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大友氏歴史年表
神角寺の戦い
玖珠城攻防戦
高崎山城攻防戦
姫岳の合戦
御所の辻合戦
勢場ケ原の合戦
二階崩れの変
門司城攻防戦
多々良川の合戦
耳川の合戦
栂牟礼城攻防戦
岡城攻防戦
臼杵城攻防戦
鶴賀城攻防戦
戸次川の合戦
鶴崎城攻防戦
石垣原の合戦
姫岳(ひめだけ)の合戦

 大友氏12代当主の持直(もちただ)は、大友氏として最初に海外貿易を始めた人物で、朝鮮に10回の貿易船を派遣している。この頃、室町幕府6代将軍となった足利義教(よしのり)が海外貿易を独占しようとして、大内盛見(もりはる)を博多に幕府御料所代官として送り込んできた。
 盛見は海外貿易の窓口となる博多の港を大友氏、少弐(しょうに)氏から奪い取ろうとして争ったが、敗北して自害する。これに怒った義教は、盛見の甥である大内持世(もちよ)を総大将とする九州、中国、四国勢で編成された幕府軍に持直討伐を命じる。
 持直は姫岳(臼杵市と津久見市の境にある山、標高620m)に籠り、幕府の大軍と攻防戦を繰り広げ、地の利を生かした戦いで幕府軍を翻弄した。戦いは永享7(1435)年7月から翌8年6月に及んだ末、持直軍は内通者が続出したため、ついに敗れ去る。
 その後、持直が始めた海外貿易は15代の親繁が盛んにし、21代の宗麟へと受け継がれることになる。


 ※詳しくは、戦記_姫岳の合戦大友氏遺跡検定に挑戦をご覧ください。

(2013年5月3日作成)


姫岳(標高620m)
臼杵市と津久見市の境界

写真は、津久見市青江地区から姫岳を撮ったものである。真野長者伝説によると、長者夫妻がこの山から、一人娘である般若姫の上洛を見送ったことから「姫見ケ岳」と呼ばれ、姫岳になったという。永享7(1435)年、大友氏12代の持直は姫岳に籠り、幕府軍と激しい戦いを繰り広げたとされる。

(2013年4月撮影)


神野の一ツ墓
臼杵市東神野

東神野地区の県道204号(津久見〜野津線)沿いに、地元の人々から「一ツ墓」と呼ばれる石塔がある。石の祠と五輪塔の一部が積み重ねられている。本来は別々であった石塔が、いつしか一つに積み重ねられたものであろう。地元では、永享7(1435)年の姫岳の合戦において戦死した武将を弔った墓だと伝わっている。
(2013年4月撮影)


村上神社の宝篋印塔
津久見市大字上青江

臼津葬斎場の奥を進んだ畑地区の高台に村上神社がある。急勾配の石段を登ると境内の右側に白い柵に囲まれた宝篋印塔がある。これが、姫嶽の合戦で戦死した河野通久(みちひさ)の供養塔と伝えられる。伊予(愛媛県)の守護職を務める通久は、幕府軍として姫岳を攻撃したが、大友持直の反撃を受け、討ち死にしている。
(2013年4月撮影)


大友親著の墓(大恵寺跡)
大分市丹川上久所

車で、上久所公民館の前から天満社に向けて走ると、左手の田圃の中に、ぽつんと立つ石柱が目に入る。これが、大友氏11代親著(ちかあき)の墓と伝えられる。親著は、空高く舞っていた鶴が降り立った所に「雲鶴山大恵寺」を建てたという。現在は、この墓石が残るのみで、往時の様子を伺うものは残されてない。
(2013年4月撮影)


大友持直の墓(観音寺)
別府市亀川四ノ湯

別府競輪場前から平田川沿いを上流に向かって約15分歩くと円通山観音寺に行き着く。寺の開祖は国東の六郷満山を開いた仁基と云われている。その後、荒廃した寺を再興したのが大友氏12代の持直(もちただ)と伝えられる。本堂の裏側にある静寂な森の中に持直の墓がある。

(2013年4月撮影)


大友親綱の墓(大聖寺)
豊後大野市犬飼町柴北

犬飼大橋から国道57号線を竹田方面に向う途中、右手に長谷トンネルがある。そのトンネルを抜けて、柴北川沿いに県道632号線を進むと、左手に大聖寺が見える。境内には、大友氏13代親綱(ちかつな)の墓と伝わる宝筐印塔と石造りの座像がある。

(2013年4月撮影)


大友親繁の墓(心源寺)
臼杵市戸室

臼杵市戸室の北東部に大友氏15代親繁(ちかしげ)の墓がある。この付近は戸室台と呼ばれる高台で、臼杵湾に浮かぶ津久見島が望める絶景の場所である。親繁は12代持直の意志を継いで海外貿易を盛んにし、そのDNAは21代の宗麟に受け継がれる。海に向って建つ墓を見ていると、親繁の海に対する思いが伝わってくる。
(2013年4月撮影)


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