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大友氏歴史年表
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玖珠城攻防戦
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戸次川の合戦
鶴崎城攻防戦
石垣原の合戦
玖珠(くす)城攻防戦

 鎌倉幕府が滅んで室町幕府が出来るまでの間、玖珠郡玖珠町で大友氏の一族が足利尊氏方と後醍醐天皇方に分かれて争う戦いがあった。戦いの発端は大友氏の相続争いであったが、玖珠郡一帯の清原一族をも巻き込み、同族が刃(やいば)を交える悲惨な戦いとなる。
 大友氏6代の貞宗(さだむね)は、足利氏に味方して九州探題を攻めるにあたり、五男の千代松丸を後継者に選んだ。幕府が滅び、後醍醐天皇と尊氏の間で争いが生じる中、京都で貞宗が病死すると、尊氏の猶子となった千代松丸が元服して氏泰と名乗り、大友氏の家督継ぐことになる。
 ところが、長男の貞順(さだより)が氏泰の相続を不服とし、天皇方として玖珠城(玖珠郡玖珠町)で兵を挙げた。尊氏は一色頼行を総大将として玖珠城の攻撃に向わせるが、天然の要害といわれる切株山(きりかぶさん)に築かれた城は容易に落ちなかった。
 玖珠城は8ヶ月に及んだ攻防戦の末、山頂の高勝寺(こうしょうじ)を焼かれ、切株山を赤々と焦がして落城する。落ち延びた貞順は氏泰と和睦するが、再び大友本家に叛き、敗れて自害したといわれる。


 ※詳しくは、戦記_玖珠城攻防戦玖珠盆地の魅力をご覧ください。

(2012年8月15日作成)


長興(ちょうこう)
大分市大字松岡

徳治3(1308)年、大友氏6代の貞宗が、戸次重頼などの援助で廃寺を再建し、要翁玄綱(ようおうげんごう)を招いて開山したと伝えられる。当時は、2,400坪の敷地に七堂の伽藍を持つ大寺院であったらしい。天正14(1586)年の豊薩戦争で島津軍の攻撃により焼失したが、
後に再建された。
(2012年8月撮影)


金剛宝戒(ほうかい)
大分市上野丘2丁目

神亀4(727)年、聖武天皇の勅命を受けた行基によって創建されたといわれる。徳治2(1307)年、大友氏6代の貞宗が羽屋にあった寺を現在の地に移転する。当時の伽藍は、現在の大日堂として引き継がれ、中には木造の大日如来座像(国指定重要文化財)が安置されている。

(2012年8月撮影)


圓寿(えんじゅ)
大分市上野丘2丁目

円寿寺は、もともと岩屋寺と呼ばれ、現在の岩屋寺石仏の近くにあった。徳冶2(1307)年、大友氏6代の貞宗によって、現在の地に移され、円寿寺と改名される。寺には六つの本堂(六坊)があり、大友氏の庇護のもとに栄えた。現在の寺は、文久元(1861)年に大給(おぎゅう)松平氏により建てられたものである。
(2012年8月撮影)


三日月の滝
玖珠郡玖珠町山浦

この滝には、悲しい伝説がある。平安時代、醍醐天皇の孫の小松女院は、豊後に配流された恋人の清原正高を追って、この地まで来た。ところが、正高が既に地元の娘と結婚していることを知ると、嘆き悲しんで、この滝に身を投じたという。滝の傍は公園となり、グランドゴルフや温泉等を楽しめる。
(2012年7月撮影)


切株山(きりかぶさん)
玖珠郡玖珠町山田

伐株山の由来は、楠(くす)の大木によって、日が当たらずに困った住民が、この木を切り倒した後の切株であるという伝説からきている。山頂には天台宗の高勝寺(こうしょうじ)があり、その天然の要害は、山城として度々使われていた。南北朝時代、大友宗家に叛いた大友貞順が、この山で挙兵し、8ヶ月間籠城している。
(2012年7月撮影)


霊山(りょうぜん)
大分市大字岡川

霊山(標高610m)は、大分市南部にある山で、その中腹に九州西国観音霊場の第八番となっている天台宗の霊山寺がある。中国の那伽法師が伽藍を建立し、山の形がインドの霊鷲山に似ていることか飛来山霊山寺と名付けられた。
南北朝時代には、大友宗家に叛き玖珠城で挙兵した大友貞順に味方したことにより焼かれたという。
(2012年8月撮影)


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