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5.江戸時代の豊後は小藩分立か?

 最近、あまり聞かれないが、大分県人の気質として「豊後の赤猫根性」という言葉がよく使われていた。「赤猫根性」とは、あまり褒められた言葉ではなく、個人主義で協調性に乏しく、人の幸福をねたむという気質らしい。似たような言葉として、「隣の家に蔵が立つと腹が立つ」というのがある。こうした県民性は、徳川幕藩体制による小藩分立が原因と言われているが、どうであろうか?
 江戸時代の豊後は、7つの藩と幕府の天領、他藩の飛び地が村落ごとに散在して、おのおの村民が半目し合いながら生活していたといわれる。平松守彦前知事の提唱で始められた「一村一品運動」は、この大分県民の気質を逆手にとって進められたと聞いたことがある。
 江戸時代、全国に270の藩が存在し、そのベスト3は加賀藩(前田家)100万石、薩摩藩(島津家)70万石、仙台藩(伊達家)60万石の順となっているが、20万石以上の大名家は22藩しかなく、5万石未満の小大名がほとんどであった。九州には外様の藩が多く、薩摩の島津家、肥後の細川家、筑前の黒田家、佐賀の鍋島家などの大藩があるので、豊後は小藩の集まりのように見える。ところが、全国的に見れば、多くの国が小藩分立なのである。
 徳川幕府は、大きな領地を持つ外様大名には幕府の要職を与えず、要職を務める譜代大名には領地を与えなかった。つまり、富と権力が集中しないような工夫がなされていた。

<補足:豊後7藩の石高>
岡藩(7万石)、臼杵藩(5万石)、杵築藩(3.2万石)、日出藩(2.5万石)、府内藩(2.1万石)、佐伯藩(2万石)、森藩(1.2万石)


(2014年4月12日作成)


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