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1.島津軍が肥後方面より侵入

天正14(1586)年10月2日、薩摩、大隈の領主、島津義久は一挙に豊後の大友氏を滅ぼそうとして、6万の大軍を率いて鹿児島を出発する。

肥後方面から島津義弘の軍勢2万5千、日向口から島津家久の軍勢2万が豊後大友氏の本拠地である府内(現在の大分市)をめざして豊後領内に侵攻した。

義弘、家久は義久の実弟にあたる。

これより8年前の天正6(1578)年、九州6ヶ国(豊前、豊後、肥前、肥後、筑前、筑後)を手中にし、九州制覇を狙う大友宗麟(義鎮)の軍勢5万と薩摩の島津義久の軍勢3万が、日向高城川原(宮崎県日向市美々津町)で激突した。

これが世に名高い「耳川の合戦(みみかわのかっせん)」で、大友軍は有力な武将の多くを失い壊滅的な大敗をした。

この戦い以後、島津氏は飛躍的に勢力を拡大し、九州制覇を目前にするまでになった。

それに対し、大友氏の勢力は衰退し、豊後一国の安堵さえも関白である豊臣秀吉に頼る始末であった。

10月20日、島津義弘の軍勢2万5千は、阿蘇郡高森より祖母山の西側を通り豊後に侵入する。

豊後に入ると義弘は軍を二つに分け、義弘の率いる本隊は現在の県道8号線(竹田五ヶ瀬線)を九重野方面から北上し、新納忠元の率いる別動隊は現在の国道57号線(肥後街道)を荻方面から東へ進軍した。

当時、豊後の南郡衆(大友配下で久住、直入、竹田地域を治める領主)筆頭の志賀氏は20歳の志賀親次(ちかつぐ)が岡城(竹田市)を守っていた。

志賀氏は大友三家(志賀氏、詫磨氏、田原氏)のひとつで、親次の祖父道輝(親守)、父道益(親度)の時代には加判衆(江戸時代の家老職にあたる)を務めていた。

親次は、父道益が主君の大友義統と不和になって失脚した為、18歳の若さで家督を継いだ。

周囲の反対を押し切ってキリシタンに入信した親次は、ドン・パウロという洗礼名を得ている。

家臣達も親次にならい、洗礼を受けた者は3千人に及び、城下には8千人の信者がいたという。

大友氏22代当主の義統(よしむね、宗麟の息子)は、島津の侵攻に備え、南郡衆筆頭の親次に肥後国境の防衛を指示していた。

親次は、実父の道益(親孝)と入田宗和(義実、親誠の息子)に五ヶ瀬方面の守りを任せ、自らは、1千5百余の兵を波野原一帯の12箇所に分け、島津軍を迎え撃つ。



2.南郡衆の相次ぐ寝返り

志賀勢は波野原一帯で勇敢に戦い、島津軍の進行を食い止めていた。

その時、城からの伝令が入る。

「大殿(志賀道益)様と入田宗和殿が島津に内応し、義弘の本隊を先導して津賀牟礼城に迫っております」

これを聞いた親次は、驚いた様子で、

「なんと、父上と入田殿が揃って、島津に内応とは・・・。急いで城に戻るぞ!!」

と、全軍に退却命令を出す。

志賀勢は、敵に悟られないように旗指物を残して、夜陰にまぎれて静かに退却した。

義弘の本隊は、志賀道益と入田宗和に先導され、21日に高城(竹田市大字九重野高源寺)を攻め落とす。

そして、烏嶽城(豊後大野市緒方町上冬原)、小松尾城(竹田市大字神原)、片ヶ瀬城(竹田市大字片ヶ瀬)を次々と落とし、24日には戸次玄珊(統貞)の守る津賀牟礼城(竹田市大字入田矢原)を包囲した。

津賀牟礼(つがむれ)城は大友氏の重臣、入田氏の居城であった。

入田氏は大友4代、親時の次男泰親が直入郡入田荘を治めたことに始まったとされる。

天文19(1550)年、「二階崩れの変」が起こり、大友宗麟(義鎮)の父(義鑑)が家臣から殺害された。

事件を鎮圧し、家督を継いだ宗麟は、事件の背後に重臣の入田丹後守親誠(ちかざね)がいたことを知り、親誠の居城である津賀牟礼城を攻めた。

親誠は防戦したが守りきれず、肥後に逃れたところで殺害された。

その後、宗麟は親誠の嫡男である宗和(義実)に旧領の一部を与え、入田家の名跡を継ぐことを許す。

しかし、宗和は大友家に対する遺恨(いこん)を捨て切れておらず、度重なる島津側からの誘いにより、大友方を裏切ることを決意したという。

津賀牟礼城を守る戸次玄珊は、入田宗和、志賀道益の勧めもあって、島津軍と戦うことなしに城を明け渡してしまう。

加判衆を務めた宗傑(鎮秀)を父に持ち、大友一門の片ヶ瀬戸次氏(鎧ケ嶽の戸次氏と区別するため、こう呼ばれる)の直系である玄珊の裏切りは、他の南郡衆を動揺させることになった。

これを機に、南郡衆のほとんどが、島津氏に服従することになる。

津賀牟礼城に入った義弘は、次の標的である岡城に降伏勧告の使者を送る。

使者には、入田宗和と 赤星備中守が選ばれた。

使者として岡城に入った入田宗和は、親次の前に出て、

「もうすぐ、鎧ケ嶽城(よろいがたけじょう)の戸次殿、鳥屋城の一万田殿も寝返られましょう。すでに岡城は孤立状態です。今の大友家には、この城に援軍を出せる力はありませぬ。これ以上の抵抗は無駄でござる」

と、島津への降伏を勧めた。

親次は、しばらく考えて答えた。

「私は、義のために戦います」

「何に対する義でござるか?」

と宗和が聞くと、親次は、首に下げた十字架を見せながら、

「宗和殿も知ってのとおり、私は、キリシタンでございます。私にとっての義とは、デウスの御心に従うことです・・・」

「宗和殿は、アルメイダ修道士の建てられた府内病院を見られたことがありますか? そこでは、身分の隔たりなく平等に診療が受けられ、修道士が多くの孤児たちの面倒を看ています。神の前には、大友も島津も存在しません・・・。皆平等です」

「お気持ちはわかりますが・・・、それでは、御家が亡びますぞ!!」

御家第一のために大友を捨て、島津に付く方が得策だと説得する宗和に対し、親次は突然立ち上がり、

「島津殿は、侵略した国の領民を捕らえて薩摩に送り、女、子供は海外に売り飛ばされていると聞き及びます。そんな、島津に従うことは出来ません・・・」

これ以上の説得は無理と判断し、帰ろうとする宗和に親次は声をかけた。

「ところで・・・、父上は、息災ですか?」

「元気にしておられます。次にお会いするのは、戦場となりましょうな・・・」

と言うと、宗和は、すぐに岡城を後にした。

こうして、志賀親次は、実の父親を含む南郡衆の主だった者が次々と島津になびいていく中、島津の降伏勧告をはねのけて、家臣、領民のキリシタン達と共に岡城に立て籠もり、戦い抜くことを決意したのである。



3.滑瀬橋(ぬめりせばし)の戦い

岡城は、北を稲葉川、南を白滝川(大野川)、西を玉来川という天然の外堀と阿蘇の溶岩によって出来た険峻な岸壁の上に立つ、難攻不落と言われた堅城である。

その生い立ちは、文治元(1185)年に緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりと云われている。

その後、志賀貞朝が修築して以来、大友一族志賀氏の居城となる。

岡城から戻った入田宗和から、親次の返答を聞いた義弘は、実の父である道益を前にして、

「若いとは、羨ましいのう。大軍を前にして恐れを知らぬとは・・・」

「道益殿、貴殿のせがれは、中々の度胸の持ち主でござるな・・・」

と、言うと、

「世間知らずの若輩者ゆえ、ご無礼、お許し願いたい」

道益は、申し訳なさそうに答えた。

義弘は立ち上がり、 

「理想だけでは、国は守れんことを思い知らせてくれようぞ!」

と、岡城攻撃を決意する。

義弘は、岡城を攻めるにあたり、志賀道益ら内応者の意見を聞いた。

「岡城は堅固な城と聞いている。如何に攻めれば・・・?」

「兵糧攻めするには、10万以上の兵が要りましょう。城の南側に架かる滑瀬橋を渡り、大手門を突破して攻撃するのがよろしいかと・・・」

と、かつての城主、志賀道益が答えた。

「では、滑瀬橋を渡り、大手門から城に総攻撃じゃー!」

義弘のこの一言で、滑瀬橋の攻撃が決定した。

現在の大手門(正門)は、志賀氏の後に入った中川氏の時代になってから、城の西側(現在の位置)に移された。

そして、滑瀬橋のある旧大手門は、搦手門(裏門)となった。

島津軍は岡城の大手門を望む南の高台、片ヶ瀬原(岡城から南に直線で約1Kmの所)に陣を張った。

片ヶ瀬原と岡城の間には、白滝川(大野川)があり、急流が行く手を阻んでいる。

この付近の川は、川底の大部分を阿蘇溶岩の一枚岩で覆われ、水苔で滑りやすくなっている。

そのことから、この場所にかかる橋は、「滑瀬橋」と呼ばれていた。

12月2日、島津軍は、滑瀬橋攻撃を開始する。

城の守備隊は、川岸に土のうを積み重ね、鉄砲隊による反撃で、攻め寄せる島津軍を寄せつけなかった。

攻撃は4日間続いたが、大手門を攻略することが出来なかった。


「さすが、豊後一と言われるだけあって、堅固な城だ。この城に、これ以上の時間をかけてはおれん。正月までに府内を攻略し、秀吉軍が来る前に、豊後を制圧せねば・・・」

しばらく考え込んだ義弘は、主だった家臣を集め、

「これより、我が軍は岡城攻撃を一旦中止し、久住、玖珠方面に向う。岡城の監視には、稲富新助の兵5千を残す」

と言うと、監視の兵を残して、久住方面に向かう。

稲富新助は城に睨みを利かせながら監視を続け、白滝川を挟んでのにらみ合いは、20日間に及んだ。

「このままでは、食料も容易に運べぬ。何とかせねば・・・」

親次は、対岸で監視を続ける島津勢を見ながら、志賀掃部助に言った。

「敵も、我が軍の動きが無いので、退屈しておりましょう。誘い出してみますか」

その夜、掃部助は夜陰にまぎれて、密かに川を渡った。

翌朝、城側の守りが手薄になったのを見た稲富新助は、これを好機と見て、攻撃命令を下す。

「城の守りが手薄になった今こそ、攻撃の時だ。全軍突撃!!」

島津勢は、一気に攻撃を仕掛け、滑瀬橋を渡り、川岸に達した。

すると、突如、川岸に隠れていた志賀勢の鉄砲隊が現れ、一斉射撃を仕掛けた。

やっとのことで、橋を引き返すことの出来た島津の兵は、背後に待ち受けていた掃部助率いる兵の攻撃を受ける。

監視と云う役目を忘れ、功を焦った稲富新助率いる島津勢は、大損害を受け、白滝川から片ヶ瀬原まで退却した。

これで、2度目の岡城攻撃も失敗した。



4.久住、玖珠方面の戦い

岡城を後にした島津義弘は、志賀道運(鑑隆)の守る南山城(竹田市久住町大字白丹字尾登)の攻略に向かう。

南山城の志賀氏は、岡城の志賀氏と祖を同じくするが、区別するために南志賀氏と呼ばれる。

南山城では、鑑隆の子、鎮隆が城を出て島津勢を迎撃したが、大軍の前に蹴散らかされ、敗走中に添ヶ津留で自害した。

島津軍は南山城を包囲し、攻撃を加えたが、城の守りは固く容易に落ちなかった。

しかし、志賀家の重臣、進加賀守忠房らの裏切りによって、遂に南山城は落城する。

城主、志賀道運は、かろうじて、縄張城(竹田市久住町大字白丹字稲葉)に逃れたが、裏切った進忠房らの攻撃を受け自害して果てる。

南山城を落とした義弘は、そのまま北上を続け、朽網鎮則が守る三船城(竹田市久住町大字仏原字須崎)を攻め落とし、山野城(竹田市久住町大字仏原字市)を包囲した。

山野城は朽網城とも呼ばれ、加判衆を務める朽網宗暦(鑑康)の居城である。

三船城から落ち延びた鎮則は、父、宗暦とともに城に立て籠もって抵抗した。

山野城を取り囲んだ義弘は、城下に火を放ち、略奪をくり返しながら、城内への降伏を勧めていた。

城内では、籠城が長引く間、かねてより病床にあった宗暦が持病を悪化させ、病死する事態が起きた。

12月24日、抗戦を唱えていた宗暦の死によって、息子の鎮則は、島津軍と和睦して開城する。

山野城に入った義弘は、そこを本陣とし、新納忠元を玖珠方面、新納久時を庄内、狭間方面の攻撃に向わせた。

山野城で年を越した義弘は、野上城(玖珠郡九重町野上)攻撃に手を焼いている新納忠元からの救援要請を受け、新年早々から玖珠郡野上に出陣する。

義弘は、新納忠元の軍に合流すると、野上城を攻め落とし、そこに本陣を移す。

その後、新納忠元は、日出生城と角牟礼城が頑固に抵抗するものの、玖珠郡の大半を攻略した。

また、新納久時も、権現岳城に手を焼いていたが、城主の挟間鎮秀との和睦が成立し、由布院、庄内、狭間方面のほとんどを攻略する。

天正15(1587)年3月12日、野上城から府内へ移った義弘は、豊臣秀吉の大軍が北九州の小倉に着いたことを知る。

3月15日、「援軍来る!」の報で、勢いを盛り返す大友方の武将、領民による抵抗が激しくなったことで、義弘は仕方なく薩摩への撤退を命じた。



5.決戦鬼ケ城

天正15(1587)年2月、岡城の親次のもとへ、豊臣秀吉から、

「3月には、自ら20万の軍を率いて、九州に上陸するので、島津軍の背後をかく乱せよ!」

と、言う書状が届く。

親次は、秀吉軍到来が近いことをふれ回り、各地に潜んでいた大友恩顧の豪族、領民に呼びかけ、島津軍に奪われていた城や砦を奪い返し、旧領を徐々に回復していく。

野上城に本陣を置く島津義弘は、背後で不穏な動きをしている志賀親次を封じるため、弟の島津歳久に6千の兵を与え、岡城攻撃に向わせた。

2月28日、歳久率いる島津軍は、再び岡城に迫り、3度目の決戦を挑んだ。

「このまま、城に籠られては、秀吉軍が到来するまでに豊後を統一することが難しくなる。城から誘い出して、一気に決着を付けねば・・・」

と考えた歳久は、血気盛んな若者の気持ちに訴える内容の書状を送る。

「親次殿は、若いが名の知れた勇者と聞いている。しかし、ここへ来てみると、城に籠ったまま、中から一歩も出てこれない臆病者ではないか?」

書状に目を通した親次は、敵の誘いにのったふりをして、敵の裏をかいてやろうと思い、

「決戦は、こちらも望むところである。滑瀬は川深く橋も撤去され、決戦には不向きである。よって、明日、小渡牟礼(竹田市大字吉田)の渡り場を瀬踏み案内するので、対岸の鬼ヶ城(竹田市鬼ヶ城)と呼ばれる高台で勝敗を決しよう」

 と、矢文で返答した。

歳久も矢文で、

「鬼ヶ城での決戦、了解した。渡り場を瀬踏み案内されるのは、誠にありがたい」

と、返した。

鬼ヶ城は、岡城のある丘陵の西の続きで岡城の支城である。

鬼ヶ城の周り三方は大野川で囲まれ、東〜南は急峻な崖が反り立ち、多くの空堀が設けられ、堅固な地形をしていた。

後世この場所は「西南戦争」の折、東の鴻巣台にかけ激戦地となった場所で、この戦いの戦死者弔った千人塚もある。


29日朝、親次は鬼ヶ城の斜面一帯の茂みに兵1千余を配備して、敵を待ち伏せる。

島津軍は早朝より小渡牟礼(おどむれ)付近に移動し、志賀勢の瀬踏み案内を受け渡河を開始した。

島津勢が川を渡り終え、斜面を中腹まで登った所で、志賀勢の鉄砲が一斉に火を噴くと、

「どっ、どっ、どーっ!」

と、言う掛け声と同時に、斜面を攻め下り、島津軍を川に追い込んだ。

島津軍は混乱し、総崩れとなり、死傷者が続出した。

かろうじて川を渡りきった者は、玉来(たまらい)方面に敗走した。

志賀勢は、さらに追撃し、この戦闘で名の知れた武将370人を討ち取る大戦果をあげる。

3度目の攻撃も大失敗に終わった島津軍は、ついに岡城攻撃を断念する。

結局、島津軍は出城の小競り合いに勝利するが、難攻不落の岡城へは一歩も入れなかった。

この時の志賀親次の勇戦は、敵将の島津義弘から「楠木正成(くすのき・まさしげ)の再来」と評された。

ことから、親次は「天正の楠木正成」、「今楠木」と呼ばれるようになり、豊臣秀吉からも、その武勇を絶賛されたという。



作成 2010年11月14日 水方理茂


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