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1.援軍到来

天正14(1586)年12月8日、大友、四国連合軍6千は府内を出発し、島津の大軍に包囲された鶴賀城(大分市大字上戸次)を救援するため、対岸の竹中(大分市大字竹中)に向かった。

大友氏22代当主の義統(よしむね)が総大将になり、讃岐(香川県)の仙石秀久、十河存保(そごう・まさやす)、土佐(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)、信親(のぶちか)親子らが援軍として加わる。

これより8ヶ月前の4月、大友宗麟(義統の父)が大阪を訪れ、豊臣秀吉に救援を請うている。

宗麟は義統に家督を譲り、津久見で隠居生活していたが、日増しに強まる島津の脅威を感じ、

「関白(秀吉)殿に直接会って、救援を頼んでみよう・・・」

と、老体に鞭打って大阪を訪れた。

今の大友氏には、自力で島津氏と対抗できる力が無いことを悟っていたのであろう。

この1年後に病没する宗麟は、豊後と大友氏を守るために、最後の力を振り絞って大阪に赴いたに違いない。

かねてより、外交手腕に優れていた宗麟は、公家や商人など、多くの人脈を通じて秀吉とも交流があった。

秀吉は大阪城で宗麟を迎え、自ら進んで城の案内をするなどして、たいそうな歓迎ぶりだったという。

「島津の侵略から豊後を守っていただきたい」

と言う宗麟の願いに

「心配するな。この秀吉に、お任せあれ」

と、秀吉は援軍を送ることを約束した。

宗麟は秀吉から援軍の約束を取り付け、安堵の気持ちで豊後へ戻る。

一方、全国統一を目指す秀吉にとっても、九州の名門である大友氏からの救援依頼は九州征伐の大義名分を得ることになり、大きな収穫となった。

秀吉の命で、先発隊として豊後に派遣されたのは、仙石秀久、十河存保、長宗我部元親、信親の四国勢であった。

秀久は浄土寺(大分市王子西町)、元親は瑞光寺(大分市六坊北町付近にあったとされる)を宿舎とする。

義統は援軍を迎えるにあたり、住吉川に架かる土橋を石橋に架け替えるなど、府内の道路を整備したという。

後世、この橋は「仙石殿を迎える橋・・・」が短縮され、『仙石橋』(大分市千代町4丁目)と呼ばれるようになる。


島津家久は、重臣の伊集院美作守(みまさかのかみ)、新納大膳正(にいろ・だいぜんのしょう)、本庄主税助(ちからのすけ)とともに竹中の台地に終結しつつある連合軍の様子を遠くから眺めていた。

「竹中に陣を敷かれると、大野川を挟んで戦うことになる・・・」

家久は対岸を眺めながら、険しい表情をした。

「竹中は攻め難い断崖の上にあり、我らのいる戸次(へつぎ)は平坦な河原で、地形的には不利か・・・」

「そうだな・・・」

と、新納の言葉に、家久はうなずいた。

「なんとしても、秀吉の本隊が来るまでに府内を落とさねばならぬ」

この時、秀吉の援軍が続々と九州に渡り、黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)が豊前に入ったとの情報が入る。

家久は視線を戸次の河原に移しながら

「敵を誘い込んで、一気に勝敗を決するしかあるまい。さて、罠にかかってくれるか・・・?」

と、うなずきながら重臣達と顔を見合わせた。

家久は鶴賀城の囲みを解き、鶴賀城から約4km南の坂原山へ兵を退却させる。



2.荒れる軍議

12月11日、大友、四国連合軍は、鶴賀城を遠くに望める竹中の鏡城(かがみじょう)に集まり、軍議を開く。

大友義統を中央にし、左右に仙石秀久、十河存保と長宗我部元親、信親が分かれて座った。

この時点では、大友氏と島津氏の戦いなので、義統が連合軍の総大将であり、四国勢は援軍にすぎなかった。

しかし、秀吉から軍監(戦目付け)として使わされた仙石秀久が、実質上の総大将として振舞っていた。

開口一番、仙石が声高らかに持論を展開する。

「敵は我等に怖気(おじけ)づいて退却を始めた。この期を逃さず、直ちに河を渡って鶴賀城の救援に向うべし!」

これに、四国の雄、長宗我部元親が反論する。

「敵の退却は見せかけで、必ず策があるものと思われる。もし、河を渡れば、大軍を相手に背水の陣で戦うことになり、不利となりましょうぞ!」

秀久は首を振りながら、元親に向って、

「鶴賀城の窮状を目前にして、救援を躊躇(ちゅうちょ)するとは、武門の恥であろう。我が軍のみでも河を渡るので、長宗我部殿は、ここで待つがよかろう」

と、言う。

「仙石殿の言われる事に賛成である。古来より、河を挟んで戦う時、先に渡った方に勝ちが多いと言う・・・」

と、在保も過去の因縁上、秀久に同調したが、本心では信親の主張が正しいと思っていた。

すると、若い信親が

「出陣前、敵を侮らず、抜け掛けせず、諸将で合議して、ことに当たるようにと申されていたのは、仙石殿自身であろう。お忘れか・・・!!」

と、秀久に詰め寄る。

「若輩、未熟の者に軍略の事がわかるはずも無い。土佐兵はそのように河を渡るのが怖ければ、ここに留まり、我が軍の働きを見物されよ!!」

と、秀久は、あざ笑いながら言い放つ。

「我等、若輩未熟につき、後陣となり、貴殿が敗れた時には、殿(しんがり)を務めましょう」

と、信親も言葉を返す。

すると、秀久は

「なにー!! 我らが敗れるとでも・・・」

と、信親をにらみつける。

しばらく、沈黙が続いた後、

「これ以上、議論しても無駄だ。義統殿の決断を仰ごう」

と、秀久は義統の顔を見ながら目で決断を促す。

義統は、おどおどした表情で、周囲を見渡しながら、

「仙石殿が、そこまで言うなら・・・、それに従おう」

と、決断を下した。

「河を渡り、6千の兵で2万の大軍を相手に野戦を挑むとは、正気の沙汰ではない。ここに陣を構え、地の利を生かして戦うべきである」

と、元親は思ったが、軍監である秀久の命に従わざるを得なかった。

これで、軍議は終了し、渡河が決定した。



3.四国勢の因縁

四国から渡って来た援軍には、深い因縁があった。

かつて、長宗我部元親が土佐一国から四国制覇を目指して阿波、讃岐に侵攻した時、仙石秀久と十河在保は元親との戦いに敗れ、四国から追い出されている。

つまり、秀久、在保とも元親に痛い思いをさせられ、恨みを抱いていた。

今回の豊後救援軍編成は、豊臣秀吉が決めたものである。

秀吉の主(あるじ)である織田信長は、仇敵同士を将として軍を編成することがあったが、秀吉もこれを踏襲(とうしゅう)していた。

秀吉の狙いはわからないが、今回の編成は最悪の結果を招くことになる。

在保は三好長慶の弟・義賢の次男として生まれ、叔父で讃岐十河城主の十河一存(そごう・かずまさ)が急死したため、養子となって家督を継いだ。

その後、実兄の三好長治が、長宗我部元親の策略により、異父兄の細川真之に殺害されると、阿波の勝瑞城(しょうずいじょう)に入り、三好家の勢力挽回に務める。

しかし、在保は元親の侵略を防ぐことが出来ず、阿波、讃岐のほとんどを奪われ、四国を追われる。

在保は秀吉に援軍を求め、援軍としてやって来たのが、仙石秀久だった。

秀久は美濃(岐阜県)土岐氏の家臣、仙石久盛の四男として生まれる。

仙石家は土岐氏没落後、斎藤氏の家臣となり、斎藤家三代に仕える。

秀久は養子に出されていたが、織田氏との戦いで長男、次男、三男が相次いで戦死したので、急遽呼び戻され、仙石家の家督を継ぐ。

主君の斎藤龍興が織田信長に敗れた後、信長の家臣である豊臣秀吉の配下となり、多くの武功を挙げる。

秀久は四国へ渡り、存保を救援したが、引田の合戦で長宗我部元親に破れ、敗走する。

その後、秀吉が本格的に10万の大軍で四国討伐軍を送ることで、元親の四国制覇の夢は絶たれる。

元親は阿波、讃岐、伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。

四国攻めの論功行賞により、秀久は讃岐高松10万石に加増され、在保は旧領の讃岐十河3万石を与えられて大名として復帰する。

つまり、秀久と在保は共に戦った仲間で、元親とは仇敵の間柄であった。



4.日渡り

11日の昼過ぎ、連合軍は鏡城から大野川下流の冬田(ふゆだ)に移動し、

「直ちに河を渡って、敵を蹴散らせ」

と、仙石秀久の号令で、河を渡り始める。

仙石軍を先頭に、長宗我部、十河、大友の軍が次々と続いた。

この辺の大野川は深くて流れが早いため、思いのほか時間がかかった。

大河の場合、夜間の渡河は危険を伴うので、日が暮れる前に渡り終えようと必死に渡ったという。

全軍が渡り終えた時には、既に日が傾き始めていた。

「日が暮れる前に渡る」と言うことから、この辺に『日渡り』と言う地名が残っている。

連合軍は、島津軍の攻撃を受けることなく無事に河を渡り終えた。

木枯しの吹く中、兵はずぶ濡れになり、震えながら対岸の中津留河原に到達した。

「なんなく、河を渡れたではないか。さては、怖気づいて、敵は逃げよったか・・・」

と、秀久は得意げに言った。

渡河を終えた連合軍は中津留周辺に布陣し、夜を迎える。

大友、四国連合軍の布陣は以下の通り。

 右翼隊(大野川東岸の山崎に布陣)
    第1隊 桑名太郎左衛門    兵力1千
    第2隊 長宗我部信親    兵力1千
    第3隊 長宗我部元親    兵力1千

 左翼隊(迫の口に布陣)
    第1隊 十河在保      兵力1千
    第2隊 仙石秀久      兵力1千

 予備隊     大友義統     兵力1千


偵察から連合軍の渡河の様子を聞いた島津家久は、

「わずか6千の兵で援軍とは、なめられたものよ。ここで一気に叩き潰してやる」

と、深夜にかけて、密かに兵を移動する。

一部の兵を鶴賀城の監視に置き、残りを4隊に分けて北方に前進させた。

第1隊の伊集院美作守を長宗我部軍に、本庄主税助の第3隊を十河、仙石の軍に向かわせる。

新納大膳正の第2隊は伏兵として第1隊の背後に潜み、島津家久の本隊が、その後ろに控えた。

島津軍の布陣は以下の通り。

 第1隊 伊集院美作守  兵力5千

 第2隊 新納大膳正    兵力3千

 第3隊 本庄主税助   兵力2千

 本 隊 島津家久    兵力8千



5.中津留河原の決戦

12月12日の夜明けとともに、中津留河原に鉄砲の音が鳴り響く。

伊集院美作守が率いる島津軍の第1隊が、右翼の長宗我部軍に攻撃を仕掛けた。

長宗我部元親は敵の攻撃を予測していたので、慌てず、

「この地に屍を曝す覚悟で戦い、一歩も引いてはならぬ。土佐武士の誉れを後世に残して、恥を残すまいぞ!!」

と号令し、押し来る敵を防いだ。

元親と信親の親子は馬で戦場を十文字に駆け巡り、伊集院隊を利光(としみつ)まで追い返す。

家久は味方の退却を見ると、戦場に駆け出し、

「敵は天下に知れた勇猛の土佐軍、薩摩隼人の本領を見せてやれ。生きて薩摩に帰れると思うな!!」

と、下知した。

家久の決死の覚悟が伝わり、苦戦の伊集院隊に新納大膳正の第2隊が加勢し、長宗我部軍を脇津留まで押し返す。

更に、家久の本隊も加わり、全軍を挙げて長宗我部軍を中津留河原へ押し出していく。

利光から脇津留、山崎、中津留に至る周辺で土佐兵と薩摩兵が死に物狂いでぶつかり合い、激しい戦いが繰り広げられた。


その頃、迫ノ口に陣を敷いていた仙石、十河の軍は、本庄主税助が率いる第3隊の攻撃を受けていた。

「計られた。敵は大軍、退却せよ!!」

と叫ぶなり、仙石秀久は馬に跳び乗って一目散に戦場から逃げる。

指揮官が逃亡した仙石軍は総崩れになり、多数の兵が逃げ出した。

前方の仙石軍が逃げ惑う中、十河在保は家臣達に向かって、

「仙石の指揮下になったのが不運、ここが我等の死に場所ぞ!!」

と叫び、踏み留まって戦ったが、鉄砲に撃たれ討ち死にする。

後陣に控えていた大友義統は、左翼隊の秀久が逃亡し、在保が討ち死にしたことで、戦わずして府内へ撤退する。

この時、義統の撤退を助けたのが、鎧ヶ岳(よろいがたけ)城主、戸次鎮連の嫡子、統常(むねつね)である。

鎮連は叔父の立花道雪から戸次氏の家督を譲られていたが、このたびの戦いでは大友氏を見限り、家名を守るため島津軍に内応した。

父の行動を不服とする統常は、戸次氏の汚名を晴らそうとして、手勢百名を率いて決死の覚悟で出陣し、大友軍に加わっていた。

統常は島津軍の攻撃を食い止め、義統を無事に府内へ撤退させた後、壮絶な死をとげて主家への忠義を貫いた。

連合軍は仙石、十河、大友軍が敗退し、長宗我部軍のみが戦場に踏みとどまった。

仙石、十河軍を破った本庄の第3隊が背後に迫り、長宗我部軍は四方から包囲される。

次々と新手を繰り出す島津軍の前に長宗我部軍の多くが討ち死にし、元親、信親の親子も離れ離れになる。

元親に付き従う者も多くが討ち死にし、わずか20名となり、

「息子(信親)の行方も知れず・・・、この上は、討ち死にしてくれようぞ!!」

と、馬を降りて敵に切り込もうとしたが、

「こんなところで討ち死にしたところで、何の功がありましょうや、生きて再起を計ることが肝心かと・・・」

と、傍にいた家臣に引きとめられ、わずかな手勢とともに府内まで落ちのびていった。



6.信親の壮烈な死


苦戦する長宗我部軍の中に、戦場を縦横無尽に翔けて戦う白馬の若武者がいた。

その若武者こそ、元親の嫡男信親である。

織田信長から賜ったとされる4尺3寸(約1.3m)もある左文字(さもんじ)の大太刀を振り払いながら、戦場を駆け巡った。

信親の愛馬は、走っているときの毛の揺れが、滝のように見えることから『白滝(しらたき)』と呼ばれていた。

信親は父を無事に戦場から逃がすため、自らが盾となる覚悟を決め、

「この河原が、我が死に場所じゃー!!」

「若殿、お供つかまつる!!」

信親の叫びを聞いた土佐兵7百余名が、信親のもとに集まり、主人の周りを固めて、島津軍の攻撃に絶え続けた。

死を覚悟した土佐兵の形相はすさまじく、

「あれは、死兵じゃー!!」

と、薩摩兵の中から聞こえ、遠巻きにしてひるんでいると、

「ひるむな―、ものども、死ねや―!!」

と、新納大膳正が檄を飛ばし、再攻撃がかかる。

戦い続けること4時間余り、多くの者が討ち死にし、信親の周りに残る者は20名になった。

駿馬と言われた白滝の足が止まり、馬から降りて戦わなければならなくなった。

体中に無数の矢と傷を受け、針鼠(はりねずみ)状態になった元親は、立って歩くのがやっとの状態で、

「我は長宗我部元親の嫡男、信親なるぞ。勇気あるものは、我が首取り、手柄にせよ!!」

と、最後の力を振り絞って、敵陣に突っ込んで行った。

付き従った20名も主人の後を追い、被い重なるようにして全員玉砕し、壮烈な最期を遂げる。

この合戦で、信親に従った7百余名が主人に殉じて討ち死にしたが、四国勢の戦死者は、十河在保、長宗我部信親、桑名太郎左衛門をはじめ2千名にも及んだと言う。

信親は元親と明智光秀の一族と言われる母の間に生まれ、長宗我部の嫡男として育ち、元服するときに織田信長から信の字を賜り、弥三郎信親と名乗る。

『土佐物語』によれば、

「信親は、背の高さ6尺1寸(約1.8m)、色白く柔和にして、言葉少なく礼節ありて厳ならず、冗談は言うが、下品でなく、諸士を愛し・・・」

とあり、土佐の国中の人から慕われた武将だったと伝えている。

この戦いで、信親が生きておれば、その後の長宗我部家の没落は無かっただろうと言われている。

戦いが終わった後、信親の愛馬、白滝が戸次川のほとりで、主人の帰りを待ち続けていたと言い伝えられる。

この話は、地元の人々の心に残り、後世、この河に橋が架かると『白滝橋(しらたきばし)』と名付けられたという。



7.義統の逃亡

島津家久は鶴賀城を捨てて、敗走する大友、四国連合軍を追撃する。

途中、家久は軍を2つに分け、鶴崎と府内へ向けて進軍した。

島津軍の本隊は津守(つもり)まで進んだが、大分川対岸の祇園河原(現在の広瀬橋付近と思われる)には、吉弘統幸率いる3百の兵が鉄壁の守りで待ち構えていた。

統幸は戸次川の合戦には参加せず、府内の守りを任せられていた。

味方の敗軍を無事に府内へ導き入れた統幸は、祇園河原に陣を構え島津軍の攻撃に備えた。

川岸に鉄砲隊を三段構えに配置し、その後ろには、長槍隊を控えていた。

この、陣構えを見た家久が聞いた。

「あの陣は、誰が指揮しているのか?」

「あの旗印からすると、吉弘統幸と思われます」

「さすが、高橋紹運(じょううん)殿の甥だ。安易に攻めかかっては、痛い目にあおう・・・」

家久は河を渡ることをやめ、守岡城(大分市曲、森岡小学校のある場所)に入って、様子を見ることにした。

統幸の祖父は、大友宗麟を支えたことで有名な「豊州三老」の一人、吉弘鑑理(あきまさ)で、父の鎮信は「耳川の合戦」で討ち死、叔父の高橋紹運は「岩屋城の戦い」で玉砕している。

立花道雪(どうせつ)の養子になった立花宗茂は、紹運の実子なので、統幸とは従兄弟関係になる。

吉弘氏は、大友一門の中でも最も「死をも恐れぬ凄まじい忠誠心」の一族と言われている。

統幸の必死の守りにより、義統は無事に府内の大友屋敷まで逃れたが、

「統幸殿が必死に守ろうとも、敵の大軍をいつまでも防ぎきれませぬ。府内を退き、高崎山城に籠り、そこで秀吉軍を待ちましょう」

という進言に従って府内を脱出する。

しかし、高崎山に入ってみると、食料、武器弾薬の準備がなされておらず、長期間の籠城に耐えられるものではなかった。

「せっかく難攻不落の城として、造ったのに・・・」

南北朝の動乱期に、菊池氏の猛攻に耐えた城は、更に防衛施設が施され、中世の山城に改良されていたが、日の目を見ることは無かった。

結局、義統は叔父である田原紹忍が守る龍王城(宇佐市安心院町龍王)に逃れる。

この行動は、後で、秀吉から臆病者と罵(ののし)られることになる。

府内がもぬけの殻になると、家久は大分川を渡り、府内の町へ入った。

島津軍は府内の町を焼き払い、多くの神社、仏閣を始め、キリシタン施設などを破壊し尽くす。

150年に渡り、外敵から攻撃を受けることなく平和を保ち、宗麟の時代に南蛮貿易で栄えた府内の町は、一瞬にして灰燼と帰した。



8.戦いの後

長宗我部元親は豊後水道を越え、伊予の日振島(愛媛県宇和島市日振島)に逃れた。

逃げる途中、信親の死を知らされたが、信じることが出来なかった。

「島津の陣営に行って、信親の遺骸を貰い受けてくれ」

元親は家臣の谷忠兵衛を島津軍の本陣へ派遣する。

島津軍では、重臣の新納大膳正が対応した。

「今度の合戦で、嫡男である信親が戦死したと聞きました。どうか、遺骸をお引渡しいただきたい」

と、忠兵衛は元親の言葉を伝える。

「元親殿のご心底、お察し申し上げます」

新納は忠兵衛に悔やみの言葉を述べた。

「勝敗は時の運、武士が戦場にて死ぬことは、本望でございましょう」

と、忠兵衛が言うと

「信親殿の奮戦は素晴らしく、我が兵も皆、その武勇に感服しておりました」

と、新納は信親を褒め称えた。

島津氏には、たとえ敵味方として戦った相手でも、戦いが終わればお互いを称え合うという気風があった。

新納は忠兵衛を山崎の台地に案内し、仮埋葬していた信親の遺骸を引き渡す。

忠兵衛は遺骸を火葬し、遺骨と遺品である甲冑、太刀を持ち帰った。

遺品に対面した元親は、

「なんと・・・」

と、嗚咽した。

太刀は先端から根元まで、無数の切り込みを受けた跡で刃こぼれし、ボロボロになっていた。

甲冑には矢弾、太刀、槍の跡が数え切れないほど残っており、袖(鎧の一部で肩から肘を板状に覆う防具)や草摺(くさずり、鎧の一部で腰をスカート状に覆う防具)は途中からちぎれていた。

これを見たものは皆、

「信親様はなんと激しく戦ったのか・・・」

と驚き、涙を流さないものはいなかったと言う。


その後、四国連合軍は次の運命をたどることになる。

長宗我部氏は元親の跡を継いだ四男の盛親が、関ケ原の合戦、大阪夏の陣で敗れ、滅亡する。

十河氏は在保の遺児千松丸が謎の急死を遂げ、もう一人の遺児存英も大坂夏の陣で敗れ、直系が絶えている。

戦場から逃げ去った仙石久秀は、秀吉の怒りを買い所領を没収されたが、徳川家康のとりなしで復帰し、信州小諸5万石を与えられる。

そして、秀久の子孫は小諸藩から上田藩、但馬国出石藩に移封され、藩主として江戸時代を生き抜き、明治維新を迎えている。

無謀な戦をして、逃げ帰った仙石氏が存続し、最後まで戦って信親と在保が討ち死にした長宗我部氏と十河氏が滅んだと言うのは、なんという運命の皮肉であろう・・・。



作成 2010年3月20日 水方理茂
第1回改訂 2013年11月24日 水方理茂


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