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11.大友宗麟はキリシタン大名ではない!!

 大友宗麟は有馬晴信、高山右近、小西行長と並んで、代表的なキリシタン大名として知られている。しかし、正確に言うと、宗麟はキリシタン大名ではない。宗麟がキリシタンになったのは、家督を嫡男の義統に譲って、隠居してからのことである。従って、キリシタンになった宗麟は隠居の身であり、大名ではない。
 宗麟(義鎮)は領主として君臨している間、仏教を信奉していた。そもそも、宗麟とは、義鎮が仏教に入道してからの法名である。義鎮のキリシタン洗礼名がドン・フランシスコなので、大友フランシスコ(府蘭)がキリシタン大名なら理解できるが、法名を名乗る宗麟がキリシタン大名として知られるのは妙な話である。
 宗麟はキリスト教に入信する直前、「22歳でザビエル神父の教えを聴いてから49歳になる27年間、キリシタンの教えは良いものだと、心の中で認めていたが、領主として領国をまとめるために仏教の奥義を究める努力をしてからと思っていた・・・」と、ジョアン修道士に語っている。
 では、この27年間、宗麟はどうしていたのか、略歴をみてみよう。
 

 <大友宗麟の略歴>

 ・天文19(1550)年  二階崩れの変を経て、大友氏の家督を継ぐ(21歳)

 ・天文20(1551)年  府内でザビエルと面会し、キリスト教に惹かれる(22歳)

 ・天文21(1552)年  領内でのキリスト教布教を許可する(23歳)

 ・弘治元 (1555)年  アルメイダが府内に育児院を設立(26歳)

 ・弘治 2(1556)年  京都大徳寺に瑞峰院建立を寄進(27歳)

 ・永禄 2(1559)年  九州探題に任じられる(30歳)

 ・永禄 5(1562)年  入道し、『宗麟』と号す(33歳)

 ・天正 4(1576)年  家督を嫡男の義統に譲る(47歳)

 ・天正 6(1578)年  キリスト教に入信する(洗礼名:ドン・フランシスコ)

               日向の耳川合戦で島津軍に大敗する(49歳)

 ・天正10(1582)年  遣欧少年使節が長崎を出発(53歳)

 ・天正14(1586)年  島津軍が豊後に侵攻する

               丹生島(臼杵)城に籠って島津軍と戦う(57歳)

 ・天正15(1587)年  秀吉の大軍が九州に上陸し、島津軍が撤退

               津久見にて病死する(58歳)

 宗麟は家督を継いだ翌年、フランシスコ・ザビエルを府内に招き、キリスト教の教えを聴いた。キリスト教に惹かれた宗麟は、ポルトガル宣教師を保護し、布教の援助をする。その結果、領内でのキリシタン信者が増加していく。しかし、宗麟本人は仏教(臨済宗)の教理を究めようとして寺院を建て、京都から学僧を招き、禅の道を究めようとした。そして、33歳の時に入道し、休庵宗麟と号する。
 47歳で家督を譲り、領主の責任から解放された宗麟は、日向(宮崎県)の地に理想のキリシタン王国をつくることを夢見て、若い頃からの夢であったキリスト教に入信する。 しかし、日向の耳川合戦で島津軍に大敗し、宗麟の夢は破れ、大友氏は衰退していく。


(2015年10月23日作成)



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