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吉賀会員のヒリシャンカの記録がワールドフェイマスに(2005.12.31)
 おゆぴにすと編集作業の仕事納めを終えた直後に、吉賀会員から息せき切った様子で慌ただしく以下のメールが届いた。何でもヒリシャンカの記録が世界的な山岳雑誌に紹介されたらしい。もちろん、おゆぴにすとHP中の彼の力作が、その方面の関係者の眼に留まったことがきっかけであることは確かなのだ。我々おゆぴにすとは、吉賀のヒリシャンカの山行の価値は充分過ぎるくらい理解している。しかし25年の長きに渡り、その価値が3000枚のスライドとともに埋もれてしまっていた。おゆぴにすとHPの立ち上げがきっかけで一念発起した吉賀が仕事そっちのけで1年間かけてまとめた大作が、ここにきてやっと日の目を見ることになった。喜ばしいことだ。還暦を前にして8600mまで登った大平会員といい、著名なアルピニストがおゆぴにすと仲間であることを誇りに思いますぞ!以下、吉賀会員のメールと添付ファイル。皆さん改めてヒリシャンカの記事‘遙かなるアンデス’を読み返しましょう。

「アンデス・ワイワッシュ山群のガイドブックがカナダから届きました。これは2年ほど前、栗秋正寿君が「ワイワッシュのガイドブックを作成中の編集者がヒリシャンカ南東壁を登った日本人クライマーを探している。」と連絡してきたことがありました。そのガイドブックが発刊されました。ワイワッシュ山群の山、ほとんどのルートが網羅されています。山を登る際、大変役立つ本だと思います。文章はEnglishなので小生には読むことができませんが・・・・。」(2005.12.31)

            


おゆぴにすとHPアクセス5万回
(2005.12.29)
 
12月2日午前6時02分、ついに我が山のいで湯愛好会の機関誌、“おゆぴにすと”ホームページがアクセスカウント5万回を刻んだ。平成14年2月1日に立ち上げて3年と10ケ月余り、都合1400日で一応の節目を迎えた訳だが、会員はもとより年々読者層の広まりもあってか、徐々に日別のアクセスカウントも漸増傾向を辿った上での結果となろう。

          

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おゆぴにすと”HPのアクセス5万回達成!によせて 〜その変遷、或いはつれづれの記〜

おゆぴにすとの忘年会は雪の隠れ家がよく似合うの巻

高瀬会員の長女・菜美子嬢、県体山岳部門に出場
(2005.9.21追加

 
三人娘の中で唯一、山岳&トライアスロンのDNAを受け継いだ菜美子嬢、最近はトライアスロンよりも‘山’への比重が高まり、とうとう県体(大分県民体育大会)に出場。父親譲りの根性と足腰で上位入賞を果たした。以下は会友・田口氏からの情報。

 「今日19日に2泊3日の大分県体山岳競技が終了しました。高瀬菜美子さんの所属する大分市チームは、「男子1位、女子は3位で、総合1位」となりました。なお以前、大分市が総合1位となったのは平成13年でした。写真は表彰式の様子。山での競争はきつかったそうです。田口」
    
          


大分市内某所で暑気払い&ご先祖様の夕べを開催 !(2005.9.21追加
 「8月14日18時から大分市内で暑気払いと、ご先祖様供養の飲み会を計画しています。今のところ、高瀬、栗秋(博多から)、鈴木(埼玉から)、それに私・挾間の4名です。会場は「月の宴」 都町はワシントンビルの次の北側の通り。急な話なのでご無理は申しませんが、もしお暇で参加希望がありましたらご一報下さい。」

 と編集長から投げられた案内は、やっぱり急だったので、上記4名のみのやや寂しい邂逅となった。思えばこのメンバーでの再会は95年11月の「あぁ、徳本峠!」以来なので、二昔も前、10年ぶりということになったが、この山行も昨日のことのように扱われていたように思う。ということはとりもなおさず4名とも老人性の遠近記憶取り違え症候群に陥っていたことになろうが、全員知命に達した今が、公私ともに人生の重要な分岐点に差し掛かっていることに間違いはなかろう。ならば老後の拠点、家族のこと、自分自身の行く末など悩み多き話題も当然有り得る訳で、ある意味湿っぽさも必要な筈。しかしこの表情は何にも考えていないようにも見受けられるし、まぁホント何にも考えていなかったと出席者の一人として断言できようぞ。あぁ(再会までの)空白の10年、我々に進歩はあったのか?を問われた会合でもあった。

                                                           

祝・ヒンズークシ遠征コー・イ・モンディ峰登頂40周年記念の集い(2005.7.5追加) → 当日の速記録と写真集

 7月3日は、ちょうど40年前大分県からヒンズークシに遠征隊を送り出し、コー・イ・モンディ峰に初登頂を果たした記念の日です。梅木秀徳さんをはじめ、当時の遠征隊員4名と、その後に発足した大分登高会ゆかりのメンバー、それに大分県山岳連盟からの来賓・首藤宏史会長と甲斐一郎氏など計25名が、大分センチュリーホテルに集い、貴重な8ミリ映像記録に見入り、当時を懐かしみ旧交を温めました。

 この日はまた、最年長の梅木秀徳さん(71歳)の現役引退の慰労が目論まれており、花束を受け取った梅木さん「仕事は第一線から退きますが、これからが本当の登山人生と考えています。すでに2,3年先までの計画が出来ています」と意気軒昂でした。後日詳報します(2005.7.3)。

          
         遠征隊員らを囲んで記念撮影(画像をクリックすると拡大します)

 翌7月4日の朝刊には、大分合同新聞に以下のとおりタイムリーな記事が掲載されました。(2005.7.5、まことに勝手ながら関係者の強い希望もあり記事を借用させて頂きました。)

以下の文面は大分合同新聞ホームページより無断借用(盗用じゃありませんぞ)

ヒンズークシ山脈登頂に成功 40年ぶり記念の集い

登頂に使ったピッケルを囲む(左から)梅木さん、江藤さん、姫野さん、加藤さん

 一九六五年、アフガニスタンにあるヒンズークシ山脈中部の高峰コー・イ・モンディ(六、二四八b)に日本人として初登頂した「大分ヒンズークシ遠征登山隊」のメンバーらが、登頂日の七月三日、四十年ぶりに記念の集いを大分市内で開いた。大分の山岳界にとって、その後のヒマラヤ登山のきっかけとなった先駆的な登山隊。六十―七十代になったメンバーらは、当時の記録フィルムを見ながら、誇りと思い出をかみしめた。

 当時、ヒンズークシ山脈中部地域は六〇年代初めにドイツ隊が訪れただけで、日本隊にとっては未踏の地だった。遠征隊は矢野真隊長=当時(40)・故人=ら六人編成。六五年六月にアフガニスタン入りしてキャラバンを続け、七月三日午後一時十分に西諒さん(72)=別府市=、梅木秀徳さん(71)=大分市=、江藤幸夫さん(61)=東京都=の三隊員がコー・イ・モンディの登頂に成功した。登山隊は同年十一月、大分合同新聞文化賞特別功労賞を受賞した。


 大分市内のホテルで開いた記念の集いには、隊員六人のうち梅木さん、江藤さん、姫野和記さん(64)=大分市=、加藤英彦さん(63)=同=の四人のほか、遠征を機に発足した大分登高会のメンバーら計二十五人が集まった。


 会場では遠征の様子を記録した8_カラーフィルム(約一時間・無音声)を上映し、記録写真を展示した。アフガニスタンは七九年の旧ソ連の軍事介入、九六年のタリバンの首都制圧などによる混乱が続いた。しかし、遠征当時のフィルムや写真には、車が行き交う活気ある町並み、民族衣装をまとった女性や子どもたちの笑顔、平和そうに暮らす人々が映っていた。


 梅木さんは「当時のカブールは治安も良く、まさに美しき王国の都だった」と話した。


 登頂した午後一時十分に、全員で万歳を三唱。江藤さんは「六〇年代は現地の情報がなかなか手に入らない時代。その後もヒマラヤに挑戦してきたが、ヒンズークシ遠征が一番苦労が多く思い出深い」と振り返った。


 三人の登頂をサポートした姫野さんや加藤さんも「登頂はできなかったが、登山隊の一員だったのが誇り」と胸を張った。

祝・長女・純子の結婚式で栗秋会員は気丈に、誰?うるうるしたのは!(2005.6.21追加)
 栗秋和彦・悦子夫妻の長女・純子ちゃんの結婚式が、去る6月19日に小倉にて挙行。おゆぴにすとを代表して挟間&高瀬会員が駆けつけ、「父の友人」として見届け役を果たした。何しろ我々おゆぴにすと仲間では、どの子であろうと、ガキの頃から一緒に山のいで湯にお供してもらった、立派な「会友」なのだから。特に夏のひぜん湯ファミリーキャンプや恒例の別府は楽々園でのファミリー忘年会などの記憶を辿ると、あのおませな純ちゃんがこんなになったのか!などと月日の経過に、いまさらながら驚いたり(挟間会員)、最後の両親へのメッセージでは、自分の娘たちと重ね合わせてうるうると涙したり(高瀬会員)と、おじさんたちの思い入れは、遠くいにしえまで行きつ戻りつゆらゆらと駆け巡った。    

一方、「娘を嫁にやる親の気持ちがわかった」といつになくしんみりした口調の栗秋だったが、最後まで涙せず気丈だったと吹聴するあたりは、いつもの頑固さは健在であったね。 

で、栗秋の胸中を察するに、「娘からのメッセージの時は照明を暗くしてもらって助かった。やっぱり父・娘ともども、日頃思いは沢山ありながら、お互い口に出せずにいて、その実よく分かっているんだなぁ」と呟いたことは想像に難くなかろう。それにしてもやはり女は強いヨ。(新郎に比べて)すべてにおいて余裕があったもんね。

   
     「親父がいつ、‘うるうる’になるか見極めたい」と息子・寿彦。ホントは感極まった
      シチュエーションだったのだけれども、照明に助けられた。


           
         幼少の頃から、会長や父親に‘おゆぴにずむ’の薫陶を受けた・・・。
               (写真左:純ちゃん、坊ヶつる・あせび小屋にて)

祝・塩月会員、大分百山全山完登(2005.5.8追加)
 
かねてより大分百山完登をめざしていた当会会員・塩月靖浩君(写真中央)が去る4月29日、大分百山最後の山・木山内岳(1401.2m)をもって、その全てを登ることとなった。
 当日は好天に恵まれ、アケボノツツジの満開の中、29名の山仲間と山頂を踏みしめ、盛大なる万歳の祝福を受け、感激に浸る一時となった(写真と文:加藤会長)。

  
  

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