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オタクのミニ歴史講座
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2.改易後の大友氏はどうなった?
大友氏は22代義統(よしむね、宗麟の息子)の時、豊臣秀吉によって豊後を改易される。秀吉の死後、義統は大友氏の再興を賭けて関ケ原の戦いで西軍として戦うが、石垣原で敗れ配流となる。嫡子義乗(よしのり)は、徳川家康に預けられていたので連座させられることなく、大身旗本として取り立てられるが、その子義親(よしちか)に跡継ぎがなく断絶となる。
また、義統のもう一人の息子である正照(まさてる)は大友氏の名を捨て、松野氏を名乗り肥後熊本藩(細川氏)に仕えた。松野とは、「彼の人は時節をまつの人也」と周囲が言い囃(はや)したことから、この苗字を思いついたという。
その後、断絶していた大友氏は、正照の三男義孝(よしたか)を養子として再興し、「高家」として明治時代まで続いた。高家は老中に属し、大名に準ずる地位を与えられ、幕府の儀式典礼をつかさどる職名で、武田氏、畠山氏、吉良氏などの、鎌倉以来の名門が世襲するものとされていた。
(2014年3月23日作成)
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