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秋月城下を散策

 福岡県朝倉市の中心地から北へ約7キロ進むと、のどかな山間の盆地に秋月の城下町がある。8百年の歴史と、山々の自然が調和した美しい景観は「筑前の小京都」とも言われる。秋月は古処山(標高860m)麓の町で、四方を山に囲まれた盆地のため、攻めにくい地形になっている。
 中世、この地を治めていた秋月氏は主君を少弐、大内、毛利、大友、島津氏と変え、したたかに生き延びる。大内氏滅亡後、毛利元就と手を結んだ秋月氏は大友宗麟の攻撃を受け、一時滅亡するが、逃げ延びた種実が毛利氏の支援で再興する。
 大友氏が衰退すると島津氏に付いた種実は、豊臣秀吉の九州征伐に敗れ、日向の高鍋に国替えとなる。 その後、秋月氏は高鍋藩主として明治維新まで存続する。ちなみに、出羽米沢藩を立て直し、名君として知られる上杉鷹山は秋月氏の出身である。
 江戸時代、秋月は福岡藩の支藩となり、黒田家秋月藩の城下町として栄える。

(2019年3月6日作成)


杉の馬場

公営の駐車場から秋月城跡へ続く道の両側には桜が植えられ、春は桜の名所になっている。残念ながら、今回の訪問は桜の開花には早すぎたようだ。江戸時代には杉が植えられ、馬術の稽古に使用されていたので「杉の馬場」と呼ばれた。


(2019年3月撮影)


秋月城跡瓦坂

「杉の馬場」を進むと左手に秋月城の石垣と堀が見えてくる。その中に「瓦坂」と呼ばれる石垣造りの橋がある。坂道の土砂の流失を防ぐために瓦を縦に敷き詰めたことから「瓦坂」と呼ばれる。



(2019年3月撮影)


秋月城跡「長屋門」

「瓦坂」の先に城の面影を残した「長屋門」が見える。この門は奥御殿の通用門として使われ、両側に門番の長屋があったことから「長屋門」と呼ばれる。当日は、石段に雛人形を飾る「野外雛人形展示」が終わり、後片付けをしていた。

(2019年3月撮影)


秋月城跡「黒門」

「黒門」は、戦国時代に秋月氏の詰め城であった古処山城の搦手門(裏門)として使われていたが、江戸時代に黒田氏によって秋月城の大手門として移築された。明治時代になり垂裕神社が建てられた際に、現在の場所に移される。

(2019年3月撮影)


垂裕(すいよう)神社

「黒門」をくぐり、石段を少し登ると石で造られた鳥居が建っている。その奥に藩祖である細川長興を祭る「垂裕神社」がある。秋には紅葉で、あたり一面が赤や黄色に彩られる。

(2019年3月撮影)


久野(ひさの)邸

「久野邸」は江戸時代の初期、秋月藩の初代藩主に仕え、代々続いた上級武士の屋敷です。現在、この屋敷は久光製薬会長のお母さんの生家であることから、同社が貴重な文化財を後世に残すべく所有し、整備保存している。

(2019年3月撮影)


目鏡橋

車で国道322号線を北上し秋月城に向かって走ると、城下町の入り口に差し掛かった所で、かわいい石造のアーチ橋が出迎えてくれる。これが、秋月の「目鏡橋」である。今回訪れた時は、水害で流された周辺の土手の補修工事中でした。

(2019年3月撮影)


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