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肥後領、鶴崎で思う ・ ・ ・

 江戸時代、鶴崎、大在、坂ノ市、佐賀関、野津原、竹中などは、肥後熊本藩の飛び地であり、鶴崎はその中心に位置付けられ、熊本藩の瀬戸内海に向っての玄関口として重要な役割を果たした。参勤交代では、熊本から阿蘇を越え野津原を通り、鶴崎から海路で大阪、江戸へ向かったといわれる。
 もともと、肥後領は加藤清正が豊臣秀吉の命で治めることになり、「いざ、大坂!」の時、最短で大阪に向うアクセスとして豊後に飛び地を確保したといわれている。(大坂の陣を予測していたか・・・?)
 今回の調査で、鶴崎のお寺と竹中のお寺の繋がりの深さに疑問を持ったが、竹中が鶴崎と共に肥後熊本藩領であったことがわかると納得できる。例を挙げると、法心寺(鶴崎)と神力寺/妙見寺(竹中)、能仁寺(高田)と勝光寺(竹中)、福正寺(鶴崎)と福正寺(竹中)がある。

(2010年4月20日作成)


雲鶴山 法心寺
大分市大字鶴崎

慶長6(1601)年、肥後(熊本県)の領主、加藤清正によって建立された。清正は、日蓮宗の熱心な信者だったので、飛び地の鶴崎にも日蓮宗の寺を造りたかったのだろう。法心寺には清正が着用していた鎧(よろい)や遺品の数々が今でも残っている。
(2010年4月撮影)


毛利空桑の胸像
大分市大字鶴崎

地元出身の儒学者、毛利空桑(1797〜1884年) は、尊王家としても知られており、漢詩や書道にも堪能であった。日出の脇蘭室で帆足万里に学び、熊本、福岡に遊学し、見聞を広めたという。帰郷後、私塾知来館を開き、文武両道の信条に基づく教えで、多くの人材を輩出する。
(2010年4月撮影)


作事所/有終館跡
大分市東鶴崎1丁目

江戸時代、大野川河口の港には、常時、百隻余りの藩船が停泊していたといわれる。鶴崎橋の袂に、作事所(造船所)跡の石碑がある。当時、ここで、多くの船が建造、修理されていたことだろう。明治2年には、この地に有終館(兵学校)が造られ、ここで練兵された鶴崎隊は、京都御所の警備を務めたという。

(2010年4月撮影)


熊本藩船入港絵馬
大分市東鶴崎3丁目

剣(つるぎ)八幡宮には、航海の安全を祈願して奉納された「熊本藩船鶴崎入港船絵馬」が残されている。この絵馬には、御座船(藩主の専用船)を中心に編成された参勤交代の船団が、鶴崎港に帰港する様子として描かれている。当時の船乗りの様子が詳細に描かれており、大変興味深い。

(2010年4月撮影)


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