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1.石高について

 大名の大きさを表すのに石高が使われている。石高は米の生産量を表す単位で、1石は人が1年間に食べる量とされる。例えば、加賀100万石では、100万人を養えるということになる。ちなみに、動員できる兵力としては、石高の3〜5%とすると3〜5万人になる。
 また、土地の広さを表す単位には坪(つぼ)、反(たん)がある。人が1日に食べる米を作る土地の広さが1坪で、1年間に食べる米を作る土地の広さが1反といわれている。従って、1年を約360日として考えると、1反=360坪となる。これは律令で決められたものであるが、その後、太閤検地によって、米の生産性が向上したことなどを理由に、1反は300坪に改定される。
 石の下の単位には斗、升、合がある。斗は一斗樽、升は一升瓶、合は五合桝など現在でも使われている。一石=10斗=100升=1000合として計算すると、人が1日に米を食べる量は約3合となり、妥当な値であることがわかる。
 太閤検地(戦国時代末期)によると、豊後の石高は41万石あったとされる。これは西国(九州、四国、中国地方)一の石高で、全国60余州(国)の中でもベスト10に入る。つまり、大友宗麟の時代には、豊後が西国で最も豊かな国であったといえる。
 ところが、明治5年の調査では九州の中でも5番目になり、増加の割合も、他の国が2倍以上あるのに比べ、わずか1.1倍の最低となっている。戦国時代までの水田は溜池などによる灌漑が主流であったが、江戸時代になり大規模な河川灌漑が主流になってくると、平野の少ない豊後の新田開発は遅れていったのだろう。


(2014年3月16日作成)



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