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南蛮文化発祥の地、豊後府内

 天文14(1545)年にポルトガル人が始めて府内に来航して以降、多くのポルトガル人が来航するようになった。彼らは、鉄砲をはじめとする西洋の進んだ科学技術だけでなく、キリスト教という新しい宗教も持ち込んだ。
 西洋から持ち込まれた異文化は、日本人の価値観を大きく変えようとしていた。そういう社会環境の中で「二階崩れの変」が起き、大友義鎮(後の宗麟)が家督を継ぐ。義鎮はキリスト教の布教だけでなく南蛮貿易にも力を注ぎ、西洋文化を積極的に取り入れた。その結果、豊後府内(大分市)は、南蛮情緒あふれる国際都市として発展を遂げる。
 当時の様子は、大友家に関する古文書やキリスト教宣教師たちの書簡などで推測するだけであったが、最近のJR大分駅周辺の再開発事業による発掘調査で具体的な形として姿を現した。今後の発掘調査で全貌が明らかになるのが楽しみである。

(2011年8月12日作成)


大友屋敷跡
大分市顕徳町3丁目

府内の大友氏の館は200m四方を占める広大な屋敷であった。平成10年から始まった発掘調査では、館跡の南東部分に巨大な池を持つ東西84mほどの庭園跡が発見された。広大な敷地に大きな苑池をもつ屋敷は、京都の室町将軍邸(花の御所)を再現した守護館の典型を示すものといえる。現在も発掘が進められており、更なる発見に期待が膨らむ。

(2011年7月撮影)


万寿寺(臨済宗妙心寺派)
大分市金池町5丁目

徳治元 (1306) 年、大友氏5代貞親により建立され、大友氏の菩提寺となる。開山は直翁智侃(博多の承天寺住職)で、総門、三門、仏殿、法堂、方丈、僧堂、鐘楼など禅宗様の堂宇のほか門前に五重塔が建立されていたといわれる。天正14年、島津軍の侵入により焼け落ち、廃寺となっていたが、寛永8年に府内藩主、竹中重義によって現在地に再興された。

(2012年7月撮影)


南蛮屏風(歴史資料館)
大分市大字国分960−1

豊後国分寺の史跡公園内に大分市歴史資料館がある。その玄関の向かい側に「南蛮屏風」が描かれた大きな障壁画がある。そこには、南蛮船、南蛮の商人、バテレンの様子が描かれ、大友宗麟の時代に栄えた南蛮貿易の様子を想像させてくれる。

(2011年12月撮影)


デウス堂跡
大分市顕徳町2丁目(割烹さとう)

天文22(1553)年6月、府内に礼拝堂が建立され、屋根には十字架が掲げられた。これが府内教会(デウス堂)で、「我が慈悲の聖母(ノッサ・セニョーラ・ダ・ピエダデ)の教会」と呼ばれた。建築にあたっては信者が自ら汗を流したという。大友宗麟の保護もあり、府内を中心にキリスト教は豊後全土に広がっていく。

(2011年7月撮影)


西洋医術発祥記念碑
大分市大手町3丁目(遊歩公園)

ザビエルによってキリスト教が布教されて6年後の弘治3(1557)年、府内に日本最初の西洋式病院が建ち、ポルトガルの青年医師ルイス・デ・アルメイダによって、洋式外科手術が行われた。病院には入院設備もあり、多い時には、100人を超える入院患者がいたという。また、この病院には日本最初の医学校も併設されていた。

(2011年7月撮影)


西洋演劇発祥記念碑
大分市大手町3丁目(遊歩公園)

ザビエルによってキリスト教が布教されて9年後の永禄3(1560)年のクリスマスに、府内のキリスト教会では、信者の手によって「アダムの堕落と贖罪(しょくざい)の希望」、「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」などの西洋劇が演じられている。これが日本における最初の西洋劇といわれる。以来、府内教会ではクリスマスや復活祭に、聖書にもとづく数々の宗教劇が演じられるようになったという。

(2011年7月撮影)


府内城址(荷揚城、白雉城)
大分市荷揚町

府内城は、今から約400年前、大友氏が滅んだ後に入府した福原直高によって築城が始まり、竹中重利によって完成する。その後、大給(おぎゅう)松平氏が入城し府内藩2万石の中心として、明治時代まで続く。現在は、大分文化会館がある大分城址公園として県民から親しまれている。

(2011年7月撮影)


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