の到来を知らせよ!!」


有信は鹿児島の島津義久と佐土原の島津家久に援軍を求める使者を送る。


家久は知らせを聞くと、急いで3千の兵とともに城へ駆けつける。


大友軍は総がかりで城攻めを行うが、守りが固く落とせないので、城を包囲して兵糧攻めに持ち込む。


高城の状況が知らされると、義久は大友氏との決戦を決意する。


「この度の戦いは、島津にとって存亡の危機である。老いも若きも武器を取れるものは全員出陣せよ!!」


義久の命令で、薩摩、大隅から3万の兵が集まる。


10月24日、義久は軍勢を率いて鹿児島を出発した。


その頃、長倉祐政が率いる伊東の残党1千が、三納城(宮崎県西都市大字三納)で挙兵し、

「高城に向かう島津の援軍を阻止せよ!!」

と、綾城(宮崎県東諸県郡綾町)、都於郡城(宮崎県西都市大字鹿野田)を攻撃する。


三納城、綾城、都於郡城は、島津本隊が高城に向かう進軍ルートにある重要な拠点である。


伊東残党の挙兵を知った義久は、

「我らが到着するまで、高城が持ちこたえてくれればいいが・・・」

と心配したが、北郷時久の軍勢によって撃退されたという知らせが届くと胸をなでおろした。


11月3日、島津の本隊が佐土原城(宮崎市佐土原町)に入ると、佐土原城、都於郡城、富田城に集結した島津勢は総勢4万に膨れ上がっていた。


佐土原城の義久の元へ、高城から窮状を告げる使者が来た。


「城内では兵糧が尽きて、これ以上の籠城は無理かと・・・」


義久は弟の義弘と高城救援の作戦を練ると、義弘を高城川の河口にある財部城(宮崎県児湯郡高鍋町)に送り込む。



5.偽りの和議

11月9日、大友の大軍に包囲された高城の籠城戦は20日に及んだ。

「食料が尽きてしまった。もう、援軍を待てない」


高城を守る島津家久は、飢えに苦しむ城兵を救うため、やむを得ず大友軍へ和睦を求める書状を出す。


「島津にとって伊東は仇敵であるが、大友には遺恨はない。大友殿がそこまでして伊東を助けたいのであれば、都於郡城を返還するので兵を退いて欲しい」


これを見た田原紹忍は大いに喜んだが、臼杵鎮続(しげつぐ)が異論を述べる。


「この和睦は、援軍が来るまでの謀(はかりごと)の疑いがある」


しかし、紹忍は聞き入れなかった。


「鎮続殿の心配も理解できるが、この城を容易に攻め落とすことは難しい。戦わずして、伊東氏の本領を取り戻せば、大友の威信を天下に示すことができる」


10日、紹忍は宗麟の許可を得ると、臼杵統景(むねかげ)と鎮続を伴って高城を訪れ、和睦の誓紙を取り交わす。


紹忍が全軍に和睦を告げると、大友軍は城の囲みを解き自陣に引き揚げた。


深夜、和睦成立を知らない島津義弘は密かに財部城を出て、高城川周辺に兵を配置する。


11日早朝、島津軍は街道沿いにある大友の食料補給基地へ奇襲を仕掛け、焼き尽くした。


勢いに乗った島津軍は大友本陣を攻撃するが、柵の中から鉄砲による反撃を受け、近寄ることができなかった。


しかし、この戦いの隙をついて、島津の別働隊が高城への武器、兵糧の搬入に成功する。


夕方、島津義久が率いる本隊が根白坂(高城川西岸の丘)に着陣すると、義弘は高城川と切原川に挟まれた川原に北郷久盛(ほんごうひさもり)の部隊を前衛として残し、

「高城への補給が済んだので、一旦、兵を引くぞ!!」

と、高城川の対岸(南岸)に移動し、川を挟んで大友軍と向かい合う。


大友の本陣では、田原紹忍が諸将を集め評議を行う。


「奇襲で兵糧を焼かれた。短期決戦か、撤退しかなかろう・・・、皆の意見を聞きたい」


「敵の本隊が出てきたからには、南郡衆と合流してから再度出直すべきである」


と、佐伯宗天は慎重論を述べた。


それを聞いた田北鎮周(しげかね)が反論する。


「島津軍ごときに怯えて退くとは、最強の毛利軍を打ち破った大友軍団としては恥ずべきことだ」


すると、角隈石宗(つのくませきそう)が割ってなだめる。


「戦えば、大友の命運を握る大戦となろう。冷静になられよ」


しかし、鎮周は納得せずに、席を蹴って自陣に帰ってしまう。


「鎮周の物言いは何だ!!我らが毛利攻めに参加してないことを知っておりながら・・・」

宗天は鎮周に侮辱された形になってしまい、腹を立てる。

「どうやら、島津を甘く見すぎておる・・・」


「ならば、せめて味方で足並みを揃えて戦うべきである」


石宗の説得に答えず、宗天は息子の惟真と共に席を立った。


2人が去ると、石宗も大きく息を吐き、黙ってその場から離れる。


結局、最後まで残ったのは、田原紹忍と臼杵鎮続の2人だけとなった。




6.高城川の激戦


11月12日の早朝、田北鎮周(しげかね)の軍勢が切原川を越えて島津の前衛部隊へ攻撃を開始した。


それを見た佐伯宗天も、檄(げき)を飛ばして突進する。


「田北勢に遅れるな!!」


他の大友勢も田北、佐伯勢の後を追うようにして続く。


前衛を守る北郷久盛(ほんごうひさもり)は、必死に攻撃を食い止めようとしたが、激戦の末、討死する。


島津の前衛部隊は壊滅し、逃げ延びた兵は高城川を渡り、味方のいる対岸へ敗走する。


「敵が逃げるぞー、追えー!!」


勢いに乗る大友軍は川を越え、島津本陣を目掛けて突進する。


本陣の前には島津義弘の軍が備え、大友軍と一進一退の攻防戦が繰り広げられる。


「進めー!!」


「狙うは、島津義久の首のみ!!」


大友軍が島津の本陣に迫ろうとした時、側面から島津征久(ゆきひさ)の兵が姿を現し、鉄砲で一斉射撃を浴びせる。


不意を突かれた大友軍は慌てふためき、突撃の勢いが衰える。


「今だ、かかれー!!」


征久の号令で、高城川の上流と下流で島津の伏兵が現れる。


大友軍は三方から囲まれ、大混乱に陥る。


「引けー、全軍退却せよ!!」


大友軍は後退し、敵に背を向け敗走していく。


眼下で展開されていた戦いを見ていた島津家久も、


「我らも、城から打って出るぞ!!」


と、城門を開いて大友軍の背後に攻めかかる。


大友の将兵は川岸まで逃げ、決死の覚悟で次々と川に飛び込む。


高城川と切原川が合流する竹鳩ヶ淵(たけくがふち)という深い淵に逃げ込んだ兵はほとんどが溺死したという。


命からがら脱出した将兵は、豊後を目指して逃げるが、島津軍の追撃は耳川(日向市美々津町)まで続き、その後には無数の死骸が残された。


この戦いで、大友軍は加判衆の佐伯宗天、田北鎮周、吉岡鑑興をはじめ、臼杵統景、吉弘鎮信、斉藤鎮実という名高い武将が戦死した。


敗走する大友軍は田原紹忍が殿(しんがり)となり、追撃を防ぎながら退却したという。



7.大友軍の逃走


務志賀の大友宗麟のもとに敗戦の報がもたらされたのは、決戦の翌日(11月13日)のことだった。


「高城川で島津に総攻撃をかけるが、逆襲に合って味方は総崩れ・・・」


戦場からの報告は、宗麟と務志賀を守る将兵を不安にするものだった。


「まずは、戦況を分析し、今後の策を練らねば・・・」


宗麟は冷静になろうと務め、敗残兵を収容しながら情報を集めた。


「佐伯宗天、田北鎮周、吉岡鑑興殿は敵陣に突撃し、壮烈な最後を・・・」


「臼杵統景、吉弘鎮信、斉藤鎮実殿も討ち死に・・・」


「殿(しんがり)として敵を防いでいた田原紹忍殿の消息は不明・・・」


宗麟は、次々に知らされる絶望的な報告により、


「それは、誠か・・・。こんな時に道雪、鑑速、鑑理がいてくれれば・・・」


と、思わず天を仰いだ。


長い間、宗麟を支え続けた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理の「豊州三老」は、立花城の道雪を除き、二人は既に亡くなっていた。


「このまま、務志賀にいても、合流する味方の軍勢は期待できない」


宗麟は敗残兵をまとめ、反撃の機会を伺おうとしたが、直ぐに脱出する決心をした。


「急いで豊後へ帰る。持ち物は、全て置いていけ!!」


食料を持たずの急な逃亡であったため、飢えに苦しみながらの過酷な逃避行であった。


そして、宗麟と宣教師の一行は、何とか豊後の臼杵城に逃げ延びた。


これで、宗麟が描いたキリスト教の理想国建設は瓦解する。


もし、大友氏が勝っていたら、九州全土を支配するキリスト教国家が誕生し、今の世界地図が変わっていたかもしれない。


この戦いの後、大友氏は九州の覇者としての地位を失い、大友氏、島津氏、龍造寺氏の三つどもえ状態となる。



作成 2020年 3月18日 水方理茂 



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