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1.後醍醐天皇からの綸旨

「いい国(1192年)つくろう」と、源頼朝によって創設された鎌倉幕府は、3代で頼朝直系の血は途絶え、4代将軍以降は藤原家や宮家から名目上の将軍を立て、実際の権限は執権の北条氏が行使するという体制で続いていた。

文永11(1274)年と弘安4(1281)年の元寇は、若き執権北条時宗の指導力と九州武士団の奮闘で乗り切ったが、幕府は戦いで功績のあった武士に与える領地がなく、信用を失うことになる。

さらに、元(蒙古)との戦いで借金をした武士を救うために、借金のかたに取られていた土地をただで武士に返せという「徳政令(とくせいれい)」を出したため、かえって、武士にお金をかす人がいなくなり、生活が苦しくなった。

武士の生活が困窮する中、北条氏は着々と領土を広げ、全国の守護の大部分を占める(幕府滅亡の直前には30ケ国も独占)ようになり、多くの武士の不満を買うことになる。

元弘元(1331)年、後醍醐天皇は北条氏に不満を持つ各地の武士に対して密書を送り、倒幕を呼びかけたが、これが発覚して、隠岐に配流となる(元弘の変)。

しかし、後醍醐天皇の皇子である護良(もりよし)親王は吉野山に、河内の楠木正成(くすのき・まさしげ)は千早城に籠って倒幕の兵を挙げ、幕府軍を相手に奮戦する。

元弘3(1333)年2月、幕府の大軍が護良親王と楠正成に翻弄されている間、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、伯耆の国(現在の鳥取県西部)の船上山(せんじょうさん)に立て籠もり、

「北条を討ち、幕府を倒せ!!」

と、各地の武将に対して綸旨(りんじ)を出す。

綸旨は九州の武将にも届き、豊後の大友貞宗(さだむね)、筑前の少弐貞経(しょうに・さだつね)、肥後の菊池武時は、幕府の出先である鎮西探題(ちんぜいたんだい)を攻撃する密約を結ぶ。

元弘3(1333)年3月、鎮西探題の北条英時は謀反の計画を察知し、取り調べのため大友貞宗、少弐貞経、菊池武時を博多に招集する。

大友氏は、出家して直菴具簡(じきあんぐかん) と称していた貞宗が6代目の当主であった。

禅宗に深く帰依していた貞宗は、顕孝寺(福岡市東区多々良)、長興寺(大分市松岡) を創建し、金剛宝戒寺(大分市上野丘2丁目) 、圓寿寺(大分市上野丘西)を再建している。

探題からの呼び出しを受けた貞宗は、府内(大分市)から玖珠、日田を経由して、筑後街道(現在の国道210号)を通って博多(福岡市)へ向う。



2.菊池武時を討つ

大友貞宗は博多の鎮西探題に向う途中、大宰府に立ち寄り、少弐氏の館を訪れた。

少弐氏は、もともと、武藤姓であったが、太宰少弐(大宰府の副長官)を長年務めるうちに、官職である少弐を姓として名乗るようになる。

少弐氏の当主は5代貞経(さだつね)で、姉が貞宗の正室となっていたので、2人は義兄弟の間柄であった。

「兄上(貞宗)、この度の招集は、何と・・・?」

貞経は、鎮西探題からの急な呼び出しに対し、貞宗の考えを聞いた。

「恐らく、船上山(後醍醐帝)からの綸旨のことであろう。我らの謀反を疑い、詮議するつもりでは・・・」

「密約が露見したとあれば、直ぐに、探題を攻めるべきでは・・・」

「まだ、その時期ではない。今、探題を倒したとしても、直ぐに、幕府の大軍が押し寄せ、我らが滅ぼされよう」

貞宗は、後ろ盾のない安易な挙兵に反対であった。

「されば、我らの行く道は?」

「この先、我ら武家の棟梁は、誰と・・・?」

貞経は頭の中で諸国の武家を見渡したが、源氏の血を引く足利高氏(たかうじ)以外に棟梁と呼べる者は見当たらなかった。

「足利殿では?」

「そうだ、足利殿は必ず動く・・・。それまでは、決して、悟られてはならぬ」

これで、大友、少弐の進むべき道が決定した。

しかし、菊池武時の考えは異なっていた。

「密約が露見したのであれば、先制攻撃するしかなかろう・・・」

と、挙兵した。

3月13日、博多に攻め入った武時は、博多の町々を焼き払うと、

「天皇の綸旨であるぞ、共に行動するように!!」

と、大友貞宗、少弐貞経に使者を出した。

しかし、両者の反応は冷たく、動く気配はなかった。

大友、少弐の同調を信じきっている武時は、

「すぐに、大友、少弐の軍勢も駆け付けるだろう・・・」

と、250騎の兵で鎮西探題の館(今の博多、櫛田神社の近く)に押し寄せた。

すると、背後から大友、少弐の軍勢1千余りが攻めかかり、菊池勢は総崩れとなる。

「まさか、大友、少弐の裏切りがあろうとは・・・」

もう少しで、北条英時を討ち取るところまで迫っていただけに、武時の無念は計り知れない。

「貞宗め、決して許さんぞー!!」

と、叫びながら、武時は一族郎党と共に討ち死にした。

戦いの後、菊池一族2百名余りの首は、謀反人として、犬射馬場(いぬいのばば)に晒(さら)されたという。

昭和53(1978)年8月、福岡市の地下鉄工事の際、東長寺(とうちょうじ)の前から百個以上の頭部の骨が発掘された。

これは、打ち落とされた首の骨であり、同時に出てきた遺物が14世紀前半のものであることから、探題襲撃で破れた菊池一族のものと思われる。



3.千代松丸に家督を譲る

菊池武時を討ち果たしてから1ヶ月半経った頃、

「幕府を倒す決意をしたので、味方に加わって欲しい」

と、足利高氏からの督促状が、大友貞宗のもとに届いた。

4月29日、高氏は、幕府の命で後醍醐天皇を成敗するため、船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に向う途中、丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で倒幕の兵を挙げた。

督促状を受け取った貞宗は、高氏と行動を共にすると決めていたので、迷いは無かった。

「足利殿に、お味方致したい」

と、貞宗の返事は高氏を大いに喜ばせた。

「我らが京都六波羅(ろくはら)を攻めるのを合図に、新田義貞殿が鎌倉を攻める手筈になっている。大友殿は、少弐、島津を誘って、鎮西探題を攻められよ!」

と、高氏からの作戦命令が届くと、密かに攻撃準備を進めた。

「三方面から同時攻撃を仕掛けるとは・・・。さすが、足利殿だな」

「しかし、腐っても鯛と言うが、幕府軍は強敵であろう・・・」

貞宗は、これから始まる幕府との激戦を考えると、かねてより考えていた相続の件を定めておく必要があると考えた。

鎌倉時代における武家の家族制度は、分割相続による「惣領(そうりょう)制」で、息子達の中から優れた者を惣領(嫡子、家督という。長子とは限らない)に選び、その他は「庶子」になる、と言うものであった。

大友氏の不文律として、「大友」姓を名乗るのは惣領(本家)だけに限られていたので、庶子(分家)は土着した地名を名字としていた。

この制度で、詫磨氏、帯刀氏、一万田氏、志賀氏、田原氏、木付氏、田北氏、入田氏、立花氏などの庶子家が多く生まれる。

博多の陣中で、貞宗は相続に関する重大発表をした。

「大友惣領家の相続は、これまでの分割相続を改めて、嫡子単独相続とする」

「嫡子単独相続・・・?」

嫡子単独相続とは、家督を継ぐ嫡男以外の息子達への相続を無くすることを意味する。

この決断は、惣領を預かる貞宗としては、苦渋の決断であった。

大友氏は、多くの子息へ分割相続を重ねるうちに、惣領家の領地が減少してしまい、成り立たなくなっていたので、仕方が無かった。

今度の戦に参陣している長男の貞順(さだより)と次男の貞戴(さだとし)は、

「・・・」

と、無言のまま、顔を見合わせた。

「ところで、惣領は、誰に?」

と、重臣の誰かが、口を開いた。

すると、貞宗は大きな声で、皆に告げた。

「皆、よく聞け、家督は千代松丸(後の氏泰)に譲る」

貞宗には、長男貞順、次男貞戴の下に5人の息子がいた。

長男、次男を飛び越して、五男で幼少の千代松丸が惣領に選ばれたのは、本人の器量というより、母が少弐氏の娘であることが大きく影響しているものと思われる。

「弟の貞載には、立花山城が与えられておりますが、この私はどうなりましょう」

と、長男の貞順が、不安そうな顔をして聞いた。

「千代松丸が成人するまで、後見人を務めよ。そのうち、他家の養子が回ってこよう・・・」

貞宗から返ってきた答えは、貞順の心に冷たく響いた。

「これまで、長男として家のために尽くしてきたのに、庶子としての領地も与えられず、弟の後見人とは情けない・・・」

父貞載の決断は、貞順にとって、納得出来るものではなかった。

これが、大友氏にとって、息子達への「分割相続」を行わず、嫡子のみが相続するという「嫡子単独相続」の始まりでであった。

これ以降、嫡子以外の庶子は、跡取りのない兄の家を継ぐか、他家の養子なるか、僧籍に入るしかなくなった。



4.鎮西探題を討つ

5月10日の夜、大友貞宗のもとに足利高氏からの使者が訪れた。

「去る5月7日、足利殿は、京都六波羅探題を攻め落とされました」

「そうか、・・・。次は我らの番だと、お伝えくだされ」

と、貞宗は使者に答えた。

九州探題の北条英時は、菊池勢の攻撃で探題館を焼失したので、堅固な姪浜城(めいのはまじょう・福岡市西区)に移っていた。

5月25日、貞宗は、少弐貞経、島津貞久らと共に姪浜城を攻めた。

「まさか、大友が攻めて来ようとは・・・」

と、英時は貞宗の謀反が信じられなかった。

「なんと・・・、義理も忠義も無い日和見の者どもが!!」

と、英時は大友貞宗に怨みの言葉を残して自害した。

貞宗は、英時の遺骸に向って、

「一族を守れずして、何が忠義だ・・・」

と、つぶやいて、手を合わせた。

鎮西探題が滅ぶ3日前、北条高時とその一族は、鎌倉に攻め入った新田義貞によって滅ぼされる。

貞宗は、戦後処理を行うと

「貞順は、千代松丸の後見人として、府内(大分市)へ戻れ」

と命じ、自らは次男の貞載を伴って上洛した。



5.貞宗の病死

鎌倉幕府を倒し、150年ぶりに朝廷の手に政権を取り戻した後醍醐天皇は、関白や摂政、院政を排除し、古代の律令制に倣い天皇中心とする中央集権的な統治をめざす。

そして、元号は「建武(けんむ)」と改められ、公家一統による新政がスタートした。

「建武」は、古代中国、後漢の劉秀(光武帝)が、王莽(おうもう)によって滅亡した漢王朝を復興した時に使った年号であり、後醍醐天皇の思いが込められている。

新政権は、古代の律令制に倣い、「公地公民」の制度(全ての土地、人民は天皇が所有し支配する)に戻そうとした。

それは、天皇方として軍功を挙げた武士でも、従来の土地所有権が一旦無効となり、新たに所有権を得るためには、天皇の綸旨を必要とするというものであった。

京の都には、各地から恩賞を求めて上洛した武士が集まり、土地所有権の認可を申請する者で溢れた。

申請者が殺到したため、裁ききれなくなった新政府は、裁量を諸国の国司に任せるように方針を撤回せざるをえなかった。

また、恩賞を要求する武士のために恩賞方が設置されが、恩賞のほとんどは、天皇と皇室関係者や戦勝を祈願した社寺に配分されるという不公平なものであった。

倒幕の第一功労者といわれる足利高氏も、後醍醐天皇から名前(尊治・たかはる)の「尊」の字が与えられ、尊氏に改名しているが、与えられた領地は少なく、新政権の要職から外されていた。

このように、古代に理想を求める新政権は、性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す制令に加え、経済政策の失敗などがあり、武家を含めた庶民の支持を失う。

当時の様子は、建武元年8月の二条河原の落書に「この頃、都に流行るもの、夜討ち、強盗、偽綸旨・・・」とあるような騒然たる状況であった。

巷で広がる騒動の中、大友貞宗には鎮西探題攻めの功として、博多の息浜(おきのはま)が与えられた。

「名前ばかりの官職より、息浜の方が、実利があるわい・・・」

と、貞宗は喜んだ。

博多で得られる多大な貿易の利益は、大友氏の大きな財力となった。

当時の博多は、港のある北東部を「息浜」、南西部を「博多浜」と呼び、息浜を大友氏が、博多浜を少弐氏が治めることになる。

同年12月、息浜を得た喜びも束の間、貞宗は、滞在先の京都南禅寺聴松院で病死する。

その突然の死には、貞宗に裏切られて無念の死を遂げた菊池武敏、北条英時の亡霊による祟りという噂もあった。

老齢の貞宗にとって、京都での長期滞在は厳しかったものと思われる。

こうして、貞宗の遺言に従い、千代松丸が大友氏7代の当主となる。



6.箱根・竹ノ下の戦い

武家の手から政権を奪い取り、公家一統による新政が始まったが、武家や庶民が待ち望んだものとは、ほど遠い状態であった。

長い間、現実の政治から遠のいていた公家には、武家の協力無しで、国家を運営していける能力が無かった。

京都で政権が混乱している間、各地では、北条一族の残党による蜂起が頻発する。

建武2(1335)年7月、北条高時(鎌倉幕府14代執権)の遺児時行(ときつら)が、信濃の諏訪頼重に擁立され、鎌倉幕府復興のため挙兵した。

時行軍は各地で新政府の軍勢を撃破し、鎌倉から出陣してきた足利尊氏の弟、直義(ただよし)の軍勢を破り、鎌倉を支配した。

時行軍に敗れた直義は尊氏の妻子を伴って、命からがら、三河国(愛知県)に逃れる。

知らせを聞いた尊氏は、このまま乱が広まると、政権の根幹を揺るがしかねないと思い、

「北条時行が鎌倉を落とし、駿河まで侵攻しております。この私に、討伐の命を頂きたく・・・」

と、後醍醐天皇に奏上した。

ところが、天皇は尊氏が征夷大将軍の役職を要求しているものと思い、

「行くには、及ばず!!」

と、要請を拒否した。

しかし、弟(直義)と妻子を案じた尊氏は、天皇の許可を得ないまま出陣する。

これが、後醍醐天皇と足利尊氏の間に生じた亀裂の始まりとなった。

8月19日、尊氏は直義の軍勢と合流すると、相模川の戦いで時行軍を破り、鎌倉を奪回する。

鎌倉に入った尊氏は、討伐に従った武士に対し、勝手に恩賞を与えるなどして独自性を高め、後醍醐天皇からの上洛命令をも拒んで鎌倉に滞在し続けた。


11月、京都の新政権は、尊氏の態度を独自の武家政権創設の動きと捉え、新田義貞に尊氏討伐を命じる。

義貞は大軍を率いて東海道を東に進軍し、鎌倉に向う。

尊氏討伐軍の中には、大友貞宗の亡き後、次男の貞載が当主(千代松丸)の名代として、豊後武士団を率いて、加わっていた。

12月11日、両軍は箱根、竹ノ下(静岡県小山町)で激突する。

足利軍は、尊氏が竹ノ下で優位に戦いを展開していたが、箱根方面では、直義が苦戦していた。

翌日、大友貞載が足利軍に寝返ると、多くの武士が、これに続いて寝返ったため、討伐軍は総崩れとなり、義貞は東海道を西に敗走する。

大友氏の前途を託された貞載は、

「新政権には未来はない。どんなことがあっても、足利殿と共に行動するように・・・」

と言う、父(貞宗)の遺言に従い、足利軍に味方する意向を伝えていた。

大友貞載だけでなく、新田義貞に従っていた多くの武士が、足利尊氏に寝返ったのは、建武政権に対する反発であることは間違いなかろう。



7.貞載、不覚の死

建武3(1336)年正月、足利尊氏は敗走する新田義貞を追って京都に入る。

尊氏が入京を果たすと、後醍醐天皇は比叡山へ退き、後醍醐天皇に従っていた多くの武士が降参してきた。

降参してきた武将の中に、建武政権で後醍醐天皇の寵臣として知られる結城親光(ゆうき・ちかみつ)が含まれていた。

親光は、大友貞載の陣に行き、

「結城親光でござる。足利殿に降参致したい」

と、申し出た。

貞載は、即座に受け入れ、尊氏の陣所まで連行した。

「足利殿のもとに着きました。腰のものを預かりましょう」

と、貞載が言うと

「味方になるために参上したのに、太刀を召し上げると言うのか・・・?そこまで、信用して頂けないのは残念である」

と、言いながら、帯びていた太刀を両手で差し出そうとした。

「決まりなので、申し訳ない。後で、お返しします」

と、貞載が太刀を受け取ろうとした時、親光は太刀を抜いて貞載に斬りかかり、

「逆臣、尊氏を討つ!!」

と、叫ぶと、尊氏めがけて陣所へ駆け込んだ。

貞載は目の上を横に切られ、深手を負いながらも、親光を追って組伏せ、討ち取った。

そして、貞載も多量の出血により、その場に倒れ込んだ。

「大友殿、しっかりせよ!!」

と、尊氏が駆け寄り、声をかけると、

「申し訳ありません。もう少し、用心しておれば・・・」

と、詫びた。

「千代松丸の事、よろしく・・・」

貞載は、幼い当主のことを尊氏に頼むと、その3日後に亡くなる。

重傷を負いながら、主君を救った貞載の行動は勇者と評価されるが、一方で、一命を賭して逆臣を討とうとした親光の忠誠心への賞賛もあった。



8.尊氏からの援軍要請

尊氏の京都制圧は長く続かなかった。

奥州から疾風の如く駆け上った北畠顕家(あきいえ)に虚を突かれ、顕家と合流した新田義貞、楠木正成の軍に破れ、京都から敗走した。

京都を出た尊氏は、京都周辺に留まり、西国の武士に援軍要請を発する。

「逆賊(新田義貞)を討つため、直ちに兵を率いて、参陣されたし」

と、命ずる督促状は、千代松丸の後見人である大友貞順のもとにも届けられた。

督促状に目を通した貞順は、密かに叔父の入田士寂(にゅうた・しじゃく)と出羽季貞(でわ・すえさだ)を呼んだ。

この2人の叔父は、大友本家に生まれたが当主になれず、他家へ養子に出されていた。

貞順は、自分と境遇が良く似ているこの二人の叔父と気が合った。

「叔父上、足利殿から援軍の要請がありました。亡き父上からは、足利殿に従うように言われておりますが、如何したものかと・・・」

と、二人の叔父に相談した。

「足利殿は都を追われ、丹波に逃れたそうじゃが・・・」

と、季貞が足利軍の戦況について聞くと、

「もはや、朝敵となった足利軍に勝ち目は無かろう・・・」

と、士寂が答えた。

「されば、援軍を断りましょうか」

と、貞順が言うと、士寂は首を振りながら、

「いいや、援軍は送ったほうがよかろう。千代松丸が総大将じゃ・・・」

と、答えた。

そして、周囲に目を配ると、小さな声で、

「いずれ、千代松丸は尊氏と共に朝敵として討たれよう。しかし、大友氏を潰すわけにはいかぬ・・・。そなたが、天皇方に付けば、大友氏は安泰となろう。本来、長男のそなたが、家督を継ぐべきだったのだ・・・」

と、驚くべき発言をした。

「な、なんと・・・」

貞順としては、父が弟の千代松丸に家督を譲ったことを納得していなかったので、叔父の言葉はうれしかった。

貞順は、府内館に重臣を集め、

「足利殿の命に従うことは、父貞宗の遺言である。よろしいか・・・」

と、足利尊氏の要請に答え、援軍を出すことを告げた。

「今は、足利殿にとって、一番苦しい時、当主の千代松丸殿が総大将として参陣すれば、大いに喜ばれよう・・・」

と、言うと、

「いかにも・・・」

と、重臣たちも賛同した。

こうして、千代松丸は、大友水軍を率いて海路で援軍に向うことになる。



9.千代松丸の元服

足利尊氏は京都奪還を図ったが、豊島河原合戦(てしまがわらのかっせん、大阪府箕面市・池田市)で大敗し、赤松円心(則村)を頼って播磨へ逃れる。

円心は倒幕の功労者であったにもかかわらず、それまでの播磨守護職を没収されるなど、新政権で冷遇されたことに怒り、佐用の荘(兵庫県佐用町)に戻っていた。

「一旦退き、九州で力を蓄えてから、再度、上洛を考えては・・・」

円心は京都奪回をあきらめ、九州に向うことを尊氏に進言した。

「九州の武士団は、頼りになろうか・・・?」

と、尊氏が問いかけると、円心は

「先程、豊後の千代松丸殿が大友水軍を率いて到着されました。また、少弐氏、島津氏も大友に同調とのことです」

と、九州から援軍の到来を告げた。

「それは、力強い・・・。よし、九州で再起を図ろう」

と、尊氏は円心の進言を聞き入れ、九州に下ることを決めた。

「足利殿が再上洛するまで、この円心が、播磨にて義貞軍を食い止めて見せましょう」

この言葉は、尊氏にとって心強かった。

九州へ向う前、尊氏は千代松丸を呼び、慰めの言葉をかけた。

「この度の援軍に礼を申す。ところで、父上(貞宗)と兄上(貞載)を続けて失い、さぞ寂しかろう・・・」

「これも、武門の習いですから・・・」

と、不安そうな顔で千代松丸が返事をすると、

「心配はいらぬ。これより、私が父親代わりになろう。尊氏の一字を与えるので、氏泰(うじやす)と名乗るが良い」

と、思いがけない言葉が返ってきた。

こうして、千代松丸は元服し、大友氏泰となり、尊氏の猶子(養子)になった。

これ以後、大友氏は「源」姓を名乗るようになる。



10.多々良浜の戦い

建武3(1336)年2月20日、足利尊氏を乗せた船は、長門国赤間関に着く。

赤間関では、少弐貞経の嫡子、頼尚(よりひさ)が500騎の兵を率いて出迎えた。

赤間関から船で筑前国芦屋に着くと、宗像大社の大宮司(氏範)の協力を得るため、陸路で宗像に向う。

宗像に着いた尊氏は、

「肥後の菊池武敏が、阿蘇惟直とともに太宰府を攻略し、少弐貞経を討ち、博多を占領した」

と言う、知らせを受け取る。

大宰府を攻略した菊池軍には、秋月種道、蒲池武久、星野家能などが加わり、その軍勢は2万以上に膨れ上がっていた。

「大宰府は、菊池勢に落とされたようじゃ。このまま博多に向けて進軍すべきか・・・?」

尊氏は、大友、少弐、島津の緒将を集め、意見を聞いた。

「敵は大軍と言っても、本気で菊池に味方するのは、阿蘇惟直ぐらいで、その他は、もともと日和見でござる。内応の使者を送るのがよろしいかと・・・」

父を菊池軍に討たれ、復讐に燃える少弐頼尚が、口火を切った。

「多くの武士は帝のご新政には不満で、我らの味方でござる。足利殿の旗印を見れば、我が軍に寝返りましょう」

島津貞久も同じような意見を述べる。

「兄上、香椎(かしい)まで軍を進め、様子を見ては如何と・・・」

尊氏の弟、直義が進軍すべきと進言した。

すると、元服したばかりの大友氏泰(千代松丸)が、

「香椎は、我が大友が蒙古襲来に備えて守り続けた土地、菊池の大軍といえども、容易に多々良川を渡ることは出来ますまい。しかも、立花山城を守る兄(宗匡)が、背後から睨みをきかせております」

と、述べた。

大友貞載が京都で亡くなった後、貞宗の三男である宗匡(むねまさ)が兄の養子となり、立花山城を守っていた。

「なんと、我が息子の頼もしいことよ。皆の者、香椎まで進軍じゃ!!」

大友、少弐、島津の軍勢を含めた足利軍は、宗像大社に戦勝祈願し、香椎に向う。

香椎に着いた尊氏は、氏泰と頼尚を伴い、香椎宮へ登った。

「ここからは、敵の様子が、よくわかるのう・・・」

「はい」

香椎宮からは、箱崎に陣を構え、足利軍を待ち受ける菊池軍の様子が良く見えた。

「敵の大軍を如何に攻めるべきか・・・」

尊氏は、2人の若き当主に尋ねた。

「この時期は、北から強風が吹き荒れ、砂塵が舞い目を覆うほどになります。つまり、風は敵陣に向けて吹くことになります」

と、地元の気象を良く知る頼尚が言うと

「そうか、風が我らの強い味方ということか・・・」

と、尊氏はうなずいた。

「河を渡り退路を絶てば、我が軍は必死になって戦いましょう・・・」

と、氏泰が言うと、

「追い風に乗って河を渡り、背水の陣で戦えば、勝利は間違いなしだな」

尊氏は、喜んで手を叩いた。

「ところで、お2人は従兄弟同士で、父と叔父を菊池に討たれて悔しかろう。今度の戦で武功を挙げ、無念を果たされよ」

と言うと、香椎宮から下った。

足利軍は香椎を出発し、多々良川北岸の高地に陣を構え、北風を待つことにした。

足利軍2千と菊池軍2万は、多々良川をはさんで対陣した。

3月2日、北風の吹き始めと同時に、足利軍は河を渡って菊池軍に攻めかかる。

「尊氏は相当な戦術家と聞いていたが、なんと愚かな・・・」

菊池武敏は、河を渡って攻めて来る足利軍を見て、あざ笑うと、

「矢を放ち、河を渡りきる前に皆殺しにせよー」

と、命を下した。

普通であれば、河を渡る方が不利であるが、菊池軍が放つ矢は、北からの強風で押し戻され、役に立たなかった。

河を渡りきった足利軍は、そのまま菊池軍を攻め立てたが、さすがに菊池軍は手ごわく、足利軍は徐々に押し戻された。

戦いは激戦となり、菊池軍有利になろうとした時、松浦党が寝返り、菊池軍の背後を突いた。

すると、菊池軍は相次ぐ寝返りで、総崩れとなる。

菊池武敏はわずかな兵とともに本拠地の菊池城へ敗走したが、阿蘇惟直、惟成兄弟、秋月種道らは討ち死にした。



11.貞順が切株山で挙兵

多々良浜の戦いが始まる前、豊後でも異変が起きていた。

大友貞順は、当主の氏泰(うじやす)が、足利軍に従軍している間、当主の代理として豊後を守っていた。

ところが、京都から逃れた尊氏が、九州に向ったという知らせを聞くと、菊池武敏と阿蘇惟直に呼応して、玖珠城(玖珠郡玖珠町山田)に立て籠もり、兵を挙げた。

玖珠城は、標高685m、比高差355mという断崖絶壁に囲まれた伐株山(きりかぶさん)にあり、頂上の窪地には湧水もあるという天然の要害である。

南側の万年山(はねやま)を隔てて肥後国に接し、菊池氏らと連携するのに好都合な位置にあった。

切株山には、比叡山とつながりが深い天台宗の高勝寺があり、玖珠郡内には天皇方の皇室御領が多く存在したので、反足利勢力が集まりやすかったとも云われている。

大友貞順の呼びかけで玖珠城に集まったのは、叔父の入田士寂、出羽季貞をはじめ、清原一族の小田顕成(あきなり)、魚返宰相房(おがえり・さいしょうぼう)と大神一族の敷戸普練(しきど・ふれん)、賀来弁阿ァ梨(かく・べんあじゃり)、沙弥道円(しゃみ・どうえん)などであった。

「我らは、菊池殿と一緒に足利尊氏を迎え討つ。当然、尊氏の養子となった我が弟(氏泰)も敵である」

「大友家を守るためには、氏泰から惣領の座を奪い取るしかない!!」

と、集まった兵を前にして、貞宗は決意を述べた。

「我らの手で、尊氏を九州に逃れた平氏と同じ運命にしてやろうぞ!!」

と、入田士寂が声を発すると

「その通りだ!!」

と、一同は、拳を振り上げながら叫んだ。

貞順は庶子のため家督を相続できなかったので、この期に家督の簒奪を狙って、後醍醐皇方に付いたのであった。

貞順のもとに集まった多くの武将も、各家で庶子として、不遇に耐えてきた者が多かった。

決起してから10日経った頃、多々良浜にて菊池軍が足利軍に破れたと言う知らせが貞順のもとに入った。

「またしても、味方の裏切りか・・・。卑劣な尊氏め!!」

と、怒りを覚えた。

「やがて、ここにも足利軍が攻め込んで参りましょう。それまでに、府内を占拠し、豊後を抑えることが肝心かと・・・」

と、入田土寂が進言した。

入田土寂、敷戸普練、賀来弁阿ァ梨が府内攻撃に向かう。

土寂が予想したとおり、氏泰が兵の多くを率いて足利軍に加わっていたので、府内の守りは手薄となっていた。

しかし、大友一族の志賀頼房は、府内の守りが弱いことを心配し、切株山と府内を結ぶ街道筋に間者を潜まして、様子を探っていた。

頼房は、大友貞戴が京都で結城親光に討たれた時、奮戦して結城の郎党を討ち取るなどして、一族の中でも気骨のある武将として知られている。

3月11日、土寂らの動きを察知した頼房は、いち早く府内へ入り、周囲に旗指物を掲げて、守りが堅いことを見せつけた。

これを見た土寂は、

「遅かったか、頼房殿が守りを固めたとあれば、容易に落とせまい」

と、退却した。


多々良川の戦いに勝利した足利尊氏は、九州から後醍醐天皇派の勢力を一掃するため、仁木義長(にっき・よしなが)を肥後の菊池攻め、一色頼行(いっしき・よりゆき)を玖珠城の攻撃に向わせた。

一色氏は足利氏の一族で、赤松氏、京極氏、山名氏とともに室町幕府の「四職(ししょく)」の一つに数えられた名門である。

玖珠城攻めには、当主の氏泰が加わっていたこともあり、大友一族の志賀頼長、戸次朝直(べっき・ともなお)、頼時を始め、清原一族の野上顕直(のがみ・あきなお)、綾垣政明(あやがき・まさあき)、帆足清六左衛門(ほあし・せいろくざえもん)と大神一族の都甲惟世(とごう・これよ)、稙田寂円(わさだ・じゃくえん)など、多くの武将が集まって来た。

この戦いは、嫡子単独相続をめぐる惣領家と庶子家の対立抗争が、大友一族だけに留まらず、清原一族と大神一族をも巻き込む争いとなった。

特に、玖珠郡一帯を領有する清原一族は、同族が足利方(攻撃側)と天皇方(籠城側)に分かれて刃を交える厳しい戦いとなった。



12.豊後清原氏

ところで、豊後清原氏の成立には、次のような伝説がある。

平安時代末期、少納言の清原正高が醍醐帝の孫姫である小松女院と恋に落ちた。

これを知った帝は怒り、正高を豊後国玖珠郡に左遷する。

一方、小松女院は正高のことが忘れられず、豊後の国めざして11人の侍女とともに旅に出た。

苦労の末、玖珠郡の三日月の滝まで来た時、樵(きこり)の老人に出会い、正高が土地の有力者である矢野氏の娘と結婚し、一子をもうけていることを知る。

小松女院は嘆き悲しみ、三日月の滝へ身を投げた。

これを見た11人の侍女も、次から次に入水を遂げる。

このことを伝え聞いた正高は哀れに思い、三日月の滝のほとりに墓所を作り、神社を建てて供養したという。

やがて正高は赦されて京都に戻ることになるが、正高の子、正通は、母とともに玖珠に残る。

正通には3人の子供が生まれ、それぞれに玖珠郡の四郷を分け与えた。

長男の助通(すけみち) が長野郷、古後郷、次男の通成(みちなり) が山田郷、三男の通次(みちつぐ)が飯田郷、帆足郷を与えられ、それぞれの地名をとって長野氏、山田氏、飯田氏を名乗る。

この三氏は、古後氏、帆足氏、平井氏、太田氏、小田氏、魚返氏、栗野氏、今村氏、原田氏、横尾氏、原口氏、綾垣氏、恵良氏、野上氏、松木氏、森氏、小野氏、武宮氏、右田氏などに分かれ、豊後清原一族として、豊後、豊前の全域に広がっていく。

これら苗字のもととなった地名が玖珠郡玖珠町と九重町の玖珠川流域に連なって存在している。

鎌倉時代に大友氏が豊後に入ってからは、大神一族とともに大友家臣団となり、大友氏を支えた。

大友氏滅亡後、一族の多くは、地元で帰農したものと思われる。

「枕草子」の著者として有名な女流作家、清少納言は清原正高の妹として知られる。

また、江戸時代後期の儒学者と知られる帆足万里は、清原一族の帆足氏の末裔と言われている。



13.玖珠城攻防戦

3月24日、一色頼行を総大将とする足利軍が玖珠に到着した。

「この要害では、力攻めは無理だ。兵糧攻めするしかなかろう・・・」

玖珠城を一目見た頼行は、城を包囲して、城内の兵糧が尽きるのを待つことにした。

「大軍で包囲したので、3ヶ月も経てば、城は落ちましょう」

と、総大将の頼行は、尊氏に報告した。

「これで、九州は心配なかろう・・・」

尊氏は、一色範氏(後の九州探題)を大宰府に残し、自らは再び京都を目指した。

範氏は、玖珠城攻撃軍の総大将である頼行の弟で、室町幕府として初代の九州探題となる。

ところが、城を包囲して3ヶ月になっても、城内の士気は衰えなかった。

「城内の兵糧が、尽きたような兆しがないが・・・」

と、頼行が大友氏泰に聞いた。

「どうやら、食料を密かに城内に運び込んでいる者が・・・」

と、氏泰が答えると、頼行は

「では、夜間の見回りを増やし、見つけ次第捕らえよ」

と、命じた。

ある夜、地元の野上顕道(あきみち) が、間道づたいに兵糧を城内に運んでいた魚返(おがえり)村の農民を捕えた。

魚返宰相房の指示で、切株山の近くにある山田郷の魚返村から兵糧を運び込んでいたことがわかった。

魚返宰相房は玖珠一帯では知られた大富豪で、城内の兵糧を任されていたという。

兵糧の運び込みが絶たれた城内では、不安が高まった。

「残る兵糧があるうちに何とかせねば・・・」

と、籠城軍の総大将である大友貞順が言うと、

「密かに、兵を城から出して府内を襲い、敵の背後を撹乱しよう」

と、叔父の入田土寂が、再度の府内攻撃を提案した。

「今度は、霊山(りょうぜん)寺の協力を得るのがよかろう・・・」

と、敷戸普練が霊山寺と連絡をとった。

霊山寺は、霊山(標高610m、大分市)の中腹にある天台宗の寺で、玖珠の高勝寺と深いつながりを持っていた。

敷戸普練、賀来弁阿ァ梨、同舎弟孫次郎は、城の包囲をかいくぐって、霊山寺に入り、僧兵とともに府内攻めに向った。

府内の留守を預かる戸次朝直、古庄円阿(ふるしょう・えんあ)は、霊山寺の動きを事前に察知し、大分河畔で待ち受けて打ち負かすと、その勢いで、霊山寺に攻め入り、寺を焼き払った。

こうして、府内攻撃は、二度とも失敗に終わったが、城から抜け出した兵は、攻撃に加わっている武将の館を襲ったりして、背後を脅かし続けた。


一色頼行が玖珠城を攻めている間、京都に向った尊氏軍は、湊川の戦いで新田義貞、楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧して光明天皇を擁立した。

都の様子は、大宰府の一色範氏のもとにも伝わっていた。

尊氏から九州のことを任された範氏は、半年経っても、城を落とせない兄の頼行に対し、苛立ちをおぼえ、

「まだ、落とせぬのか。長引けば、我が軍の士気は落ちるぞ!!」

と、責め立てると、豊前の野仲道棟や肥前の深堀時通など、九州各地から多くの武士を援軍に差し向けた。

切株山の周囲が紅葉に染まろうとする頃、城内では兵糧が尽き、兵士たちが飢えに苦しんでいた。

「城内では、兵糧が尽き、兵の士気が下がっております」

と、偵察兵からの報告を聞いた氏泰は、

「今が、総攻撃の時です」

「これ以上待てば、玖珠盆地の冬が大敵となりましょう」

と、総攻撃を進言した。

「よっし、わかった」

と、頼行は、全軍に総攻撃を下した。

10月12日、足利軍は戸次朝直を正面(北側)、古庄円阿を背面(南側)攻撃の大将とし、攻撃を開始した。

城の裏手にあたる南側では、敵味方に分かれた清原一族が、同族で刃を交える激しい戦いを繰り広げた。

しかし、空腹で士気の下がった籠城軍は、もはや、大軍を要する攻撃軍の敵ではなかった。

城の背面が破られると、入田士寂は、

「もはや、これまでか・・・」

と、つぶやくと、甥の貞順に

「貞順殿、お主はまだ若い。ここを逃れて、再起を図れ!!」

と、言い残すと、弟の出羽季貞とともに、敵陣へ切り込んで討ち死にした。

貞順は城から逃れたが、魚返宰相房は同族の野上顕直に捕えられた。

山頂の高勝寺は焼かれ、切株山を赤々と焦がして、玖珠城は落ちた。

こうして、春から秋にかけて8ヶ月に及んだ玖珠城の攻防戦が終わった。

城から落ち延びた貞順は、一旦、氏泰と和睦したが、再び大友惣領家に叛き、敗れて自害したといわれる。

同年11月、都では、尊氏が建武式目17条を定め、新たな武家政権の成立を宣言し、実質的に室町幕府が発足する。

ところが、京都を逃れた後醍醐天皇が吉野で南朝を樹立したので、日本に2つの朝廷が存在する「南北朝時代」が始まった。

南北朝時代は、この後60年続き、大友氏もこの狭間で翻弄されていくことになる。



作成 2012年8月15日 水方理茂

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