鎌倉幕府が滅んで室町幕府が出来るまでの間、玖珠郡玖珠町で大友氏の一族が足利尊氏方と後醍醐天皇方に分かれて争う戦いがあった。戦いの発端は大友氏の相続争いであったが、玖珠郡一帯の清原一族をも巻き込み、同族が刃(やいば)を交える悲惨な戦いとなる。
大友氏6代の貞宗(さだむね)は、足利氏に味方して九州探題を攻めるにあたり、五男の千代松丸を後継者に選んだ。幕府が滅び、後醍醐天皇と尊氏の間で争いが生じる中、京都で貞宗が病死すると、尊氏の猶子となった千代松丸が元服して氏泰と名乗り、大友氏の家督継ぐことになる。
ところが、長男の貞順(さだより)が氏泰の相続を不服とし、天皇方として玖珠城(玖珠郡玖珠町)で兵を挙げた。尊氏は一色頼行を総大将として玖珠城の攻撃に向わせるが、天然の要害といわれる切株山(きりかぶさん)に築かれた城は容易に落ちなかった。
玖珠城は8ヶ月に及んだ攻防戦の末、山頂の高勝寺(こうしょうじ)を焼かれ、切株山を赤々と焦がして落城する。落ち延びた貞順は氏泰と和睦するが、再び大友本家に叛き、敗れて自害したといわれる。
※詳しくは、戦記_玖珠城攻防戦と玖珠盆地の魅力をご覧ください。
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