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オタクのミニ歴史講座

7.終戦に活躍した大分県人

  太平洋戦争末期、連合国が日本に降伏を進める「ポツダム宣言受諾」を決めた御前会議の構成メンバー6人中3人が大分県人であったことを知る人は少ない。阿南惟幾(これちか)陸相は竹田市、梅津美治郎(よしじろう)参謀総長は中津市、豊田副武(そえむ)軍令部総長は杵築市の出身である。さらに、戦艦ミズーリで行われた降伏文書調印式において、梅津と共に日本全権として署名を行ったのが杵築市出身(豊後大野市生まれ)で外相の重光葵(まもる)である。
 ポツダム宣言受諾をめぐる会議で、陸相の阿南大将は終始「本土決戦」を主張している。陸軍では降伏に反対する将校らによるクーデター計画があったが、「行動する時は、全軍一致」を強調する阿南に対する信頼で暴発が抑えられていた。御前会議で「自分の身はどうなってもよいから、国民の命を助けたい」という陛下の御言葉により、ポツダム宣言受諾が決定された。これには、軍部から不満が出たが、阿南は「御聖断に反対する者は、阿南を斬ってからやれ!」と、軽挙を戒めたという。
 昭和20年8月15日、玉音放送によってポツダム宣言受諾が伝えられた。同時に陸軍は阿南の割腹自殺を知らされる。武士道の作法に倣っての切腹は、「力及ばず、申し訳ない。死をもって詫びるので、皆も御聖断に従ってくれ」という必死の訴えであった。阿南の自刃は軍人の心を動かし、戦争継続体勢の陸軍は、一気に戦争終結に向かう。
 「切腹なんて、野蛮だ!」と、思われるかもしれないが、責任の取れない現代の指導者と比べると、軍人として立派な責任の取り方を示したものと思える。当時の状況を考えると、言葉による説得は無理であり、何らかの行動で示す必要があったのだ。阿南の一命を賭した行動が無ければ、そのまま本土決戦に突入したであろう。そうなれば、民間人を含めた犠牲者が更に拡大し、ソ連、中国、アメリカによる分割統治の可能性があった。


(2014年4月20日作成)



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