1.朝鮮貿易の始まり
永享元 (1429) 年7月、博多の息浜(おきのはま)から大友氏の大船団が朝鮮に向けて出港した。
「これが大友氏にとって、海外貿易の始まりとなろう・・・」
と、大友氏12代の持直(もちただ)は、甥の親繁(ちかしげ)に言った。
大友の重臣や九州各地の商人が港に集まり、船団を見送った。
この時、持直は大友氏の家督を継いで6年になり、甥の親繁を後継者として養育していた。
海外貿易と言えば、大友宗麟(義鎮)が有名であるが、大友氏で最初に始めたのは、持直である。
持直は貿易船を朝鮮に10回派遣し、後に家督を継ぐ親繁も20回に及んだと伝えられる。
持直は、海の彼方に小さくなっていく船を眺めながら、
「ようやく、戸次(べっき)の爺(直光)との約束が果たせたようだ」
と、つぶやいた。
持直の母は、戸次直光(ただみつ)の娘であった。
当時、武家の男子は母方の実家で養育されるのが常であり、持直も戸次庄で育った。
戸次庄は現在の大分市内にあり、戸次、竹中、判田を中心に南北は上戸次〜松岡、東西は吉野〜霊山東までの領域とされる。
直光は孫の持直を可愛がり、持直も祖父を尊敬していた。
持直の名前は、将軍足利義持の「持」と直光の「直」から一字ずつ貰っている。
ちなみに、祖父の直光は、足利尊氏の実子でありながら、直義(ただよし)の養子となった直冬(ただふゆ)の「直」と南朝方で武勇を馳せた菊池武光の「光」から貰っている。
直光は、父の頼時とともに一時期、南朝方に付いていたことがある。
その頃の南朝は全盛期で、懐良親王(かねよししんのう)が「日本国王懐良」と称し、明や高麗と盛んに貿易を行って、商業による財源を確保していた。
かつて、大友氏の所領であった博多の港は南朝方の支配下にあり、行き交う貿易船で賑わっていた。
直光は幼い孫の持直に、
「そなたが、大友の家督になった時には、博多の港を取り戻し、海外貿易で豊後を豊かな国にしてもらいたい・・・」
と、口癖のように言っていた。
大友氏6代貞宗の頃、鎌倉幕府の出先であった鎮西探題攻めの功として、後醍醐天皇より博多の息浜が与えられた。
当時の博多は、港のある北東部を「息浜」、南西部を「博多浜」と呼び、息浜を大友氏、博多浜を少弐氏が治めていた。
ところが、南北朝の動乱期になると博多は南朝方に占拠され、騒乱終結後も九州探題の今川了俊(貞世)によって、貿易が独占されていた。
了俊が探題を解任されると、持直は少弐満貞と協力して、後任の渋川義俊から息浜を取り返し、博多の貿易権を回復する。
2.三角畠の乱
大友持直の家督相続は、容易なものではなかった。
応永30(1423) 年、持直は従兄の親著(ちかあき) から、大友氏12代の家督を譲られる。
この頃の大友氏は、南北朝合体時に9代の氏継(うじつぐ)と10代の親世(ちかよ)の兄弟間に和睦が成立し、以後の家督を二人の子孫から交互に出すようになった。
親世が氏継の子である親著に家督を譲ったので、親著が親世の長男である持直に家督を譲るのは当然のことであった。
持直が家督を相続した頃、新しく九州探題になった渋川氏と筑前(福岡県)の守護職を長年務めてきた少弐(しょうに)氏の対立が表面化してきた。
応永32(1425)年7月、少弐満貞(みつさだ) と菊池兼朝(かねとも) が九州探題の渋川義俊を攻め、博多から追い出す事件が発生した。
幕府は少弐氏、菊池氏の討伐として、周防、長門、豊前の守護職である大内盛見(もりはる)を九州に送り込む。
盛見は自領の豊前に入ると、軍勢を整えながら博多の奪回を考えた。
「少弐を攻めれば、大友に救援を求めるだろう。大友まで敵に回したら、面倒になる」
「なんとか、大友を豊後から動けぬようにする策はないものか・・・?」
すると、豊前守護代の杉重綱が答えた。
「親著の長男(孝親)が、家督について異を唱えているとか・・・」
持直が、親著の末子である親繁を養子とし、後継者に指名したので、
「順当に行けば、長男の自分が次期当主であろう・・・」
と思っていた孝親は、持直に不満を抱いていた。
盛見は、重綱の言葉にうなずくと、
「孝親を使って、大友氏の内乱を起こすか・・・」
と、微笑んだ。
「では、孝親の肩を押してみるか・・・」
こうして、盛見の密使が孝親のもとへ向った。
「家督は、孝親殿が継ぐのが筋であろう。必要とあれば、大内軍が加勢いたそう」
と、盛見は甘い言葉で誘いかけた。
大内氏の協力が得られると確信した孝親は、弟の親綱とともに
「持直を倒し、大友の家督を取り戻す!!」
と、兵を挙げる。
三角畠(みすみばたけ)にある孝親の館には、孝親と親綱に同調する兵が集結しつつあった。
三角畠の場所は特定されておらず、大分市古国府と由布市狭間町の説がある。
謀反を察知した持直は孝親を説得するため、叔父の戸次直世を使者として三角畠の館に送った。
ところが、孝親は、使者である直世を斬った。
「なんと、叔父上が斬られた・・・」
「使者を斬るとは・・・。もう、許せぬ!!」
9月11日、持直は先代で孝親の父である親著の協力を取り付け、軍事的に優位に立つと、直ぐに三角畠を攻撃した。
こうして、同族で争った戦いは、兵の数に勝る持直軍が勝利したが、多くの犠牲者を出すことになった。
孝親は自刃して果てたが、弟の親綱は大内氏を頼って、豊前に逃れる。
乱の終結を聞いた盛見は、
「そうか、孝親は破れたか。もう少し頑張ってくれれば、我らの出番があったろうに・・・」
「まあ、よかろう・・・。この混乱で、大友は動けまい!」
と言うと、直ぐに兵を筑前に向けた。
大内軍の攻撃により、少弐満貞と菊池兼朝は博多から追われ、探題の渋川義俊が呼び戻された。
そして、持直に対しては、
「今度の争いは、大友殿には関係ないので、これまで通り、息浜を所領されたし・・・」
と、言うものであった。
3.万人恐怖の政治
応永35(1428)年、京都では4代将軍の足利義持が死去すると「くじ引き」で、弟の義教(よしのり)が6代将軍に選ばれた(5代将軍の義量は、父に先立って亡くなっている)。
義持、義教の父で3代将軍の義満は、奉公衆(将軍直轄の軍隊)を創設すると、その軍事力を背景にして将軍の権力強化を図った。
義満は南北朝を統一し、明の皇帝から「日本国王」の称号を貰うと、天皇家を乗っ取り、自らが天皇になろうとしたため、怪物将軍と呼ばれた。
京都の観光名所である金閣寺は、北山第(きたやまだい)と呼ばれる広大な敷地で、義満にとっての内裏(中央官庁)があった場所の一部と言われる。
義満の急死(毒殺説もある)の後、4代将軍を継いだ義持は父の義満とは対照的で、有力守護大名の合議(宿老会議)の頂点に立つ存在にすぎなかったため、再び将軍の権力は弱まることになった。
そして、義持が後継者を決めずに死去したため、「くじ引き」で6代将軍に選ばれたのが義教であった。
ところが、「神に選ばれた将軍である」と思ったのか、将軍になるとすぐに、義満が創設した奉公衆を強化し、将軍に権力を集中させようとする。
絶対的な権力者を目指す義教は、将軍権力に逆らう武家、公家、僧侶、庶民を問わず、武力で弾圧したので「万人恐怖の政治」と呼ばれた。
あまり知られてないが、義教は織田信長より前に比叡山延暦寺を焼き討ちにしている。
義教が義満に倣ったのは将軍権力の確立だけではなく、義持の時代に廃止されていた「勘合貿易」を復活し、対外貿易による利益を独占しようとした。
そのためには、明や朝鮮との海外貿易の窓口となる博多の港を大友氏、少弐氏から奪い取る必要があった。
永享元(1429)年、義教は博多を幕府の直轄地とすることを宣言し、大内盛見(もりはる)を幕府御料所代官として送り込んだ。
義教の意を受けた盛見は、博多の支配権をめぐって大友持直、少弐満貞と対立することになる。
永享3(1431)年、大内盛見は大友氏、少弐氏と対立を繰り返すうちに、
「立花城を落とさぬ限り、博多の支配は無理だ・・・」
と考え、立花城を奇襲し、攻め落とす。
盛見が博多を支配するためには、大友氏の筑前拠点となる立花城(福岡市東区立花山)の存在が邪魔であった。
敗れた大友軍は深江岳城(二丈岳城とも言う、福岡県糸島市二丈深江)に逃れ、援軍を待った。
「まさか、立花城が奪われようとは・・・。すぐに取り返すぞ!!」
持直は少弐満貞とともに援軍に駆け付け、深江岳を包囲する大内軍を背後から攻め立てた。
大友、少弐連合軍の攻撃で大内軍は総崩れとなり、大将の盛見は自刃して果てる。
両軍合わせて1万の大軍が争った戦いは、戦死者も数千人になったと言われる。
この傍を流れる川は死体で埋め尽くされ、血で真っ赤に淀んだことから「淀川」と名付けられたという。
大内軍に勝利した持直は立花城を奪回し、博多での貿易を再開した。
持直にしてみれば、この戦いは大内氏から仕掛けられた偶発的なもので、
「大内氏との対決は、私闘であって、幕府に敵対している訳ではない。幕府に対する忠誠にはかわりはない」
と、巨額な金品を贈って怒りを和らげようとしたが、無駄であった。
4.持直の守護職解任
大内盛見の自刃は、幕府に大きな衝撃を与えた。
将軍の足利義教は、御料国代官の盛見を自刃に追い込んだ大友持直を赦すことが出来ず、執拗なまでに持直の孤立と抹殺を図った。
まず、幕府への反逆の罰として豊後、筑後守護職を解任し、親著(ちかあき)の子である親綱に豊後守護職を与える。
親綱は三角畠の乱に破れた後、豊前に逃れて大内氏の庇護を受けていた。
そして、自刃した盛見の子が幼少なので、兄義弘の子である持世に大内氏の家督を継がせ、持直討伐の先鋒に立てた。
永享5(1433)年、大内持世は安芸(広島県)の小早川氏、毛利氏の援軍を従えて筑前に進攻し、少弐氏の立て籠もる深江岳城(福岡県糸島市二丈深江)を落とした。
少弐満貞親子は、古処山城(福岡県朝倉市野鳥)に逃れたが、追い詰められて討ち死にする。
持世は少弐氏を破った勢いで、新しく豊後の守護職となった親綱を伴って、豊後 (大分県)に攻め込む。
持直は、総力で大内軍に立ち向おうとしたが、
「守護職を失った自分に、どれだけの家臣が味方してくれようか?ここは、まず引いて、敵味方を見極める必要がある」
と、思いとどまり、姿をくらます。
親綱は大内軍と共に府内(大分市)に無血入城すると、家臣を大友館に集めた。
そして、大友氏13代の家督を宣言すると、
「幕府に叛く反逆者、持直を討つべし!!」
と、命じる。
この中に、親綱の実父である親著の姿は無かった。
親著は引退後、府内から東に約10Km離れた大恵寺(大分市大字丹川上久所)に隠居していた。
「守護職と言っても、大内氏の傀儡ではないか。多くの国人は、いまだに持直殿を支持しているのがわからんのか・・・」
と、親著は親綱の行動を危うく思った。
そこへ、持直の養子となっている末子の親繁が訪れた。
親繁は、養父(持直)と兄(親綱)のどちらに味方すべきかを迷っていた。
「養子に出した時から、そなたは持直殿の子と思っている。嫡男として養父に従うのが筋であろう。私は、ここに留まって、持直殿を助ける道を探ろう・・・」
と、親著は親繁の迷いに答えた。
「それでは、兄上(親綱)と親子、兄弟で戦うことに・・・」
と、不安をかかえる親繁に対し、親著はきっぱりと答えた。
「時には、血の繋がりより恩義に報いることが大事な時もある。今度は、私が持直殿を守ってやらねば・・・」
大友氏中興の祖と呼ばれる持直の父(親世)は、南朝方に奔った兄(氏継)の子である幼少の親著を引取って養育すると、自分の子(持直)がいるのにもかかわらず、親著に家督を譲った。
親著は、この恩を忘れてなかった。
豊後では、大内持世の後見もあり、親綱の家督に異を唱える者もなく、平穏が過ぎた。
持世は府内に2ヶ月間駐屯すると、後を親綱に任せ、博多へ戻る。
ところが、持世が豊後から去ると、突如、持直が府内へ戻り、親綱を追い出した。
府内で親綱を守る者は無く、再び大内氏を頼って豊前に逃走する。
持直の府内奪還には、親著の活躍が大きかったといえよう。
親著は、密かに家臣への根回しを行い、持直を府内に手引きした。
「親著殿のお陰で、府内が奪回出来た・・・」
と、持直は親著に感謝した。
5.姫岳の合戦
永享6(1434)年、豊後を奪い返した大友持直は筑前に進出し、少弐氏とともに大内持世を撃退し、九州から追い出した。
翌7(1435)年6月、持直の反撃に脅威を感じた幕府は、大内持世に九州、中国、四国地方からの援軍を送り、大軍を持って再び持直討伐にあたらせる。
「まともに戦っては、勝ち目が無い」
と思った持直は、海部(あまべ)郡の姫岳(臼杵市と津久見市の境界にある山、標高620m)に砦を築いて籠城する。
持直に味方したのは、母の実家である戸次氏と嫁の実家である佐伯氏が中心となっていた。
大内持世を総大将とする幕府軍は、臼杵と津久見の2方面から姫岳に攻めかかった。
持世が率いる九州、中国勢は、大友親綱の先導で野津の東神野(臼杵市野津町)から攻め込んだ。
また、伊予の河野通久(みちひさ)が率いる四国勢は、大船団で豊後水道を渡って津久見(津久見市)に上陸すると、上青江に進んだ。
持直は幕府軍を姫岳の奥へ奥へと引き入れ、背後から取り囲んで攻撃するゲリラ作戦を展開する。
幕府軍は持直の地の利を生かした戦法に翻弄され、河野通久が討ち死にするなど多くの犠牲者を出す。
被害の拡大を恐れた持世は、無理な攻撃を仕掛けることをやめ、山を取り囲んで兵糧攻めにする作戦に切り替える。
しかし、半年が過ぎても、城の兵糧が尽きる気配は無かった。
それは、姫岳周辺に住む海部衆と豊後の神社、仏閣が陰で支援していたからであった。
兵糧は船で運ばれ、山伏や修験者が利用する尾根伝いの道を通って姫岳に持ち込まれていた。
海部衆とは、源平合戦で活躍した緒方三郎惟栄(これよし)を先祖とする佐賀関、臼杵、津久見、佐伯の水軍衆で、もともと戸次氏や佐伯氏と先祖を同じくする大神(おおが)一族である。
「先祖伝来の土地を大内氏の手から守らねば・・・」
「海外貿易で、我らに希望を与えてくれた恩に報いねば・・・」
との思いで、海部衆は持直に味方したのであった。
翌8(1436)年2月、幕府軍の総大将である大内親世は兵糧攻めに加え、姫岳に籠る将兵の寝返りを工作する。
籠城戦が1年になろうとする頃、持直は将兵の顔色の変化を悟り、
「そろそろ、限界だな・・・」
と思った。
7月、持直は籠城する将兵を集め、解散を宣言する。
「今から寝返れば、家名と土地は安堵してもらえよう。1年余りの籠城によく耐えてくれた・・・。礼を言う」
持直は兵の投降を見届けた後、自ら砦に火を放ち、親繁とともに姿をくらます。
こうして、1年間続いた姫岳の籠城戦は幕を閉じた。
姫岳を落とし、豊後を平定した大内持世は周防に凱旋する。
従弟の大内教弘(盛見の子)が豊後に残り、大友親綱とともに持直の追捕を任せられたが、捕らえることが出来なかった。
持直は、どんな苦難や逆境に置かれても、
「大内氏の勢力を豊後から排除するまでは、絶対にあきらめぬ!!」
と言う不屈の精神力で、抗戦しては、逃れることを続けた。
逃亡の裏には、多くの国人衆の支えがあったといわれる。
最後まで、持直を支え続けた戸次氏は、家名を安堵されたものの、先祖代々受け継いできた戸次庄を追われ、大野荘藤北(豊後大野市大野町藤北)に移り住むようになる。
幕府の奉公衆(将軍直轄の軍隊)として、大友宗家を凌ぐほどの勢力を誇っていた戸次氏であったが、これを境として大友氏の重臣から遠ざけられ、長い間低迷することになる。
その後、戸次氏が大友氏の重臣として活躍するのは、21代宗麟(義鎮)の時代に「豊州三老」と呼ばれた戸次鑑連(後の立花道雪)の登場まで、待たなければならない。
6.両統の統一
永享10(1438)年、大友親綱は、持直の抗戦に手を焼き、国人衆をまとめきれずにいた責任を取って、家督を親隆に譲る。
大友氏14代を継いだ親隆は、持直の腹違いの弟であったが、母が大内氏の娘であったため、大内氏の干渉は避けられなかった。
親隆が大内氏の力を借りて、豊後を治めようとしていた頃、京都で大事件が起きる。
嘉吉元(1441)年6月24日、将軍足利義教が赤松満祐の邸宅で饗応されている時、満祐の手の者によって殺害された。
いわゆる「嘉吉(かきつ)の乱」である。
この乱で、持直の宿敵である大内持世も重傷を負い、1ヶ月後に死去する。
満祐の叛乱には、持直の協力があったとされるが、定かではない。
持直は、二人の宿敵が相次いで死んだのを好機と捉え、
「今こそ、我ら兄弟が手を結び、幕府と大内氏の干渉を赦さぬ強い大友氏に戻そう!!」
と、親隆に和睦を申し入れた。
親隆は、将軍義教と大内持世という後ろ盾を一気に失い、自力で豊後をまとめていくことの難しさを理解していたので、
「では、親繁殿に娘を嫁がせて婿とし、家督を譲ろう・・・」
と、持直の提案を受け入れ、宝生寺(豊後大野市清川町宇田枝)に隠居する。
持直の養子として、早くから次期後継者と言われていた親繁であったが、ようやく、大友氏15代の家督を継ぐ。
こうして、南北朝時代から大友氏の家督を交互に出していた氏継系と親世系が合体し、一つになった。
「私の不手際から始まった大友氏の迷走に、ようやく終止符を打つことが出来た。これで、大友氏は一つになれる・・・」
持直は、親繁の家督を見届けると、波乱万丈の人生に幕を閉じた。
持直の死去は文安2(1445)年正月とも、長禄3 (1459) 年10月とも言われている。
持直が始めた大友氏の海外貿易は、親繁によって引き継がれ、その後、21代の宗麟へと繋がっていく。
作成 2013年5月3日 水方理茂
|