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10.戦の時、領民はどこに逃げたか?

 ポルトガル宣教師、ルイス・フロイスが書いた「日本史」には、戦国時代の領民の様子が詳しく書かれている。その中に、戦が始まると領民は領主の城(山城)に逃げ込み、領主とともに籠っていたことが記述されている。
 なぜ、城に籠るかというと、攻めこんできた大名や戦いに勝った大名は、その土地の領民を奴隷や労働力として使うために拉致し、自分の国に連れ去っていた。中には、奴隷として海外に売り飛ばされる者もいた。だから、領民は戦いが始まれば、城に逃げ込むし、領主も貴重な労働力である領民を奪われないために城に受け入れて守った。
 戦国時代には、そうした「領民連れ去り」の習慣が日常的にあり、乱妨取り(らんぼうどり)、略して「乱取り(らんどり)」と呼ばれた。兵士は戦場付近の村を襲い農作物を奪い、女、子供をさらって、売り払うか奴隷にした。大名もそれら乱暴狼藉を黙認し、褒美として自由に「乱取り」させていた。
 島津軍が豊後に侵入した時、多くの領民(特に婦人、少年、少女)が拉致され、肥後に連行された。その中には、島原半島から東南アジア各地に奴隷として売られる者もいたという。
 織田、豊臣の軍隊は、早くから兵農分離が進み、軍律がきびしかったこともあり、他の大名に比べ、「乱取り」が報告されている例が少ない。秀吉は九州征伐で、多くの日本人が海外に売り飛ばされている惨状を目の当たりにし、奴隷売買の禁止令を出した。そして、島津兵によって連れ去られた豊後の領民を元の土地に戻すように命じている。


(2014年6月22日作成)



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