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1.平氏の使者が来る

寿永2(1183)年8月下旬、平氏の使者が、豊後国緒方郷(豊後大野市緒方町)に住む緒方三郎惟栄(これよし)の館を訪れた。

館は水田地帯が広がる緒方平野の中心に位置し、前には緒方川(大野川の支流)が流れ、近くには東洋のナイアガラとして有名な「原尻(はらじり)の滝」がある。

緒方館を訪れた平氏の使者は、惟栄のかつての主人、故平重盛の次男資盛(すけもり)であった。

重盛は、武士として初めて太政大臣になった平清盛の嫡男であったが、4年前に病死し、家督は清盛の三男である宗盛が継いでいた。

清盛の死後、源氏の木曽義仲から都を追われ、西国武士を頼りに大宰府まで逃れた平氏であったが、味方する九州の武士は少なかった。

宗盛は、九州武士団に影響力のある惟栄を味方に付ければ、何とかなると考え、

「故重盛殿の息子が頼めば、惟栄も断れまい・・・」

と、資盛を豊後へ送ったのであった。

惟栄は、使者として訪れた資盛を丁重に迎えた。

「わざわざ、豊後までお越しのご用件とは・・・?」

と、惟栄が口を開いた。

「大蛇の末裔と聞き、恐ろしい大男を想像していたが、やさしい顔をしているではないか・・・」

と、資盛は安心した。

当時、惟栄は都の人々から、大蛇の末裔と恐れられていた。

「源氏に都を追われた帝(安徳天皇)は、西国武士を頼り大宰府まで落ちられましたが、味方する兵は少なく・・・。こうして、我が父(重盛)の家人であった惟栄殿を頼って参りました」

と、資盛は父重盛の名前を出して、味方になるように頼んだ。

「すでに、我等は反平氏の旗を上げております」

と、惟栄が答えると、

「これまでの事は不問にする故、父重盛の恩に報いるためにも、味方してくれまいか」

と、再度、重盛の名前を出して頼んだ。

「小松(重盛)殿のご恩は、今でも忘れておりません。しかし、小松殿が亡くなられてからの平氏は変わり、我ら武家の味方では無くなった。平氏が政治の実権を握り、朝廷の官職に群がっている間、巷では民人が飢饉や疫病に苦しんでいるのをご存知か・・・」

惟栄は、平氏の政治が続く限り、世の中が良くならないと言い切った。

「何と云うことか。今まで、我らは何をしてきたのだ・・・」

と、資盛は惟栄の話を聞いて思い返した。

「既に、後白河上皇様から、平氏を九州から追い出せとの院宣(いんぜん)が出ております。すぐに、大宰府に駆け戻り、降伏なさるか、戦の準備をされた方が良かろう」

と、惟栄から最後通告とも言える大宰府攻撃計画を告げられると、

「我等は、天に見放されたか・・・」

と、資盛は悟った。

惟栄の協力を得られなかった資盛は、うなだれながら、大宰府へ戻って行った。



2.豊後大神氏

緒方惟栄は、豊後大神(おおが)氏の一族である。

大神氏は大野川、大分川流域を本拠地として、豊後国8郡(国東、速見、大分、海部、大野、直入、玖珠、日田)のうち、南部の4郡(大分、海部、大野、直入)に勢力を持つ武士団を結成していた。

その一族は、阿南(あなん、又は、あなみ)氏、大野氏、臼杵氏、佐伯氏、戸次(べっき)氏、緒方氏、朽網(くたみ)氏、稙田(わさだ)氏、賀来(かく)氏、野尻氏など37氏あると言われ、大友氏が入国する以前の平安後期に活躍した。

豊後大神氏の成り立ちについては、次の3つの説がある。

(1)宇佐神宮(大分県宇佐市)の宮司職をめぐって大神氏と宇佐氏が争い、敗れた大神氏が豊後大野郡に移り住んで土着勢力になった。

(2)大和の三輪氏が豊後国に下り、豊後大神氏の始祖となる。

(3)前九年の役で敗れた奥州の安倍氏が豊後に移り、大神氏の始祖となる。

また、次のような大変興味深い伝説もある。

豊後国緒方郷の山里(現在の豊後大野市清川町宇田)に住む長者には、まれに見る美しい娘がいた。

ある夜、烏帽子(えぼし)姿の優雅な若者が訪れて姫を口説き、毎晩のように通いつめる。

姫は、この若者の住まいと名前を知りたくて、男の服に長い糸を通した針を刺して、その糸をたどっていくことにした。

糸は山を越え、谷を渡って姥嶽(うばたけ、現在の祖母山)の大きなホラ穴まで続き、穴の中には、大蛇がうずくまり、

「あなたの腹の中には男の子が宿っている。その子は九州では並ぶもののない強者になろう・・・」

と、言い残して死んだという。

こうして、姫と大蛇との間に生まれたのが大神氏の始祖となる惟基(これもと)である。

惟基は姥嶽大明神の化身といわれ、緒方惟栄はその末裔とされる。



3.宇佐神宮との対立

平資盛が来る1ヶ月前、豊後国主の藤原頼輔(よりすけ)の命を受けた息子の頼経(よりつね)が緒方館を訪れていた。

平氏が都落ちすると、頼輔は自分の命令を後白河上皇の院宣(いんぜん)として伝えるため、息子の頼経を豊後に向わせる。

「院宣に従い、大宰府にいる平氏を九州から追い出すように」

と、頼経は緒方惟栄に要請した。

頼輔は藤原北家難波流、大納言・藤原忠教(ただのり)の四男で蹴鞠(けまり)の二大流派、難波、飛鳥井両家の祖といわれる。

頼輔は平安末期、豊後守及び知行国主として24年間豊後を統治していたので、豊後国内に多大な影響力を持っていたものと思われる。

また、鼻が大きかったということで、京都の貴族の間で「鼻豊後」と呼ばれ、からかわれていたという。

頼輔は国東、速見両郡にある荘園をめぐって宇佐神宮側と争っており、惟栄も宇佐神宮領緒方荘の上納米(じょうのうまい)を怠ったことで問責を受けていた。

当時の宇佐神宮は、九州にある荘園の1/3を所有しており、全国有数の荘園領主として勢力を誇っていた。

また、大宮司(だいぐうじ)を務める宇佐公通(きんみち)も、平清盛の娘を妻に娶るなどして平氏と密接な関係を持ち、神官としては異例の豊前守に任ぜられている。

頼輔と惟栄は共に宇佐神宮と対立することで、反平氏の立場で一致し、連携を深めたものと思われる。



4.平氏を九州から追い出す

寿永2(1183)年10月、稲穂の実りが緒方平野を黄金色に染める頃、大神一族の緒将が緒方館に続々と集まってきた。

館で皆を迎えたのは、豊後武士団をまとめる臼杵氏の3兄弟である。

緒方惟栄(これよし)の父、臼杵惟盛(これもり)には男子が5人おり、次男の次郎惟隆(これたか)が臼杵氏を継ぎ、3男の三郎惟栄は緒方氏、4男の四郎惟憲(これのり)は佐賀氏を名乗っている。

ちなみに、長男の太郎惟長(これなが)は田中氏、5男の五郎惟興(これおき)は賀来氏を名乗ったとされるが、歴史の表舞台には登場していない。

嫡男の惟隆は一族のまとめ役に徹し、軍事面は惟栄、惟憲の弟達に任せていた。

「兄上、ご覧の通り、今年は豊作となりましょう」

惟栄は周囲に広がる稲穂を見渡しながら、惟隆に言った。

すると、弟の惟憲が、

「これで、兵糧には困るまい。いつでも出陣出来るぞ!!」

と、戦の準備が整ったことを皆に告げた。

「平氏を九州から追い出す時が来た。豊後武士の強さを見せようぞ!!」

と、惟隆が出陣命令を下した。


稲刈りが終わると、豊後武士団3万は三方より太宰府に向け出陣した。

臼杵惟隆、佐伯惟康(これやす)が率いる海部(あまべ)の軍勢は、豊前方面から、佐賀惟憲、日田永秀(ながひで)が率いる日田と玖珠の軍勢は、日田方面から攻め入る。

そして、緒方惟栄、大野家基(いえもと)、稙田有綱(わさだ・ゆうかい) 、戸次惟澄(これずみ)が率いる大分、大野、直入の軍勢は、肥後方面から襲い掛かった。

豊前方面から攻める惟隆は、宇佐神宮と板井種遠(たねとお)の軍に阻まれたが、肥後、日田方面から攻め入った惟栄と惟憲は、平氏方の勢力を撃破して大宰府に進軍した。

大宰府の平氏は、原田種直(たねなお)が率いる兵3千が激しく抵抗したが破れ、山鹿城(やまがじょう・福岡県遠賀郡芦屋町)へ避難した。

山鹿城へ逃避した平氏の様子は、「平家物語」、「源平盛衰記」に

「袴をからげ、とる物もとりあえず裸足で逃げた。どしゃ降りの雨の中、女たちの悲鳴と悲嘆のあまり流す涙は、降る雨の激しさと区別もつかぬ有様だった。足から出る血が赤々と砂を染め、袴の裾も紅色になった・・・」

と、逃避行の悲惨さを物語っている。

しかし、山鹿城も安全ではないと判断したのであろう、夜陰にまぎれて船で豊前柳ヶ浦まで逃れ、宇佐神宮に参籠(さんろう)してから、四国の屋島に渡った。

平氏が四国へ逃れたことで、豊後武士団の役目は達成された。



5.宇佐神宮焼き討ちと平氏の滅亡

緒方惟栄(これよし)が平氏を九州から追い出したことは、京の都まで達し、

「後白河上皇様、源氏方も大いに惟栄殿の活躍を喜んでおられる」

と、豊後国主である藤原頼輔(よりすけ)からの使者が伝えてきた。

使者の報告を聞いた惟栄は、大いに満足し、

「兄上(惟隆)、平氏を追い出したが、まだ、やり残したことが・・・」

と言うと、弟の惟憲が

「あの憎き、宇佐公通(きんみち)と板井種遠(たねとお)のことであろう」

と返した。

「この際、痛めつけておくか・・・」

惟隆の一言で、宇佐神宮(大分県宇佐市)攻撃が決まった。

元暦元(1184)年7月、臼杵3兄弟は、8千騎の兵を率いて宇佐神宮を襲撃する。

種遠は、宇佐の狐坂(きつねざか)の砦にこもって抵抗したが防ぎきれず、神楽城(かぐらじょう・福岡県みやこ町)に逃げ帰る。

「大宮司(宇佐公通)を捕らえよ!!」

と、臼杵3兄弟の兵は宇佐神宮になだれ込んだ。

惟栄は全軍に対し、

「我等の狙いは、大宮司ただ1人、社殿を荒らすことはならん」

と、攻撃前に言い渡していたが、兵の勢いは止められず、社殿は破壊され、放火される始末であった。

「神仏の罰が当たらねば良いが・・・」

と思いながら、必死に公通を探したが、見つけ出すことは出来なかった。

公通は、すでに逃亡し、安心院(あじむ)の山中に向っていた。

「大宮司を捕らえることが出来なかったが、積年の恨みは晴らした。次は板井の神楽城を攻める」

と、惟栄は宇佐平野を北上した。

攻めてみると、神楽城は堅固な山城だった。

「この辺で、もうよかろう。さあ、引き上げるぞ!!」

と、城を5日間包囲した後、臼杵3兄弟は豊後に引き上げた。

この宇佐神宮焼き討ちは、朝廷の怒りを買い、後で臼杵3兄弟に大きな災難として降りかかってくることになる。


元暦2(1185)年正月、平家追討の命を受けた源範頼(のりより)軍は、赤間関(山口県下関市)に到着したが、長期の行軍で疲労困憊(こんぱい)し、食料も欠乏して身動きがとれずにいた。

そこへ、豊後から緒方惟栄が兵糧と兵船82艘で駆けつけ、窮地を救う。

勢いを回復した範頼軍は九州に上陸すると、原田種直(たねなお)を葦屋浦(あしやうら)の戦い(福岡県遠賀郡芦屋町)で破り、長門国彦島(山口県下関市)に最後の拠点を置く平氏の背後を遮断することが出来た。

この範頼軍の動きにより、平氏一の智勇を誇る平知盛は彦島に釘付けにされ、屋島の戦いに参加できなかった。

源氏は源義経の天才的な戦術により、屋島の合戦に勝利し、壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。

元暦2(1185年)年3月、壇ノ浦の合戦に敗れた平家一門は、安徳天皇とともに関門海峡の海底に沈んでいった。



6.惟栄、流刑となる

源平合戦が収束すると、朝廷は緒方惟栄(これよし)を宇佐神宮焼き討ちの罪により、流罪にすると発した。

ところが、源義経と豊後国主・藤原頼輔(よりすけ)の尽力で、朝廷から処分を取り消す特赦(とくしゃ)がでる。

平氏滅亡後、源頼朝、義経兄弟の関係が悪化し、対立が深まっていった。

義経は頼朝に対抗する勢力として、九州武士団を味方に引き入れたいと考え、その中心人物である惟栄との誼(よしみ)を欠かさなかった。

平氏が滅んで半年が過ぎた頃、頼朝と義経の関係は最悪の状態となり、義経は京で頼朝打倒の旗を挙げる。

後白河上皇から頼朝追討の宣旨が下され、西国の武士に対して義経に従うように命令が下された。

緒方惟栄は、義経の誘いで京に入り、

「宇佐神宮焼き討ちの件では、ご尽力頂いたと聞き及んでいます。ご恩に報いるため参上致しました」

と、義経に忠誠を誓った。

しかし、義経に賛同する勢力は少なかった。

頼朝が大軍を率いて義経追討に向っていると聞き、

「一旦、京都を退去し、西国で再起を図っては・・・」

と、惟栄は進言した。

「わかった、九州で体制を立て直し、再度上洛しよう」

義経は惟栄の進言を聞き入れ、九州に逃れることを決める。

義経一行は京都を退去し、惟栄の案内で大物浦(だいもつうら、兵庫県尼崎市)から船で豊後を目指す。

船が出航してすぐに、義経一行が乗った船は暴風に見舞われ、難破してしまう。

義経は和泉浦(大阪府和泉市)に漂着し、わずかな家来を連れて吉野(奈良県吉野町)へ逃れたが、惟栄は頼朝の軍勢に捕らえられた。

惟栄は義経挙兵に参加した罪に合わせて、宇佐神宮焼き討ちの罪が再燃し、上野国沼田荘(群馬県沼田市)に流刑となる。

兄の臼杵惟隆(これたか)と弟の佐賀惟憲(これのり)も流刑となっているが、流刑先は記録に残ってない。

頼朝は、逃亡中の義経を捜索することを名目にして、全国に守護、地頭を置くことを後白河上皇に認めさせ、武家による支配体制を確立させていく。

後白河上皇としては、義経に頼朝追討の宣旨を与えた負い目があり、認めざるを得なかったのだろう。



7.大友氏の豊後入国と神角寺の戦い

源頼朝は、豊後の国主及び武士団が義経に味方しているとの口実で、25年間、国主として豊後に影響力を持っていた藤原頼輔(よりすけ)、頼経(よりつね)親子を解任し、直轄支配する。

緒方惟栄を九州下向の先導者に引き入れたのは、義経第一の支持者である頼輔、頼経父子であった。

義経の九州下向を先導したのが惟栄であるから、義経の行方が不明な時、頼朝が豊後を一大敵国と想定したのは当然である。

奥州平泉(岩手県平泉町)に逃れた義経が衣川館で自害すると、豊後の直轄支配は解除されたが、なお幕府の監視は続いた。

建久7(1196)年の早春、豊後では、大野九郎泰基(やすもと)の館に大神(おおが)一族の主だった者が集まる。

緒方惟栄の配流(はいる)後、豊後大神一族をまとめていたのが、泰基であった。

「関東より、守護職が入って来るので、領地を差し出すように・・・」

泰基は、幕府から届いた命令書を皆の前で読み上げた。

すると、館に集まった一族からは、

「守護職は、我ら大神一族の中から選らばれるべきであろう」

「平氏を討伐した最大の功労者は、我々であることを忘れたか」

「長年守ってきた豊後を東国の武士に渡してなるものか」

と、言う意見が続出した。

「大神一族を守り、豊後武士の誇りを最後まで守り抜く!!」

皆の賛同もあり、泰基は関東勢の入国に抵抗することを決めた。


建久7(1196)年4月、大友氏初代の能直(よしなお)が豊後守護職に任命され、弟の古庄重能(ふるしょう・しげよし)が大友軍1千8百の兵を率いて浜脇に上陸し、立石(別府市)に陣を張った。

「大神一族が、我らの入国に反対し、兵を挙げました」

と、立石の陣に報告が入った。

重能は、このことを、すぐに鎌倉に報告し、九州各地からの援軍を要請する。

大野泰基は大友軍を迎え撃つため、先陣を高崎山(お猿の山で有名な高崎山)に置き、七瀬川(大分川)と大野川沿いに砦を築き、神角寺(じんかくじ)山に本陣を構えた。

神角寺山(標高730m)には、西の高野山と呼ばれた真言宗の寺院、神角寺(豊後大野市朝地町)がある。

九州各地からの援軍が集まると、総大将の古庄重能は高崎山を攻略し、神角寺山を目指して、大野川沿いに南へ軍を進めた。

大神一族は、阿南惟家(これいえ)が高崎山、弟の家親(いえちか)が鶴賀城(大分市上戸次)に籠り、激しく抵抗したが、討ち死にする。

その後、古庄重能は大きな抵抗も無く神角寺山の麓、大野原(豊後大野市大野町)に達すると、

「豊後武士は、所詮、田舎侍の集まりよ、恐れるに足らん・・・」

と、油断をして、神角寺山に攻め登った。

しかし、神角寺山は修験者の修行の山とあって、険しい山々が連なる難攻不落の山であった。

大野泰基は、地の利を生かして、神出鬼没(しんしゅつきほつ)の攻撃を繰り返し、大友軍に損害を与え続けた。

泰基の戦いに翻弄され、大損害を受けた重能は、鎌倉の兄(能直)の下へ、更なる増援要請する。

一方、大軍を相手に局地戦に勝利を収めた泰基は、深追いせず、兵を退かせ、山の防衛線を固めた。

鎌倉で、重能からの報告を受けた守護職の大友能直は、

「このままでは、幕府の威信に傷が付き、我が身も責任を逃れまい。何とかせねば・・・」

と思い、沼田に配流されていた緒方惟栄を訪ねる。

「惟栄殿、豊後のことは聞いておろう。この戦いを収める者は、貴殿しかおらぬ・・・」

と、神角寺山に立て籠もる大野泰基に降伏を勧めるように頼んだ。

惟栄も、大神一族存亡の危機を救うことは、自分の務めと考え、

「大神一族を豊後に残してもらえるならば・・・」

と、使者になる条件を出した。

「よかろう、我が家臣団として迎え入れよう」

と、能直は約束した。

能直も豊後を統治していくためには、大神一族の協力が必要なことを理解していた。


惟栄は頼朝から放免の許可を得ると、すぐに、豊後に向かった。

10年ぶりに豊後の土を踏んだ緒方惟栄は、感傷に浸る間も無く、神角寺山を包囲する古庄重能の陣を訪れる。

各国から寄せ集められた兵で成り立っていた攻撃軍は、戦が長期化したこともあって、厭戦(えんせん)気分が漂っていた。

重能は、惟栄の顔を見ると、

「惟栄殿、お待ちしておりました。話は兄上(大友能直)から聞いております。すぐに使者に出て下され」

と、神角寺山へ送り出す。

惟栄が、神角寺山の泰基の陣に着くと、

「おおー! 使者が来ると聞いていたが、惟栄殿であったか」

「泰基殿、お久しぶりでござる」

と、2人は手を取って再会を喜んだ。

「さすが、泰基殿、幕府の大軍をこうも悩ませておる」

と、幕府の大軍に一歩も引けを取らない戦いをする泰基を称えると、

「なーに、大軍といっても、寄せ集めの兵でござるよ」

と、謙遜して見せた。

挨拶が済むと、惟栄は、

「泰基殿、申し訳ない。全ては私の責任だ、赦してくれ」

「宇佐神宮を焼き討ちし、義経殿に味方したばかりに、皆に迷惑をかけてしまった。申し訳ない」

と、地面に頭を付けて、詫びた。

「頭を上げて下され。惟栄殿が皆の罪を1人で受けてくれただけのこと・・・。我らの方こそ、礼を言いたい」

これで、二人のわだかまりが解け、お互いの心が開いた。

「惟栄殿、詫びるためだけに、ここへ来たわけではなかろう・・・」

と、泰基が話を切り替えた。

「ここまで、幕府軍を悩ませれば、大神一族の意地は充分に・・・」

と、惟栄が和睦の話を切り出すと、

「こっちも、食料が尽きてきたので、そろそろだと思っていた・・・」

「私の首一つで、大神一族が救えるのであれば、よかろう」

と、惟栄の和睦案を受け入れた。

「大友の家臣となろうとも、大神一族が豊後を守ることに変わりはない」

と、惟栄が言うと、

「それは、ありがたい。私も、源平合戦で活躍した緒方三郎惟栄殿と共に歴史に残るだろうか・・・?」

と、泰基は惟栄に問いかけた。

「大野泰基の名は、大神一族と共に、永遠に豊後の歴史に刻まれよう」

と、惟栄が答えると、両者はうなずきながら笑って、別れた。

こうして、大野泰基が自害し、神角寺の戦いは幕を閉じた。

能直は惟栄との約束を守り、他の大神一族は罪に問われることは無かった。



8.その後の大友家臣団と大神一族

大友氏が豊後の支配を強めていく中、大神一族は独自に血統を守る一族と大友氏との養子縁組で大友一族に組み込まれる一族が出たが、大友家臣団として残り続けることになる。

大神一族の血統を守る子孫は、代々、名前に「惟(これ)」の字を用いることを慣習とし、現代まで続いている。

大友家臣団は、「同紋衆」、「下り衆」、「国人衆」などの3つに分けられる。

同紋衆とは、大友氏の一族、譜代の家臣で、田原氏、一万田氏、志賀氏、戸次氏、木付氏、田北氏、立花氏、吉弘氏などがあり、戸次氏のように大神氏であったが、大友氏から養子を迎えて、大友一族になる者もいた。

下り衆とは、大友氏に従って関東から下向した一族で、古庄氏、小田原氏、徳丸氏、工藤氏、首藤氏、衛藤氏、斉藤氏、安東氏などがいる。

国人衆は、大友氏が来る前から豊後に住んでいた大神一族で、阿南氏、野尻氏、稙田氏、敷戸氏、佐伯氏、賀来氏、雄城氏、小原氏などがいる。

大神氏の子孫では、緒方洪庵(幕末の蘭学者)、阿南惟幾(最後の陸軍大臣)、緒方拳(俳優)、賀来千賀子(女優)などが有名である。

その他の国人衆としては、玖珠の清原一族、日田の大蔵一族、宇佐の宇佐一族がいる。

清原一族には、長野氏、帆足氏、恵良氏、右田氏、野上氏、飯田氏などがおり、日田一族には、日田氏、財津氏などがいる。

宇佐一族には、宮成氏、吉松氏、山下氏、池永氏、東氏などがいる。

大友氏滅亡後には、小藩分立する豊後に各地から移ってきた大名(松平氏、木下氏、中川氏、稲葉氏、毛利氏等)の一族、家臣団が加わり、更に多くの苗字が増えていった。

大分県民の皆さん、あなたの先祖は、どれに当てはまりますか?



作成 2012年5月20日 水方理茂

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