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1.ザビエルとの出会い

天文20(1551)年9月、豊後府内(現在の大分市)の秋空に数発の大砲が鳴り響く。

それは、山口から府内へ到着したフランシスコ・ザビエル神父の一行を迎えるため、沖の浜に停泊中のポルトガル船から放たれた礼砲であった。

山口で布教活動していたザビエルを招いたのは、大友氏21代当主の義鎮(よししげ、後の宗麟)である。

後に、北部九州6ヶ国(豊後・肥後・肥前・筑前・筑後・豊前)の守護職を手に入れ、九州探題に任じられることになる義鎮は、この時、まだ21歳で、家督を継いで僅か1年半のことであった。

大砲の音を聞いた義鎮は、すぐに大友館に重臣達を集め、

「神父が到着したようだ。使者を送り、館へ案内せよ!」

と、臼杵越中守鑑速(あきすみ)に命じた。

「大砲で出迎えとは、度肝を抜かれますな・・・」

と、大友家で武勇を誇る戸次伯耆守鑑連(あきつら)が言うと、

「あれが、南蛮風の出迎えだ・・・。鑑連も度肝を抜かれることがあろうとは・・・」

「あっ、はっ、は、は、は、・・・ 」

義鎮の笑いにつられて、一同も一緒に笑う。

沖の浜から小船に分乗したザビエルの一行は、大分川の河口にある船着場に上陸し、出迎えの船奉行に先導されながら、見物に押し寄せた多くの民衆の間を通って大友館へ向う。

司祭服をまとったザビエルは、正装した30人余りのポルトガル人を随行して、船着場から府内の町を南へ横断するように大友館まで進む。

一行の後には、多くの若者達が連なり、長い行列ができた。

見物に集まった民衆は、

「あれが、南蛮から来たという偉いお坊様か・・・?」

「格好も変わっているが、見慣れぬ顔かたちをしている・・・」

と、それぞれ口にし、初めて見る南蛮人の行列を珍しそうに眺めていた。

義鎮は、最高の儀礼でザビエルを迎える。

館の広間では、正面に義鎮、両脇には重臣達が控えていた。

ザビエルが腰を降ろすと、随行のポルトガル人達も身につけていたマントを一斉に広げ、義鎮の家臣達を驚かせた。

義鎮は一同を見渡すと、中央に座るザビエルに向って丁重に挨拶した。

「神父のお噂は、ポルトガル商人達から聞き及んでおり、直接お目にかかりたいと思っていました。今日、こうしてお目にかかれたことは、この上ない喜びで一杯です」

こうして、運命的な出会いを果たした二人は、義鎮21歳、ザビエル45歳の時であった。

ザビエルはスペインで生まれ、パリ大学で学んだ後、カトリック教会の宣教師となり、イグナチオ・デ・ロヨラらとともに「イエズス会」を設立し、ポルトガル国王の要請でインドに派遣される。

インドに派遣され、インド、東南アジア地域で布教活動する中で、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師となる。

二人は会話が始まると、すぐに意気投合する。

義鎮は西洋文化について、多くのことを聞いた。

また、ザビエルも義鎮から多くのことを学び、中国からきた思想が日本人の精神面に大きな影響を与えていることがわかった。

ザビエルは、豊後の若い領主が、これほど聡明で、西洋の事情に精通していることに驚いた。

戦国大名のほとんどが、西洋文化の物質的所産である鉄砲などに興味を示したのに対し、義鎮は、その背景にある精神面のキリスト教に興味を示した。

ザビエルは、義鎮がキリスト教に深い興味を示したので、キリシタン入信を勧めたが、

「我が国では、神仏に帰依する家臣、領民が多く、その頂点にあるのが領主の務めとなっております。その領主がキリシタンになったとあれば、家臣達の結束も崩れかねません・・・」

と、自らの態度を明らかにしなかった。

しかし、

「我が国の領民は、戦に明け暮れ、心が休まることが無い。キリシタンになることで、幸福になれるのであれば、それもよかろう・・・」

と考え、領内での布教活動を許可する。

後に宗麟(そうりん)と名乗る義鎮は、キリシタン大名として有名になるが、キリシタンの洗礼を受けるのはザビエルと会ってから27年後の48歳の時である。

義鎮がキリシタンに入信した時、家督は息子の義統(よしむね)に譲られており、隠居の身であったので、正確にはキリシタン大名ではなく、キリシタン隠居(?)であろう。

二人の会話がしばらく続いた後、義鎮が話題を替えた。

「実は、神父に願い事が・・・」

「願い事とは・・・?」

と、ザビエルが聞くと、驚くべき話が義鎮の口から出た。

「私は、ポルトガルが世界各地で植民地化を進めている事を存じております。しかしながら、日本を植民地にすることをやめてもらいたい」

この言葉を聞いた時、ザビエルは、府内へ呼ばれた本当の理由がわかった。

「この若い領主は、我々の極秘行動を知っているのか・・・。この国の植民地化は、これまでのように、簡単にいくまい・・・」

と、内心動揺したが、とぼけた顔をして見せた。

西洋の歴史から見れば、この大航海時代は植民地化の時代でもあった。

ポルトガルとスペインは、交易とキリスト教布教をテコにして、南米、アフリカ、インド、東南アジアで植民地を増やしていた。

イエズス会の神父が、はるばる、極東の地、日本にやって来る目的は、単なる宣教活動だけでなく、日本占領計画の一貫だったとされる。

義鎮はザビエルの動揺をよそに、更に話を進める。

「神父はポルトガル国王の信頼が厚いと聞いてます。そこで、日本を植民地にする代わりに、友好国として対等の関係を結ぶことを国王に進言していただきたい。これは、お互いのためであると思うが・・・」

「お互いのためとは・・・?」

と、ザビエルが聞き返した。

「神父もご存知のように、わが国の武士は勇敢である。ましてや、戦国時代といわれる臨戦状態にあるので、容易に占領出来ますまい。更に、我が国の海域では海賊が出没し、台風が吹き荒れるので、船による兵の輸送や食糧の補給は困難となり、上陸した兵は孤立しましょう。そうなれば、貴国も多大な被害を受け、国王の地位も危うくなるのでは・・・」

と、義鎮は日本を植民地化することの無謀さを具体的に説明した。

日本に2年間滞在したザビエルは、義鎮の言うことを容易に理解することが出来た。

「これまでと同じような植民地化は無理だということを、国王に進言しなければ、取り返しがつかなくなる・・・」

こう思ったザビエルは、早く国王に会って植民地化の方針転換を進言しなければならないと思い、帰国を決意するのであった。

「わかりました。すぐに帰国して、国王に伝えましょう」

ザビエルは、これまで各地(インド、東南アジア、日本)を回ってきたが、毅然とした態度で、対等関係の国交を求めてきたのは、義鎮が初めてだった。

「こんなアジアの果て、極東の島国に、これほどの見識の高い領主がいようとは・・・。この領主の治める土地であれば、布教の中心としてまちがいあるまい!!」

ザビエルは帰国までの3ヶ月間、府内を日本でのキリスト教布教の中心地とするための基盤づくりに奔走し、11月にインドのゴア(インドにあるポルトガル領、アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が駐在した)へ帰る。

ザビエルは義鎮から頼まれ、ポルトガル国王と親善を結ぶための親書を携えた使節(義鎮の家臣3名)を同行した。

使節一行は、ゴアのインド副王から歓待され、翌年帰国して、

「ポルトガル人の言っていた事は、嘘ではなかった」

と、自分たちが見てきた西洋の事情を義鎮に報告している。

ザビエルの日本滞在は僅か2年だったが、我が国の歴史に大きな足跡を残した。

ザビエルがゴアに送った書簡を見ると、日本の情報が調査報告書のように詳しく書かれている。

最初は日本を金銀に満ちた豊かな市場として報告し、有望な交易国として商売の促進を呼びかける内容だった。

ところが、義鎮と出会ってから、その内容が、手の平を返すように変わった。

今までの魅力的な市場については触れず、いかに日本に来る途中の海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく積極的な関係を持つには値しないという正反対の内容になっている。

金銀を求めるポルトガル人が武力に訴えて日本を占領しにくることを危惧したためのニセ情報であるともいえる。



2.ポルトガル人の来航

ザビエルが府内を訪れる6年前の天文14(1545)年8月、ジョルジ・デ・ファリアを頭とする7人のポルトガル商人を乗せた中国のジャンク船が府内に来航する。

この船は交易のために寄港したもので、様々の珍品を満載していた。

ファリアは、府内での交易の許可を得るため、通訳の中国人航海士を伴って大友館を訪れる。

当時、大友館の主は大友家20代当主の義鑑(よしあき、義鎮の父)であった。

謁見に用意された広間には、ファリアが進物として持参した南蛮の珍しい品々が並べられた。

義鑑は、初めて見る西洋人を目の前にして、通訳の中国人航海士に尋ねた。

「あの者達は、珍しい顔かたちをしているが、どこから来たのか?」

「ルソン(フィリピン)、インド、アフリカより遥か彼方のポルトガルから貿易のためにやって来ました。どうか、御屋形様の庇護(ひご)をいただけますよう・・・」

「そうか、南蛮人であるか。商売とはいえ、遠方からご苦労なことだ」

南蛮とは、ルソン(フィリピン)、ジャワ(インドネシア)、シャム(タイ)などの東南アジア諸国のことであるが、東南アジアを経由して来たポルトガル人、スペイン人を南蛮人と呼んでいた。

中華思想では、中国が世界の中心で最も進んだ国とし、周辺の異民族を四夷(しい)と呼び蔑視していた。四夷とは、東夷(とうい)、南蛮(なんばん)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)を云う。

挨拶が終わると、ファリアは中国産の綿や絹をはじめ、東南アジア、ヨーロッパ産の品々を手にとって紹介した。

義鑑は、初めて見るものばかりで、驚きを隠せなかった。特に時計、ガラス製品、じゅうたんがお気に入りのようであった。

「府内での交易を許可する。沖の浜に屋敷を用意するので、そこに滞在するがいい」

「五郎(義鎮)、南蛮人の世話は、そちに任せる」

と、傍に控えていた嫡男の義鎮(よししげ、後の宗麟)に指示した。

義鑑は、広間に並べられた進物品を一通り見渡してから、

「その長い筒は、何だ?」

と、荷物の中にある物を指差した。

ファリアは、その筒状のものを小脇に抱えて、

「これは、鉄砲という我が国の武器です。筒の中に弾丸の鉛と火薬を詰め込み、手元で点火して火薬を爆発させ、弾丸を前方に飛ばすというものです」

ファリアの説明に納得しかねていた義鑑は、

「そこの庭で試して見せよ!」

と、鉄砲の実演を命じた。

一同は、庭に集まり、50メートル先に鎧の胴が的に取付けられた。準備が整うと、ファリアは鉄砲に火薬と弾丸を装填し、火縄に火を付けた。

「それでは、撃ちます」

と言って、的に狙いを定め、引き金を引いた。

すると、「ズドーン!」と、落雷のような音が館中に轟いた。

凄まじい爆音に、一同は腰を抜かすほどに驚かされた。

的に近づいてみれば、胴には弾丸が貫通した穴が開いていた。

「これは、すごい。見事だ!!」

庭に集まった一同は、始めて見る鉄砲の威力を認識した。

こうして、府内に鉄砲が伝わったのは、種子島(たねがしま)に遅れること2年後のことである。



3.異文化への憧れ

大友の当主である義鑑(義鎮の父)が、ポルトガルとの交易を許可したことで、翌年から多くの南蛮(ポルトガル)人が来航するようになる。

南蛮船は南風の吹く7〜8月に入港し、北風の吹き始める11月下旬〜12月に帰って行った。

その間、5ヶ月間停泊し、府内で交易を行う。

この噂は豊後国内だけにとどまらず、近隣諸国にまで広がり、南蛮からの珍品を求めて、多くの商人が集まり、府内の町は多いに賑わった。

当時、16歳の若者であった義鎮(後の宗麟)は、多くのポルトガル人と接するうちに、西洋の暮らしや、ものの考え方、進歩した科学などについて多くのことを知ることが出来た。

多くの若者が異文化に憧れるように、義鎮も南蛮人から聞く西洋の進んだ文明への憧れを抱き、

「南蛮人の言うことが本当かどうかを確かめるために、南蛮の国へ行って自分の目で見てみたいものだ・・・」

と、思うようになった。

ある日、義鎮はファリアから南蛮船に招かれ、初めて地球儀を見た。

「世界は広いなあ。日本はこんなに小さいのか?」

「我らは、この中で、狭い領土をめぐって争い合っているのか・・・」

「ところで、ポルトガルはどこにある?」

と、義鎮が聞くと、

ファリアは地球儀を半回転し、ポルトガルを指差した。

「そんな遠くから、迷わず来れたものだ・・・」

義鎮の疑問に、ファリアは海図を広げて、羅針盤(コンパス)と天測儀(アストロラーベ)を見せながら、答えた。

「天測儀で太陽や星を観測して自分の位置を確認しながら、羅針盤で方角を定め、海図に引いた航路に従って航行すれば安全に目的地に到着することが出来ます」

この説明を聞いた義鎮は、西洋の進んだ航海術に感心させられた。


大友館で鉄砲の威力を見せ付けられた大友家の重臣達は、子息をファリアのもとに送り、鉄砲の操作を学ばせた。

彼らは、義鎮とともにファリアの弟子となり、鉄砲の取り扱いを学び、上手に使いこなすようになる。

ある日、義鎮の弟である晴英(はるふさ)が鉄砲の暴発で負傷すると言う事故が起きた。

威力を増そうとして、鉄砲の中に火薬を詰め込みすぎたのが暴発の原因だった。

晴英の左薬指は、薄皮一枚を残すほどにちぎれ、血まみれになった。

晴英はあまりの痛さで、左薬指を右手で押さえながら、うずくまった。

騒ぎを聞いて駆け付けた義鎮は、

「八郎(晴英)、すぐに、ファリアを呼んで来るので、我慢して待て!」

と言って、急いでファリアを呼びに行った。

ファリアは、晴英の傷をみると、

「これは、ひどい。すぐに手術だ!!」

と言うと、手術道具を取り出した。

手術は、焼酎で傷口を洗い、針と糸で縫合した後、卵白をヤシ油で練った軟膏を塗って包帯をするという簡単なものであった。

1ヶ月ほどで晴英の指は、完治したが、義鎮の頭の中からは、ファリアが行った手術のことが頭から離れなかった。

これが、日本で行われた最初の西洋外科手術と言われている。


鉄砲の練習中、義鎮は大友家随一の戦術家と知られていた戸次鑑連(あきつら)を呼んだ。

「若殿(義鎮)、何か御用ですか?」

「鑑連、鉄砲は弓矢に比べ、簡単に命中することが出来る。しかも、短期間で上達する。これを戦で使いたいが、如何じゃ?」

大友館でファリアから鉄砲の試し撃ちを見せられてから、鑑連も鉄砲の実戦使用を考えていた。

「さすが、若殿、目の付け所が良い・・・」

と、思いながら、答えた。

「数丁の鉄砲では、効果はありませんが、数百丁以上を持って一気に連射し、敵が乱れたころを長槍隊で攻めれば、効果がありましょう」

義鎮は、鑑連の考えに満足し、実現のための具体策を述べた。

「多くの鉄砲を所有するには、輸入に頼らず、国内で造る必要がある。駄原(だのはる)村の鋳造・鍛冶職人衆に作らせてみよう」

「もう一つは、火薬の原料となる硝石の確保が必要だ。国内では採れないので、南蛮から輸入するしかない。そのためには、南蛮国との友好関係を構築する必要があると思うが・・・」

こうして豊後では、義鎮が当主になると、他の国に先駆けて鉄砲の国産化に力を注ぎ、硝石の安定輸入のためポルトガル国王、インド副王、さらにローマ教皇との間で友好関係を築き上げたのである。

後になって、義鎮は鉄砲の国産化に成功し、そのうちの2丁を将軍足利義輝に贈呈している。

義鎮は、鉄砲だけでなく大砲も国産化したと言われていたが、最近、ロシア・サンクトペテルブルクの国立軍事史博物館で、義鎮がつくらせた大砲(ファルコン砲)が発見され、これが証明されることになった。

また、義鎮とともに鉄砲の実戦化のために尽力した戸次鑑連は、大友軍随一の鉄砲隊を組織し、鉄砲の集団運用を編み出した。

永禄12(1569)年の「多々良川の戦い」では、鑑連の率いる大友鉄砲隊が、8百丁の鉄砲で一斉射撃したという記録が残っている。

「多々良川の戦い」は、武田騎馬軍団を討ち破った織田の鉄砲隊で有名な「長篠の戦い」よりも、6年前のことである。

鉄砲の使用に精通していた鑑連は、鉄砲の弱点を改良するため「早合(はやごう)」と呼ばれる弾丸+薬莢(やっきょう)のようなものを開発し、鉄砲の速射を可能にしている。

その軍団を継承した立花宗茂が、関ケ原合戦時に近江大津城を攻撃した際、他家の鉄砲隊の3倍の速射を行ったことが伝えられている。



4.父との確執

西洋人として初めて義鎮(後の宗麟)に影響を与えたジョルジ・デ・ファリアは、府内に3年間滞在した後、インドのゴアへ帰国した。

代わりにヘディオゴ・ヴァス・デ・アラゴンが5年間滞在することになった。

彼は熱心なキリシタンの信者で、朝は聖書に向って祈り、夜はコンタツで祈りを唱えていた。

この熱心さに義鎮は感心し、キリスト教の教義について尋ねた。

「そなたは、神仏に祈っているのか?」

その問いに、彼は笑い、

「キリシタンは、天地の創造主(デウス)と世の救い主(イエス・キリスト)以外には祈りません」

と、答えた。

義鎮は、これまで、教えられてきた神や仏とは、大きく異なる宗教の存在を知ることになる。

「どうすれば、キリシタンになれる?」

「神父様から洗礼を受ける必要があります」

「神父様とは?(仏教の僧侶、神道の神主のようなものか・・・)」

義鎮は、アラゴンとの会話で、キリシタンに興味を持ち、

「神父に会って、キリシタンのことを深く聞いてみたい・・・」

と、思うようになった。

最初は、西洋人の持つ高度の科学技術に興味を持ったが、その背景にある精神面のキリスト教に引かれていく。


天文18(1549)年8月、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する。

薩摩の領主である島津貴久は、南蛮貿易の利益を求めてザビエルを歓待し、一旦は、キリスト教の布教を許可した。

しかし、反キリスト教の態度を示す僧侶、信徒の反発が大きかったので、布教の許可を取り消す。

鹿児島での布教をあきらめたザビエルは、日本全国での布教許可を得るため、後奈良天皇および足利義輝への拝謁を求めて、京都に向かうことにした。

その途中、府内に立ち寄ろうとして豊後を目指したが、国境で足止めされ入国を拒否されたので、やむなく肥前の平戸に向かう。

ザビエルの入国拒否を耳にした義鎮は、凄まじい形相で府内館に駆け込み、

「南蛮から来たザビエル神父を追い返したと聞きましたが・・・」

と、父である御屋形(義鑑)に尋ねた。

「そうだ。わが国は、古来より神仏に帰依してきた。今さら南蛮坊主の教えはいらぬわ!!」

と、義鑑が答えたのに対し、

「ザビエル神父は、南蛮人が信じているキリスト教の高僧と聞いています。一度だけでも、話を聞いてみては・・・?それに、キリスト教を拒否したとあれば、府内から南蛮人が去り、貿易の利益も消えてしまうことになりましょう」

と、義鎮はザビエルの受け入れを訴えた。

「五郎(義鎮)よ、畿内で広がった一向一揆のことは、知っているか? 貿易の利益を失うことより、人心が乱れることの方が、よっぽど怖いとは思わぬか!」

と、領主としての考えを説く義鑑に対し、義鎮は

「我が大友家は長年、多くの神社、仏閣を保護し、神仏に帰依してきましたが、戦が絶えず、民の暮らしはいっこうに良くなりません・・・。  しかし、キリスト教を信じる南蛮人の暮らしは、平和で豊かであると聞いています」

と、反論した。

神仏を重んじる大友の当主として、これ以上の異文化への傾倒は困ると父の義鑑は感じ、義鎮に改めるよう言ったが、聞き入れようとしなかった。

これには、義鑑も次期当主である義鎮に不安を感じずにはいられなかた。


その後も、義鎮は西洋文化を知れば知るほど、これまで自分達が教えられてきた事や、当たり前と思われた習慣などに疑問を持つようになる。

「西洋文明をいち早く取り入れ、豊後を豊かに富める国にしたい・・・。領民が迷わず、平穏に暮らせるように望みを持たせる、それがキリスト教でもかまわぬ・・・」

このような、義鎮のグローバルな発想に基づく言動は、家臣、領民にとって理解しがたく、ただ恐れるばかりであった。

特に、既得権益の上にあぐらをかく寺社勢力や重臣達にとっては、邪魔な存在となってきた。

そのうち、領内では、

「義鎮殿の治世になったら、どんなことになるかわからんぞ!」

と言う噂が広まり、義鑑も無視出来なくなっていった。

そして、義鎮の振る舞いに堪(たま)りかねた義鑑は、ついに、義鎮を別府の浜脇館に移し、謹慎処分にする。

この出来事は、義鑑に義鎮廃嫡を真剣に考えさせるきっかけになった。

義鎮と、その父である義鑑が生きた時代は、弱肉強食の下克上(げこくじょう)といわれる戦国時代である。

つまり、力の無い守護大名は、家臣の守護代や国人にとって代わられようとしていた。

13歳で病弱の父、義長から大友の家督を継いだ義鑑は、守護大名(幕府より領国支配を任される)から戦国大名(自らの力で領国を統治する)への道をまっしぐらに目指した。

そのため、反抗の恐れがある大神親照(おおが・ちかてる)、佐伯惟治(これはる)などの有力家臣を粛清し、大友本家に権力を集中させた。

また、「勢場ケ原の戦い」で大内氏と戦い、実弟を肥後の菊池氏の当主に送り込むなどして領土拡大も図った。

戦国時代、大友家臣団や大友支配下(肥後、豊前、筑前、筑後)の武将の名前に「鑑」の字が多く見られる。

これは、義鑑から賜ったものであろうが、義鑑の権力が強かったことの証明にもなろう。

大友氏の政治では、重要事項は重臣との合議で決定され、決定事項も重臣との連名で伝えられていた。

この様な重臣たちの組織は戦国大名によって呼び名が違うが、大友氏の場合、加判衆(かばんしゅう)と呼ばれていた。

義鑑のもとで、大友氏は戦国大名として生き残ったが、36年の長期政権となった義鑑を支える加判衆は、筆頭の入田丹後守親誠(ちかざね)を始め、他紋衆(国人)の斉藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐(くらんどのすけ)ら、義鑑の言うことを聞く連中で占めらていた。

先代の義長以来、加判衆を努めていた長老の吉岡長増(ながます)は重臣から外され、後に「豊州3老」として義鎮を支えることになる同紋衆(一族、譜代)の臼杵鑑速(あきすみ)、戸次鑑連(あきつら)、吉弘鑑理(あきまさ)らは、その能力を義鑑から警戒され、重要な役職から外されていた。

大友本家へ権力を集中させ、独裁政権化する義鑑の政治手法に対し、本来の加判衆による合議制を望む同紋衆の不満が高まっていった。



5.父の死、そして21代当主へと・・・

義鎮(後の宗麟)への謹慎処分は、大友家臣団にも大きな驚きを与えた。

嫡男の義鎮を盛り立てようとする者、当主義鑑の決定に従う者、どちらか決めかねている者、それぞれが、息を潜めて状況を見守り続けていた。

このような家臣団の動揺を知る由もない義鑑は、加判衆筆頭の入田丹後守親誠(ちかざね)と義鎮廃嫡についての談合を重ね、ついに、

「五郎(義鎮)を廃嫡し、後の世継ぎには、2人の弟の中から選ぶ」

と、決断を下す。

丁度、この頃、府内館に珍しい人物が訪れた。

訪れたのは、先代(義長)の頃から、長年に渡り、加判衆を努めていた吉岡越前守長増(ながます)である。

長増は大友随一の外交手腕で、周辺諸国と多くのパイプを持っていることで知られていた。

しかし、10年前から、義鑑とそりが合わず加判衆を外されていた。

「長増、変わりは無かったか」

久しぶりに長増の顔を見た義鑑は、笑顔で迎えた。

「おかげで、何とか、無事に生きております」

「あいかわらずの口ぶりだの・・・。ところで、急な用件とは何じゃ?」

長増は姿勢を正し、話を始めた。

「昨日、山口の陶隆房(すえ・たかふさ)から使者が参り、主君である大内義隆殿を亡き者にし、八郎(晴英、はるふさ)殿を当主にお迎えしたいとの申し入れが・・・」

話を聞いた義鑑は驚きを隠せず、つぶやいた。

「隆房め、大内の跡目を餌(えさ)にして、味方に付けようとは・・・」

お互い、しばらく考え込んで、

「御屋形様、悪い話でもなさそうだと思いますが・・・」

と、長増が言うと、義鑑も扇子で膝をたたいて、

「大内の血を引く晴英を傀儡(かいらい)にして、権力を握ろうとする魂胆(こんたん)は見えておる。これを逆手に取って、大内の領土を頂くとするか・・・。関門海峡を越えて、長門、周防、石見を手に入れるのも夢ではないわ」

と、上機嫌のうちに話が終わった。

義鑑の正室は坊城藤原氏(実は伏見宮貞常親王)の娘と言われており、長男義鎮を産んですぐに亡くなる。

その後、正室に迎えられたのが次男の晴英を産んだ大内義興(よしおき)の娘といわれている。

従って、晴英は義隆の甥にあたる。

義鑑との話が終わった長増は、館を出る前に入田親誠の所に立ち寄り、

「五郎殿(義鎮)を廃嫡するという噂があるが、本当か・・・?」

と、尋ねた。

親誠は、しばらく沈黙してから答えた。

「長増殿に隠し事は無理でござるな・・・」

「事実でござる。今度の加判衆の寄り合いで、御屋形様から正式に告げられましょう」

これを聞いた長増は、親誠をにらんで、

「親誠、大友の世継ぎは大友本家のみならず、同じ血を引く我ら同紋衆にとっても重要なことである。ましてや、正室の子である五郎(義鎮)殿を廃嫡にするとは・・・」

「同紋衆として、命に代えても御屋形様を諌めるのが努めであろう!!」

と言うと、足早に館を後にした。

館を出た長増は、帰り道で、

「御屋形様は、変わられてしまった。諌める側近達は、全て遠ざけられ・・・。いよいよ、来るべき時が来たか・・・」

と思うと、そのまま、臼杵越中守鑑速(あきすみ)の屋敷へ向かう。

鑑速は、義鎮の側近として大友氏の外交と対外貿易で活躍し、吉岡長増とともに、大友の政務を担当する「豊州二老」と呼ばれることになる。

弟の安房守鎮続(紹冊の号で知られる)は、博多の御笠川の改修や「房州堀」を築くなどして、博多の町の発展に貢献したことで知られる。

長増の突然の訪問に鑑速は、何事かと驚いた。

「先ほど、御屋形様に会って来た。五郎(義鎮)殿の廃嫡は間違いない。跡継ぎは、三男の塩市丸様だ」

「八郎(晴英、後の大内義長)殿は、大内義隆殿の跡を継いで、大内の当主となられよう」

と、長増は館内で見聞きしたことを話した。

「我ら同紋衆に相談無く、そんな重大な決定を・・・」

話を聞いた鑑速は憤慨し、これから起ころうとすることの不安を感じた。

しばらく沈黙が続き、お互いの目が合ったところで、長増は口を開いた。

「御屋形様は、当主の座が長過ぎたようだ。この辺で、隠居してもらった方が良さそうだな・・・。伯耆守(鑑連)と伊予守(鑑理)の協力が必要となろう。すぐに、呼んでくれ!」

鑑速は、長増に言われるまま、配下の者に両人を呼びに行かせた。

伯耆守とは、戸次鑑連(あきつら)のことである。

後に立花氏を継いで、立花道雪(どうせつ)の名で武勇を全国に轟かせる。

初代柳川藩主となる立花宗茂は養子にあたる。

道雪は、生涯37度の戦いを全て勝利で収めた不敗の将として知られ、「鬼道雪」、「雷神」とも呼ばれる。

その勇猛を耳にした甲斐の武田信玄が、面会を望んだという逸話も残っている。

また、伊予守と呼ばれる吉弘鑑理(あきまさ)は、智勇兼備の武将で知られ、義鎮の側近として活躍し、吉岡長増、臼杵鑑速とともに、大友の軍事を担当する「豊州三老」と呼ばれるようになる。

吉弘氏は、大友一門の中でも最も「死をも恐れぬ凄まじい忠誠心」の一族としても知られる。

父親の氏直は「勢場ケ原の戦い」、長男の鎮信は「耳川の戦い」、次男の高橋紹運は「岩屋城の戦い」、孫の統幸は「石垣原の戦い」で、それぞれ壮烈な死を遂げている。

立花道雪の養子になった立花宗茂は、紹運の実子なので、鑑理の孫になる。

戸次鑑連と吉弘鑑理が鑑速の屋敷に現れ、全員揃うと、

「この長増に、皆の命を預けてくれぬか・・・」

長増は皆の前で深々と頭を下げた。

「越前(長増)殿、何事でござるか・・・?」

と、鑑連、鑑理が聞いた。

長増は、独裁政権化する義鑑の政治姿勢に対し、家臣団を巻き込んだ大乱が起こる前に手を打ちたいと説明し、自らの決意を述べた。

これに対し、一同も長増の考えを支持した。

「我らも、越前(長増)殿と同じ考えでござる。五郎(義鎮)殿廃嫡の話を聞くと、我慢も限度を超えました」

皆も、自分と同じ考えであることがわかった長増は、具体的に起こす行動について説明した。

「御屋形様には、五郎(義鎮)殿に家督をお譲り頂いて、隠居してもらう。加判衆の入田、斉藤、小佐井、津久見、田口が抵抗するかもしれぬが、その時は、武力で成敗する・・・」

「全ては、この長増が責任をとる。五郎殿廃嫡のことが、皆に知れ渡る前に決行せねばならぬ。すぐに取りかかってくれ!」

こうして、長増を含む4人は、それぞれ、決意を胸に秘めて屋敷に戻る。


天文19(1550)年2月10日の朝、義鑑は入田親誠に加判衆の召集を命じる。

府内の高台にある上原(うえのはる、現在の上野丘)館に集まった入田親誠、斉藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐を前にして、

「五郎(義鎮)を廃嫡し、三男の塩市丸を世継ぎとする。八郎(晴英)には、大内氏を継いでもらうことになろう・・・」

と、告げる。

斉藤、小佐井、津久見、田口ら4人は、かねてより親誠から話を聞いていたので、たいした驚きも無く、うなずいた。

義鑑は、親誠に向って、

「廃嫡に不満を持つ同紋衆が、五郎を担ぎ上げて謀反を起こす恐れがある。親誠、密かに手勢を率いて、五郎を始末しろ!」

「はっ、承知しました」

話が終わると、一同はそれぞれ退散した。

斉藤、小佐井の両人は府内に設けられた自分の屋敷へ戻り、津久見、田口は警護のため、家臣達と上野原館に残った。

上原館で加判衆の寄り合いが開かれている頃、吉弘鑑理、臼杵鑑速が義鎮の滞在する別府の浜脇館に向かう。

義鎮は、手勢を率いてやってきた鑑理、鑑速に

「2人揃って、何事ぞ!」

と、聞いた。

「若殿(義鎮)、謀反でございます。この館にも追っ手が・・・、我らが警護しますので、事態が終息するまで立石へ退いて頂きます」

こうして、義鎮は臼杵鑑速、吉弘鑑理に守られて、立石に退き、陣を張る。

入田親誠が義鎮討伐にやってきた時には、浜脇館は、もぬけの殻であった。

「しまった!! 感づかれたか・・・。何処へ逃げたか探せ!!」

しばらくして、親誠の家臣が近寄り、

「若殿(義鎮)は、臼杵鑑速、吉弘鑑理の手勢に守られ、立石山に陣取っています」

「まさか、先手を取られたか・・・」

と、言いながら、吉岡長増の仕業であろうと思った。

「すると・・・、御屋形様が危ない!」

「皆の者、府内へ戻るぞ!!」

と言うと、急いで府内へ引き返す。

府内へ戻ると、既に上原館が吉岡長増、戸次鑑連、一万田鑑相、田北鑑生、佐伯惟教らの手勢によって、包囲されていた。

「しまった。手遅れか・・・」

親誠は手勢とともに府内を去り、居城の津賀牟礼(つがむれ)城へ逃げる。


吉岡長増は上原館の包囲を見届けると、大手門から、中に聞こえるように大声で訴えた。

「我ら、御屋形様に謀反の企てはありませぬ。御屋形様を惑わせた奸臣(かんしん)、津久見美作守、田口蔵人佐の引渡しを・・・!!」

しかし、中からの返事は無く、門を開く気配がなかった。

すると、この騒ぎを聞きつけた斉藤播磨守、小佐井大和守が手勢を率いて背後から襲ってきた。

大手門の前で、戦いが行われ、斉藤播磨守、小佐井大和守は、戸次鑑連の手勢に討ち取られた。

鑑連は、館の中に向かい、

「斉藤播磨守、小佐井大和守を討ち取ったり!!津久見美作守、田口蔵人佐も観念し、出て来い!」

斉藤、小佐井が討たれたと聞いた津久見美作守、田口蔵人佐は、義鑑のいる部屋に向かう。

「何事だ、外が騒がしいが・・・?」

との義鑑の問いに、津久見と田口は答えた。

「謀反です。館は吉岡長増、戸次鑑連、一万田鑑相、田北鑑生、佐伯惟教らの手勢で包囲されました」

義鑑は、驚いた様子で、

「何だと!!わしが、一人前の武将に育てた連中ではないか・・・。しかも、その背後に、切れ者の長増がおっては、ぬかりはあるまい」

と、言うと、天を仰ぎながら、

「これほど多くの家臣が、わしから離れていようとは・・・。不覚であった・・・」

「早く、お逃げを・・・。まさか、御屋形様のお命までは・・・?」

そばで、田口が逃亡を勧めたが、義鑑は覚悟を決めた。

「生き恥は、ご免じゃ・・・。二階には誰も入れるな!! 美作守、蔵人佐、さらばじゃ・・・」

と、言うと、すぐに二階のほうへ走り去った。

そのうち、大手門が破られ、吉岡、戸次らの手勢は館の中になだれ込んだ。

津久見、田口の手勢30余名は必死に防戦したが、守りきれず、ついに、全員討ち死にした。

長増と鑑連は、必死に義鑑を探したが、発見した時は、既に自害した後だった。
 
長増は、かすかに息をしている義鑑を抱き起こし、

「御屋形様、長増でございます。我ら、五郎(義鎮)殿を盛り立て、大友家を守っていきますので、ご安心を・・・」

と、言うと、義鑑は笑いながらうなずき、息絶えた。

享年、49歳であった。

長増は立ち上がり、刀を掲げながら、館中に聞こえるほどの大きな声で、

「我ら、御屋形様を殺害した謀反人の津久見美作守、田口蔵人佐を討ち取ったり!!」

これを聞いて、手勢たちの勝どきの声が、

「おー! おー!」

と、館中に響き渡った。

長増は、騒ぎの興奮が冷めない中、

「さて、これからが、仕上げじゃ・・・」

と、つぶやくと、佐伯惟教を呼び、別府の立石山に逃れた義鎮を迎えにやった。

義鎮は、佐伯惟教に先導されて無事に府内大友館に戻る。

長増は、義鎮に事態の説明を行う。

「御屋形様は若殿を廃嫡し、塩市丸様に家督を譲ろうとしましたが、反対する津久見と田口によって殺害されました。謀反人の津久見と田口は成敗しましたが、首謀者の親誠は、居城の津賀牟礼城に逃げました」

長増は、義鎮への説明が終わると、皆の方へ向いて、

「これより、大友の御屋形は、義鎮殿でござるぞ!!」

と言い、義鎮に向かい深々と頭を下げ、忠誠を誓った。

これに習い、緒将も義鎮に向かい、

「御屋形様!!」、

「御屋形様!!」、

と、言う声を発しながら、深々と頭を下げた。

こうして、義鎮が大友氏21代の当主となる。

早速、新しい御屋形のもとで、軍議が開かれ、謀反の首謀者である入田親誠の討伐が決まった。

討伐に向ったのは、戸次鑑連と斉藤佐馬助(後の鎮実)であった。

鑑連は親誠の娘婿であり、佐馬助は上原で討たれた斉藤播磨守の息子であったため、両人は、忠誠の証として、あえて討伐に志願せざるをえなかったと思われる。

親誠は居城の津賀牟礼城で破れ、岳父である肥後の阿蘇惟豊(これとよ)に庇護を求めたが、惟豊によって殺害される。

親誠の死によって、大友氏の家督争いとなった「二階崩れの変」は、収束した。


しばらくして、吉岡長増は、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速を密かに呼び寄せ、

「大友家のためとはいえ、主君(義鑑)を亡き者にした我らの罪は大きい。罪滅ぼしとして、我らは、新しい御屋形(義鎮)様を命がけで補佐し、豊かな国にしようぞ!!」

と、お互いに誓い合った。

こうして、吉岡長増、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速は、政務と軍事の中心となり、義鎮を支え、大友の黄金時代を築き上げるのであった。

義鎮は「二階崩れの変」の後、いち早く世界に目を向け、ポルトガルとの友好関係を樹立し、南蛮すなわち東南アジア諸国との直接交易を積極的に進めていった。

そして、豊後府内(大分市)は、大友氏の東アジア交易ネットワークの中心として九州と世界に輝きを放つことになる。



作成 2011年8月12日 水方理茂

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