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大神氏のルーツと石仏

 大分県は石仏の宝庫で、全国の磨崖仏(まがいぶつ)の8割を占め、そのほとんどが、国東半島と臼杵を含む大野川流域に分布している。大野川流域と臼杵の磨崖仏は、平安時代末期に造られたものが多い。当時、この地で勢力を持っていたのが源平合戦の英雄、緒方三郎惟栄(これよし)を代表とする豊後大神(おおが)氏である。
 大神氏は、姥嶽(うばたけ・祖母山)に住む大蛇の末裔といわれ、臼杵の石仏は、真名野長者(炭焼小五郎)によって作られたという伝説がある。大蛇は「鉱山」、炭焼きは「鋳造」を意味するので、大神氏の先祖は「製鉄集団(帰化人?)」と考えられる。祖母山で鉱山を発見し、その麓で製鉄を営み、財をなして長者となり、武装集団化したのであろう。
 大神氏は末法思想の広まりで不安が増大する中、『六郷満山(国東の六郷に点在すする天台宗の寺院群)』に対抗する『大野川満山(大野川流域に点在する真言宗の寺院群)』(仮称)として、信仰の対象となる磨崖仏や寺院を造ったものと思われる。

(2012年5月20日作成)


宮迫(みやさこ)西石仏
豊後大野市緒方町久土知

宮迫西石仏は、緒方惟栄の館跡に近く、緒方川を挟んで南側の対岸にあり、平安時代末期の作といわれる。向かって左から薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の順に並んでいる。三如来とも座った姿勢で、阿弥陀は両手で結手し、釈迦と薬師は右手を胸の前で片手合掌し、左手は膝の上に置いた格好をしている。

(2012年4月撮影)


宮迫東石仏
豊後大野市緒方町久土知

宮迫東石仏は、宮迫西石仏の北東側にある。中央には大日如来が座り、向かって右には不動明王、左には持国天が立っている。その左右には、阿(あ)形、吽(うん)形の仁王像が彫られているが、劣化による損傷が激しい。大日如来は、右手を胸の前で片手合掌し、左手は膝の上に置いた格好をしている。

(2012年4月撮影)


菅尾(すがお)石仏
豊後大野市三重町大字浅瀬

菅尾石仏は、菅尾から千歳に抜ける道筋の急斜面に作られた100段ばかりの石段の上にある。向かって左から千手観音、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音の順に並んでいる。右端の斜め向きの壁面には、毘沙門天の立像がある。戦の神といわれる毘沙門天は、刀を持ち、4体の仏を護衛している姿に見える。

(2012年5月撮影)


犬飼(いぬかい)石仏
豊後大野市犬飼町大字田原

犬飼石仏は、平安時代末期の作といわれる。大きいサイズの不動明王が両脇に矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子を従えて座っている。不動明王は右手に剣、左手に縄を持って座り、向って右側の矜羯羅童子は合掌し、左側の制叱迦童子が棒を持って立っている。なんと、勇ましい仏の姿であろうか。

(2012年5月撮影)


臼杵(うすき)石仏
臼杵市深田804−1

臼杵石仏とは、ホキ石仏第1群、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏からなる約60体の磨崖仏群のことをいう。いずれも、豊後大神氏が活躍した平安時代後期の作といわれる。古園石仏には、臼杵石仏を代表する大日如来像(右の写真)がある。この如来像は、見る人の心を穏やかにしてくれる。

(2012年5月撮影)


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