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1.迫り来る島津軍

天正14(1586)年9月下旬、大友義統(よしむね)は、豊前で起きた反乱を鎮圧するため、豊前に出陣した。

鎮圧には、島津氏の侵略に備えるため、豊臣秀吉の命で豊後に派遣されていた仙石秀久、長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)、十河在保(そごう・まさやす)らの四国勢も加わる。

義統は大友氏22代の当主で、キリシタン大名として有名な宗麟(義鎮)の息子である。

島津氏の当主である義久は、薩摩で義統出陣の知らせを聞いた。

「これで、府内(現在の大分市)の守りは手薄となった。やはり、義統は親父の宗麟と違って愚か者よ」

豊前の反乱は、義統を誘い出すために、義久が裏で手を引いていたのだ。

「あの、馬鹿者が・・・。島津の攻撃に備えねばならぬ時に、当主が府内を空にするとは・・・」

津久見で隠居していた宗麟は、息子の行動に、ただ呆れるばかりであった。

宗麟の時代に九州6ケ国を支配していた大友氏の領土は、次々と島津氏に侵略され、豊前と本領の豊後が残るのみとなっていた。

中央で、秀吉が全国統一を成し遂げようとしていた頃、義久も九州制覇を急いでいた。

島津氏は大友氏と同じく、鎌倉時代から守護、守護大名、そして戦国大名として九州に君臨した名門である。

しかし、島津氏は、九州の南端という地理的な条件と一族による内紛が絶えなかったこともあり、これまで、九州の覇権争いに係わることが無かった。

「ようやく、九州を統一する時が来たか・・・」

義統が豊前に出陣したことで、豊後への侵攻が決まった。

大友氏に替わって九州の覇者になる夢を抱いた義久は、豊後に攻め込む時期を窺い、密かに大友家臣への寝返り工作を進めていた。

義久の熱心な説得により、柴田紹安(じょうあん)を含め、多くの武将が島津氏に味方することを約束した。

大友の家臣達が裏切るのは、キリシタンを重用する主家への不満や家督を継いだ義統の統治能力の欠如などが言われているが、家名を守るために強い方へ付くというのは戦国時代の常である。


10月2日、義久は弟の義弘、家久とともに6万の大軍を率いて、鹿児島を出発する。

義久は本営を日向の縣(現在の延岡市)に置き、肥後(熊本県)から義弘の軍勢2万5千、日向(宮崎県)から家久の軍勢2万が、豊後領内に攻め込んだ。

日向からの島津軍は梓峠を越えて豊後に侵入すると、柴田紹安の内応で、戦わずに朝日嶽城(佐伯市宇目、標高305m)を手に入れる。

朝日嶽城は島津の侵入に備え、国境の押さえとして宗麟が紹安に命じて築かせ、守らせていた要所である。

島津軍は紹安の道案内で、三重(豊後大野市三重町)まで進軍すると、市場の豪商である麻生紹和(しょうわ)の出迎えを受ける。

紹和は早くより島津氏と内通しており、商人に身を替えた密偵に豊後の情報を流していた。

家久は松尾山(豊後大野市三重町、標高273m)を本陣とし、周辺の攻略を進める。

佐伯惟定の籠る栂牟礼(とがむれ)城の攻略には失敗したが、日向街道沿いの周辺地域を次々と制圧していった。

「惟定は栂牟礼城を守るのが精一杯で、我々の背後を脅かすことはなかろう・・・」

と、家久は佐伯勢の動きを気にせず、府内への道を進んだ。



2.偽りの降伏

10月下旬、島津家久は本陣を野津(臼杵市野津町)に進めると、案内役の柴田紹安に府内までの距離を尋ねた。

「あと、7里(約28Km)ですが・・・」

「そうか、家臣から見放されては、大友氏も終わりだな・・・」

義久は、大きな抵抗を受けずに来たので、楽観的になっていた。

それを危惧した紹安が、家久に忠告する。

「油断は禁物です。この先が難所です」

「難所とは・・・?」

義久は、忠告の意味がわからなかった。

「この先、犬飼から戸次までは大野川の渓谷に挟まれ、隘路(あいろ)となっています。しかも、堅城を誇る鶴賀城(大分市上戸次、標高193m)があり、智将で知られる利光宗魚(越前守鑑教、あきのり)が守っております」

「鶴賀城・・・?」

「大野川と日向街道を眼下に望め、府内防衛の戦略拠点になっております。戦えば、味方の損害は避けられませぬ」

「府内を前にして、出来るだけ兵の損失は避けたいものだ・・・」

家久は戦いを避けるため、鶴賀城に降伏を勧める使者を送ることにした。

この時、城主の利光宗魚は筑前に出陣中であったが、嫡男の統久(むねひさ)と家臣7百、それに領内から集まった婦女、老幼を含め3千余りが島津軍の攻撃に備え、立て籠もっていた。

利光氏は大友系戸次氏の祖、重秀の三男である親家を始祖とし、代々に渡り、鶴賀城の城主を務めている。

統久は、家老の成大寺(じょうだいじ)家永、叔父の利光重助、軍監の高橋左近らを始めとする重臣を集め、対応を協議した。

「今は、勢いのある島津軍と戦える状況ではない。一旦降伏し、城主の帰りを待ちましょう」

と、言うのが重臣達の意見であった。

「では、皆の言うとおりにするか・・・」

統久は重臣達の意見を受け入れ、宗魚が帰還するまでの時間稼ぎとして降伏を受け入れることにした。

すると、まだ元服したばかりの牧宗之助が進み出て、

「どうか、私を御身内の者として、人質に使ってください」

と、進言した。

一同は、まだ幼顔が残っている若武者の言葉に感動した。

この時代、降伏の証として城主の身内から人質を差し出すのが常であり、和睦が壊れると、真っ先に殺される運命にあった。

「これより、そなたは、我が末弟の右馬助である」

と、統久は惣之助の手を握り、人質として島津に行くことを頼んだ。

「これで、御恩に報いることが出来ます」

と答え、宗之助は島津の陣営に向った。


鶴賀城の降伏を聞いて、家久は大いに喜び、

「人質を保護し、本隊の到着を待つように・・・」

と、麓の大塔(おおと)に、百名余りの兵を置き、城を監視させた。

その頃、城主の利光宗魚が筑前から急いで帰還した。

宗魚は夜陰に紛れ、密かに城内へ入り、

「我らが、府内の最終防衛線と心得よ。関白殿下(秀吉)の援軍が来るまで、ここで、敵を食い止めるぞ!!」

と、徹底抗戦を告げる。

「降伏が偽りとわかれば、宗之助が危ない・・・」

その夜、宗魚は宗之助を救い出すため、大塔の島津陣営を襲った。

降伏を信じ、油断していた監視の島津兵は、驚いて逃げ回った。

利光勢は島津兵を討ち取り、大塔から追い払う。

敵兵の屍の中に宗之助を見つけたが、既に息絶えていた。

「宗之助、許せ・・・」

宗魚は宗之助を失った悲しみもあったが、島津軍を先導している紹安のことが気になった。

「紹安が敵方にいては、こちらの手の内が読まれてしまう・・・」

宗魚と紹安は、豊後の名軍師と呼ばれた角隈石宗(つのくま・せきそう)の弟子として、共に学んだ間柄であった。

「何としても、島津軍から紹安を離さねば・・・」

宗魚は間者を放ち、家久と紹安の仲を裂くため、離間(りかん)の策を仕掛ける。



3.古屋(こや)の瀬

島津家久は、鶴賀城の降伏が偽りであったことを知ると、怒りが頂点に達した。

「偽りの降伏だったとは・・・。宗魚め、許さんぞ!!」

家久は鶴賀城の総攻撃に向おうとしたが、柴田紹安が引き止めた。

「このまま攻めれば、丹生島城(現在の臼杵城)の兵から背後を襲われる心配があります。まずは、背後の憂いを無くする事が肝心かと・・・」

「では、先に丹生島城を攻撃せよ!!」

11月5日、野村備中守文綱、白濱周防守重政が率いる兵2千が、柴田紹安の先導で丹生島城攻撃に向った。

そこには、津久見で隠居していた宗麟が、僅かな配下と城下から集まった老若男女とともに籠っていた。

城から放たれる「国崩し」と呼ばれる大砲の応戦で、島津兵は城に近づくことが出来ずにいた。

「さすが、宗麟じゃ、最後の意地を見せておるわ。だが、城を守るのが精一杯で、我らの背後を襲う力はなかろう・・・」

家久は、城からの出撃を阻むための兵を残して、引き上げを命じた。

丹生島城の心配が無くなると、島津軍は犬飼、川原(かわばる)、上り尾(あがりお)を通って、影ノ木(かげのき)まで進軍する。


島津の本隊が影ノ木の台地に本陣を敷いた頃、鳥巣(とりす)の山で1人の農夫が捕らえられ、家久の前に引き出された。

「この辺に住む農夫か?」

「はぁ、そうですが・・・」

家久の前に引き出された農夫は、恐怖でガタガタと震えながら答えた。

「それなら、鶴賀城への道を知っておろう」

「城に行くには、どこも険しい山や谷があります。しかし、河を下り、古屋(こや)の瀬を渡れば、簡単に行くことが出来ますが・・・」

「そこまで、案内出来るか?」

「後で城に知れたら、打首にされます。どうか、お許しを・・・」

農夫は両手を付いて、顔を地面に擦り付けながら詫びた。

家久は、そんな農夫の気持ちを察し、

「案内してくれれば、褒美は望みどおりだ。薩摩に連れ帰り、武士として取り立てよう・・・」

と、優しい口調で語りかけた。

「それなら、案内します」

翌朝、本庄主税介を主将とする百数名の兵は、農夫を先導に金井戸の流れを筏で渡り、大野川沿いを下った。

船戸(ふなと)から花香(はなが)、岩上(いわがみ)を通り、小屋(こや)まで下ると、右手に鶴賀城が見えてきた。

島津兵は、簡単に城の近くまで来たので、皆喜んだ。

本庄は、農夫を先導に立たせ瀬踏みをさせた。

すると、島津兵は、次々と流れに飛び込み、先を競って進んだ。

島津兵が河の中央に到達した時、先ほどまで道案内をしていた農夫が、川岸に突起した岩の上に仁王立ちになり、

「我は大友の家臣、古屋右馬助(こや・うまのすけ)なり。我が計略にかかった愚かな島津兵どもを討ち果たせ!!」

と、叫んだ。

その時、対岸の藪影から島津兵を狙って、鉄砲の一斉射撃が始まった。

藪陰には、高橋左近が率いる鉄砲隊が待ち構えていた。

激流に足をとられた兵は、鉄砲に狙い撃ちされ、多くの者が流され、溺れ死んだ。

右馬助は、逃げる島津兵を追撃する城兵を制し、

「追うな。次は、紹安殿の誘いで、敵を殲滅しようぞ!!」

と言って、城に引き上げる。

影ノ木の本陣まで逃げ帰った島津兵は、本庄を含め、数名であった。

実のところ、古屋の瀬は浅瀬ではなく、牛盗ヶ淵(うしぬすみがふち)と呼ばれる深い淵であったという。

以来、この流れは『古屋(こや)の瀬』と呼ばれ、後世に語り継がれる。



4.筒井川の戦い

「また、騙されたか・・・」

偽りの降伏と古屋の瀬で不覚をとった島津家久の心中は、穏やかでなかった。

そこへ、命からがら逃げ帰った本庄主税介の

「紹安が我らを裏切り、敵の中へ誘い込むとの話を聞きました」

との報告を聞いて、驚いた。

「信じられぬが、用心に越したことはなかろう・・・」

家久は柴田紹安を本隊から外し、様子を見ることにした。

「あの城に入り、背後を守ってくれ」

家久は紹安を島津兵とともに天面山(てんめんざん、大分市端登と河原内の境界、標高403m)城の守りにつかせる。

島津兵は、紹安の配下というより、紹安を監視するための兵であった。

「どうやら、疑われたようだな・・・。恐らく、宗魚の仕業に違いない」

紹安は、僅かな家臣を連れて天面山に入った。

その後、紹安は、妻子の籠る星河城(臼杵市野津町)から火の手が上がるのを見て、助けようとして山を降りたところを裏切りと間違えられ、島津兵に斬られている。


家久は、前方に見える梨尾山(標高179m)を眺めながら、

「鶴賀城を落とすには、あの山が重要拠点となろう・・・」

と、重臣の新納(にいろ)忠元と伊集院久宣に言った。

「では、私が奪って見せましょう」

新納が、梨尾山の攻撃を申し出た。

11月14日、鶴賀城の南向いにある梨尾山を奪うため、影ノ木の本陣から大塔に向けて新納が出陣する。

利光勢は、清田助右衛門、首藤亀之丞、河村六兵衛らが城から出て、影ノ木と大塔の境にある筒井(つつい)で島津軍を待ち構えていた。

筒井には大野川の支流である大、小二つの筒井川が、南から来る敵を阻むように東西に流れている。

「筒井を突破して、梨尾山を獲らねば・・・」

新納忠元は、大筒井川(現在の吉野川)に丸太の橋を架けて、軍を大塔に進めた。

利光勢は大筒井川で応戦したが、攻め来る大軍を防ぎきれず、小筒井川(現在の筒井川)まで退却する。

小筒井川の北岸一帯には、二重、三重に防衛の柵が設けられていた。

「敵は少数、恐れることはない。一気に蹴散らせ!!」

新納が号令を発し、真っ先に攻め込むと、島津兵は次々と川を渡り、襲い掛かった。

島津兵は防御柵から放たれる鉄砲の攻撃を受けたが、一歩も退かず、味方の屍を踏み越えて利光勢に迫った。

「柵に籠らず、出てきて勝負しろ!!」

と、白浜重政が誘い出そうとしたが、利光勢は柵の中から鉄砲や長槍で防戦することに徹した。

利光勢が正面に気を取られている間、野村文綱が吉野方面から攻め込み、背後の山に火を付けた。

背後を突かれた利光勢は柵を守りきれず、筒井の陣地を捨てて退却する。

「このまま突き進んで、梨尾山を奪うぞ!!」

新納の号令で、島津軍は川を越えて一斉に攻め進む。

しかし、この辺の地理に詳しい利光勢は、切岩の坂に登って、追って来る島津兵を上から鉄砲で射撃し、石を投下するなどして、大損害を与えた。

それでも、島津軍は死力を尽くして坂をよじ登り、梨尾山を奪い取る。

両軍の戦いは激烈を極め、死者は利光勢160名、島津軍1千名となり、「冬枯れの野草は一面に鮮血の花を着け、大筒井川、小筒井川の水は赤く染まった」と、後世に伝わっている。

特に、小筒井川の戦いは、険しい難所といわれる切岩の坂での死者が最も多かったことから、この悲惨を極めた坂は、いつしか『念仏坂』と、呼ばれようになる。



5.金井迫の返り討ち

島津軍は『念仏坂』での激戦の末、梨尾山を占領した。

「小さな山城だと思ったが、攻めにくい城だ・・・」

新納忠元は、鶴賀城を目の前にして思った。

鶴賀城は西に大野川、東を九六位(くろくい)山系に囲まれ、南北は断崖絶壁という天然の要塞である。

中世の城と言えば、名古屋城や姫路城等のように石垣や白壁を持つ城をイメージする人がほとんどであろう。

しかし、このような城は、江戸時代になって造られたものである。

それまで(正確に言うと、織田信長が安土城を築くまで)は、山城がほとんどであった。

城とは、まさに読んで字の如く、土から成るものであった。

現在、鶴賀城を見ると、樹木で覆われているため、ただの山にしか見えない。

しかし、当時は樹木がすべて伐採された裸山で、山頂に本丸があり、尾根伝いに二の丸、三の丸が設けられた城郭であった。

また、城の防御施設として、土塁(土を盛って造った防御壁)、堀切(尾根を遮断するための堀)、畝状竪堀(斜面に放射状に設けられた複数の空堀)などの遺構が、今でも残っている。

大分市内では高崎山城と並んで、この鶴賀城に山城としての遺構が多く残る。

鶴賀城を、もっと市民に知ってもらうため、中世の山城を体験できる公園として整備してもらえればと願っている。

新納は、梨尾山から鶴賀城を眺めながら、攻略方法について頭をめぐらせた。

「東から尾根伝いに三の丸、二の丸、本丸と攻めるのが正攻法であるが、兵力と時間がかかる。南に迫り出しているあの丘を獲れば、すぐに本丸にたどり着けるが、危険が大きすぎる・・・」

「さて、どう攻めるべきか・・・?」

11月16日、新納は、金井迫方面への攻撃を開始した。

金井迫は城の山裾に広がる渓谷で、その奥には、大窪と呼ばれる丘が迫り出している。

新納の号令で、島津兵は先陣を争って攻め込む。

大窪に島津兵が達しようとする時、丘に潜伏してた利光勢から鉄砲の一斉射撃が始まり、島津軍は総崩れとなる。

「退け、退け!!」

新納は、退却命令を発した。

島津兵は、我先にと逃げ出した。

「深追いするな!!」

成大寺家永、利光重助が制したが、利光勢は勢いに乗じて、島津兵を追いかける。

すると、追いかけた利光勢は、梨尾山から駆け下りた島津の伏兵に背後を遮断され、逆に包囲された。

つまり、島津の得意戦法「釣り野伏せ」にかかったのだ。

利光勢は勇敢に戦ったが、多くの犠牲者を出した。

大窪で島津勢を破った利光勢が、追い討ちをかけるうちに、金井迫で反撃を受けたことから、後世、この戦いは『金井迫の返り討ち』と呼ばれる。



6.宗魚の死

12月5日、島津家久は本陣を梨尾山に移し、全軍に一斉攻撃を命じる。

「城を守る兵は僅かである。一気に攻め落とせ!!」

東の峰ケ丘から伊集院久宣を将とする5千、南の大塔から新納忠元を将とする3千、北の利光から本庄主税を将とする2千の兵が城に攻めかかる。

家久が率いる本隊8千の兵は、遊撃隊として背後に備えた。

島津軍の猛攻撃は2日間に及び、三の丸、二の丸は落とされ、本丸を残すのみとなった。

「あれは、誰だ?」

物見やぐらの上にいる武将を指差して、家久が尋ねた。

「城主の利光宗魚でございましょう」

傍で新納が答えた。

「豊後にも、あのような武将が、まだ残っていたか・・・」

家久は宗魚が好きになると同時に、手ごわさも感じた。

本丸では、高橋左近が心配して、宗魚に声をかける。

「敵が迫っております。鉄砲の標的になりますので、降りて下さい」

「心配するな、左近。ここの方が、敵の動きが良く見えるわ・・・」

宗魚は左近の心配をよそに、やぐらの上から指示を飛ばし続けた。

本丸では、籠城している老人、女、子供も将兵と一緒になって、上から石や大木を投げて、必死に抵抗する。

家久は、土塁、堀切、畝状竪堀といった様々な防御施設を幾重にも配置している本丸を目の当たりにして、

「このままでは、無駄に兵を失うだけだ。ここは、一旦退いて、策を立て直すか・・・」

と思った。

その時、家久の横で、新納がつぶやいた。

「宗魚の長所が命取りとなりましょう」

「そうか・・・!!」

新納のつぶやきを聞いて、家久はひらめいた。

「腕の立つ者を潜ませ、宗魚を狙撃させよ」

家久は、油断している隙を狙えば、宗魚を討ち取れると思った。

「全軍退却!!」

7日の夕暮れ、家久は、全軍に引き上げを命じる。

宗魚は、物見やぐらの上に立ち、島津軍の退却を眺めていた。

「ようやく、退却し始めたか・・・」

その時、

「ズドーン!!」

と、一発の銃声が山に響き渡り、宗魚が倒れる。

「まさか・・・」

驚いた左近は、やぐらに登り、宗魚を抱え降ろした。

「そなたの言うことを聞いておれば良かったな・・・」

宗魚は、左近に申し訳なさそうに言った。

そして、嫡男の統久と弟の重助を傍に呼び、

「わしは、もうだめだ。わしの死を敵に悟られてはならぬ。重助は、わしの鎧を着て、物見やぐらに立ち続けてくれ・・・」

と、言い残し、宗魚は息絶えた。



7.宗魚の死を隠して戦う

「今夜、敵陣を奇襲し、父の仇を討つ!!」

統久は、目を赤くして怒り興奮し、梨尾山に夜襲をかけようとして飛び出した。

成大寺家永と高橋左近が、統久を制し、

「お気持ちはわかりますが、一時の感情で行動し、無駄死にすれば、誰がこの城を守るのですか?」

「もう2、3日も経てば、必ず援軍が到着します。それまでは、城主の意思を継いで城を守るのが務めと思いますが・・・」

と、説得する。

「城主の死を悟られるのは、まずい。敵兵が退却するのを喜ぶふりをして、ごまかそうではないか・・・」

宗魚の死で味方の士気が低下し、敵が勢いづくのを恐れた成大寺は、敵を欺くための宴を催すことを提案した。

「確かに、そのとおりだ」

こうして、城内では笛や鐘、太鼓が打ち鳴らされ、

「さあ、みんな、歌え、踊れ・・・」

と、宗魚の死を悟られないように陽気に振舞った。

そして翌日、物見やぐらの上には、いつもの姿があった。

「宗魚が生きている?」

この様子を見た島津軍は、皆、宗魚は無事であると思った。

「宗魚が健在なら、このまま城攻めをしても、味方の損害が多くなるだけだ。別の策を考えねば・・・」

家久が思案していると、伊集院久宣が、

「この山の地形では、城内の水が乏しいものと思われます」

と、水絶ちの策を提案した。

「すぐ、城の水源を探索し、押さえろ!!」

家久は城を遠巻きに包囲して、力攻めから城内の水絶ちに戦術を変える。

鶴賀城は山城のため、麓の谷川から水を汲んで城内に運んでいたので、水汲み場を島津軍に押えられると城内では水が乏しくなった。

苦しんだ城内では、露で喉の渇きを癒すのが精一杯であった。

「水断ちが続けば、長く持つまい・・・。何か策はないか?」

と、統久が長老の成大寺家永に聞いた。

家永は、しばらく考えて、

「大永7(1527)年、栂牟礼城(とがむれじょう)の籠城戦で、米を水に見せかけて馬にかけた話を聞いたことがあります」

と、答えた。

「よし、やってみる価値がありそうだ・・・」

統久は、島津の本陣から見える位置に馬を出して、籠城のため蓄えていた米をその上から流して見せた。

これを遠くから眺めていた家久は、城内には馬を洗うほど水が豊富だと思い込み、水絶ちを諦めたという。

城を包囲し、様子を伺っている家久の元に、大友義統が率いる援軍が鶴賀城に向っているとの報告が届く。

「援軍が来る前に、なんとしても落とさねば・・・」

と、全軍に再度の総攻撃の命令を出した。

攻撃は12月11日まで続いたが、城兵の必死の守りで、持ちこたえていた。

その翌日、島津軍の攻撃から1ヶ月になろうとした時、対岸の竹中に味方の援軍が見えた。

「これで、助かる・・・」

と思った城内は、活気を取り戻し、喜んだ。

この時、眼下で展開されようとしていた戸次川の悲劇を知る者は、誰もいなかった。



作成 2010年3月20日 水方理茂
第1回改訂 2013年7月28日 水方理茂

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