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オタクのミニ歴史講座
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3.西本願寺と東本願寺の違いは?
親鸞(しんらん)によって広められた浄土真宗は、戦国時代に一向宗と呼ばれ、各地で一揆を繰り広げたことで知られる。特に、11世宗主の顕如(けんにょ)と織田信長の間で繰り広げられた石山本願寺(現在の大阪城がある場所)の戦いは、歴史小説や、ドラマに多く取り上げられている。
顕如が亡くなると長男の教如(きょうにょ)が跡を継いだが、末子の准如(じゅんにょ)が「自分こそ正統な後継者である遺言状がある」と、秀吉に裁定を求める事件が起きる。秀吉は遺言状を認め、准如に宗主の座を譲るように求めたので、教如は引退せざるをえなかった。秀吉にしてみれば、石山合戦で、最後まで徹底抗戦を唱えた教如の勢力を恐れ、なんとか排除したい思いがあったのだろう。
ところが、秀吉が亡くなり家康の天下になると、教如が家康の援助を受けて、准如が建てた本願寺のすぐ近くに新たな本願寺を建てた。この時から本願寺という巨大組織が、二つに割れることになる。これは、本願寺が強大化するのを恐れた家康の分断工作でもあるといわれる。
准如の「豊臣系」本願寺を西本願寺、教如の「徳川系」本願寺を東本願寺と呼んでいるが、それは、その立地場所から付けられた名称であって、正式には両方とも本願寺である。もともと同じ一向宗(浄土真宗)であったものが、今では浄土真宗本願寺派(西本願寺)、浄土真宗大谷派(東本願寺)の本山となっている。
(2014年3月29日作成)
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