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栂牟礼(とがむれ)城攻防戦 |
天正14(1586)年10月、薩摩の島津家久を大将とする2万の軍勢は国境の梓峠を越え、日向街道(現在の国道10号にあたる)沿いに豊後へ攻め入る。島津軍は日向方面の押さえである朝日嶽城の柴田紹安(じょうあん)の裏切りにより、戦わずに三重まで兵を進めることが出来た。
家久は松尾山(豊後大野市三重町)に本陣を構え、佐伯の栂牟礼城(佐伯市弥生)に降伏を勧める使者を送る。ところが、城主の佐伯惟定(これさだ、当時18歳)は、使者を番匠(ばんじょう)河原で討ち果たし、降伏拒否の意思を表明した。これに怒った家久は、直ちに栂牟礼城攻撃の軍勢を差し向けたが、佐伯勢の巧みな戦いによる反撃を受け、堅田(かただ)、因尾(いんび)で大敗してしまう。
その後、惟定は各地でゲリラ戦を展開し、岡城の志賀親次とともに、島津軍の背後をおびやかした。結局、島津軍は栂牟礼城を遥か彼方から眺めるだけで引き返し、2度と攻めて来ることはなかった。
※詳しくは、戦記_栂牟礼城攻防戦と佐伯・本匠・直川を歩くをご覧ください。
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(2010年9月4日作成)
朝日嶽城跡
佐伯市宇目大字塩見園
朝日嶽城(標高305m)は島津の侵入に備えるため、大友宗麟の命を受けて柴田紹安が築いた。
天正14(1586)年、島津軍が豊後へ侵入した時、大友氏に不満を抱いていた紹安は島津に内応し、城を明け渡す。しかし、半年後に佐伯惟定によって奪取され、佐伯氏の出城となる。その後、大友氏滅亡とともに廃城となる。
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(2010年8月撮影) |
栂牟礼城跡
佐伯市弥生栂牟礼山
栂牟礼城(標高224m)は佐伯惟治によって築城され、堅固な要塞と言われる「豊後5牟礼城」の一つに挙げられる。大永7(1527)年、謀反の疑いをかけられ、大友義鑑の軍勢2万の攻撃を受けたが、容易に落城しなかった。天正14(1586)年の豊薩戦争では、城主の佐伯惟定が攻め寄せる島津軍を破り、追い払う。
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(2010年8月撮影) |
羽明山 龍護寺
佐伯市稲垣
臨済宗(妙心寺派)の寺で、大友時代には、佐伯氏の菩提寺とされていた。境内には栂牟礼城主13代佐伯惟真の墓がある。天正14年(1586年)年の豊薩戦争では、島津氏の使者がこの寺に向う途中、佐伯勢に襲われ、近くの番匠河原で惨殺されたという。現在は、つつじや紅葉の名所として知られている。
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(2010年8月撮影) |
宇山城跡
佐伯市大字長良字宇山
写真は、県道37号線から宇山城跡(民家の裏山)を望む。現在は宇山神社になっている。栂牟礼城が築城されるまでは、ここが佐伯氏の居城であったとされる。嘉吉元(1441)年、周防の大内氏が豊後に侵入した時、佐伯氏9代の惟世は宇山城に籠もり、攻防戦の末、大内軍を討ち破る。天正14(1586)年の島津軍侵入時にも、佐伯氏の戦略拠点として、重要な役割を果した。
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(2010年8月撮影) |
長瀬原の千人塚
佐伯市長谷大字大越
天正14(1568)年、佐伯惟定は堅田方面から攻めてきた島津軍2千を打ち破る。その時、最後の決戦場となったのが、大越川上流の長瀬原である。その後、この付近では亡霊による異変が絶えなかったので、文政5(1822)年に大庄屋の芦刈八郎兵衛惟繁が、堅田の庄屋13名とともに日輪塔を建立し、戦死者の霊を弔ったという。明治7年頃、長瀬原開墾のため、この塔は川の対岸に移された。
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(2010年8月撮影) |
穴囲(あながこい)砦跡
佐伯市本匠大字井ノ上
写真は宿善寺から対岸の穴囲砦跡を望む。この砦は、因尾砦とも呼ばれ、番匠川(ばんじょうがわ)上流の険峻な岩山に出来た自然の洞窟を利用した要塞である。天正14(1586)年の島津軍襲来時には、地元の百姓衆が立て籠もり、攻め登って来る敵軍に対し、上から大きな石を落として撃退したという。
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(2010年8月撮影) |
三竃江(みかまえ)神社
佐伯市本匠大字堂ノ間
文治5(1189)年、この地で、無念の死を遂げた平光世の霊を鎮めるために「三竃江大明神」として建てられたのが始まりとされる。壇ノ浦の戦いに破れた平家一門の光世が、追っ手に取り囲まれた中で、身を構えたまま切腹したことから、「みかまえ」と名付けられたという。天正14(1586)年の豊薩戦争では、この付近の川岸で、島津方の戸高将監率いる兵百余名が柳井左馬助ら因尾衆の襲撃を受け討ち取られたと伝えられる。
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(2010年8月撮影) |
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