○○の趣味 本文へジャンプ
ホーム
大友氏歴史年表
神角寺の戦い
玖珠城攻防戦
高崎山城攻防戦
姫岳の合戦
御所の辻合戦
勢場ケ原の合戦
二階崩れの変
門司城攻防戦
多々良川の合戦
耳川の合戦
栂牟礼城攻防戦
岡城攻防戦
臼杵城攻防戦
鶴賀城攻防戦
戸次川の合戦
鶴崎城攻防戦
石垣原の合戦
二階崩れの変

 大友氏20代当主の義鑑(よしあき)は、嫡男の義鎮(後の宗麟)を廃嫡し、側室の子である三男の塩市丸を後継者にしようとしたが、重臣の斉藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐が反対する。
 義鑑と塩市丸の生母は重臣の入田親誠(ちかざね)に相談の上、斉藤、小佐井に刺客を送り謀殺する。これを知った津久見、田口は、天文19(1550)年2月10日の夜、大友屋敷を襲撃し、二階で寝ていた主君の義鑑、塩市丸とその生母らを殺害し、自らも他の家臣により、その場で斬られた。
 こうして、後にキリシタン大名として有名になる義鎮が、亡き父の後を継いで、大友氏21代の当主になる。九州6ヶ国を従え、南蛮貿易により大友氏の黄金時代を築いた義鎮であるが、家督の継承は容易なものではなかった。
 以上が、一般的に知られている『二階崩れの変』の通説であるが、実に不可解なことが多い。この事件は、家督相続をめぐる争いであったことは間違いないが、その原因については、@義鑑の塩市丸母子への寵愛説、A義鎮謀略説、B家臣団の対立(大友一族と国人衆)説が言われている。
 今回、『新説・二階崩れの変』として、私の見解を紹介したいと思います。

 ※詳しくは、新説_二階崩れの変南蛮文化発祥の地、府内をご覧ください。


(2011年8月12日作成)


大友宗麟公の像
大分市JR大分駅前

「二階崩れの変」で家督を継いだ大友義鎮(後の宗麟)は、中国や東南アジア、ポルトガルとの海外貿易で得た経済力を背景にし、豊後・肥後・肥前・筑前・筑後・豊前の北部九州6ヶ国の守護職を手に入れ、九州探題に任じられる。また、フランシスコ・ザビエルを招いて、領内でのキリスト教布教にも尽力する。晩年、自らも信者(洗礼名はドン・フランシスコ)となる。
(2011年7月撮影)


フランシスコ・ザビエル像
大分市大手町3丁目(遊歩公園)

天文18(1549)年、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師となる。鹿児島、平戸、山口で布教した後、天皇及び足利将軍への拝謁を願い出たがかなわず、失意のうちに京を去る。天文20(1551)年9月、山口に滞在していたザビエルは、大友義鎮の招きで府内を訪れ、11月にインドへ帰る。その後、府内では、ザビエルが蒔いたキリスト教の種が大きく花開くことになる。
(2011年7月撮影)


南蛮貿易場跡
大分市勢家町(神宮寺浦公園)

公園の付近一帯は埋め立てられているが、かつては神宮寺浦と呼ばれる遠浅の美しい浜だったらしい。浜の先には「瓜生島」の伝説で知られる沖の浜港があった。天文14(1545)年にポルトガル商人を乗せた中国のジャンク船が来航してから、南蛮貿易の中心としてにぎわいを見せていた。慶長元(1596)年に起きた地震と津波で、沖の浜は海底に沈んだとされる。
(2011年7月撮影)


南蛮船(ナウ船)
大分市竹町通り(ガレリア竹町)

この船は16世紀の南蛮船で、ポルトガル政府が派遣した「ナウ」という大型船を1/7のスケールで再現したものである。大分市が「日本ポルトガル友好450年」を記念して製作し、平成6年3月に完成した。実際の船は500〜800Tonあり、約300人が乗船し、大砲を装備していたという。ポルトガルはこの船を使い中国や東南アジアから生糸・絹織物・陶磁器を、そして日本からは主に金・銀・銅を積み出していた。
(2011年7月撮影)


西山城大友館(上原館)
大分市上野丘西

顕徳町(大分市)にある大友氏館とは別に、大友氏の私邸として、この西山城大友館(上原館)があったといわれている。館跡は、東西約130m、南北約150mの長方形になり、北西に大手口、東側と北側は自然の断崖、南と西側には土塁と空堀を設けるなどして、敵の侵入を防ぐ工夫が見られる。

(2011年7月撮影)


大友義鑑の墓(到明寺跡)
臼杵市野津町寺小路

大友義鑑(宗麟の父)は、守護大名から戦国大名への道をめざしていた。領内を掌握するため、有力家臣を粛清し、勢場ケ原で大内氏と戦い、実弟を肥後の菊池氏に送り込むなどの隣国支配も強めた。しかし、天文19(1550)年2月10日、「大友二階崩れの変」と呼ばれる家臣の謀反に会い、殺害される(享年49歳)。遺骸は義鑑が生前に建立したとされる菩陀羅山到明寺(ぼだらさんとうめいじ)に葬られた。
(2011年7月撮影)


田口石見守の墓
臼杵市大字諏訪平岡

「二階崩れの変」の後、大友氏の家督を継いだ義鎮は、謀反人である田口蔵人佐、津久見美作守の一族討伐を命じる。謀反人の一族として、追っ手を向けられた蔵人佐の次男、石見守は、奥方とともに討ち死にする。諏訪明神裏の竹薮に、石見守と奥方、それに侍女達の墓がある。
この墓は、臼杵藩の3代藩主稲葉一通によって建てられたという。
(2011年7月撮影)


        ホーム