ヒンズークシ40周年記念の集い速記録

加藤(11:00)

 11時になりましたので、まだ4名ほど見えてませんが、開会させて頂きます。ヒンズークシ登頂40周年記念ということでご案内しましたところ、かくも多数の方々の出席を頂き有り難うございました。本日の司会進行を致します加藤でございます。今日のご案内は当時の関係者27名に案内を出しまして2名をのぞきご返事を頂いております。
             

 今日はまず40年前のヒンズークシ遠征隊を代表して梅木さんから挨拶を頂いた後、来賓の方々にお祝辞をたまわったあと、ヒンズークシ遠征の8ミリ映像約1時間をご覧いただきます。40年前の姿が甦って参ります。そののちに食事ということで会食の間に皆さんにひと言ずつ思い出なり、近況を話して頂き、そして1時10分の登頂の時間に万歳を三唱して第三部に移って頂きます。2時頃終了予定です。では最初に梅木さん、ご挨拶をよろしくお願いします。

梅木
 皆さんこんにちは。本当に今日は久しぶりにお見かけするお顔の方も多くてですね、後で自己紹介してもらいたいと思いますが、本当に40年という歳月は長いものでございます。その当時青春を謳歌していた人が還暦世代となっているわけですねえ・・・、私なんか還暦を通り越して古希を迎えたわけですが、この6月末で会社の方も辞めました。一応、会長職として非常勤ではありますが席は残していますけど、50年ぶりにネクタイをしなくてよい生活となりました。まっ、今日はしてますけど・・・。

 今日は当時関係のありました皆様方、大分登高会にとりましても、私共が帰国して発足しました大分登高会にとりましても40周年ということになろうかと思います。それで、えー、当時の大分ヒマラヤ研究会、そして日本山岳会大分支部、当時は大分支部と呼んでましたけども、大分支部で派遣しましたヒンズークシの方は、まあいろいろなことがありました。出発までにすったもんだがありましたけど、まあクリア致しましてヒンズークシに登頂したのが40年前の今日、ということでございます。

 登高会の発足の後、首藤先生、甲斐先生に大変お世話になりました。今日はそれでご来賓として特別に出席して頂いております。あらためて感謝申し上げます。有り難うございます。

 今日は、写真を見て、まあ、まずいフィルムではありますけど見て頂き、昔を懐かしんで頂きたいと思います。本日はどうも有り難うございました。

加藤
 今日という日を選んだのは、コー・イ・モンディ6248mに今日の午後1時10分、まあ日本時間ですけど(これは多分カブール時間の言い間違いか?)、登頂したということでまさにその日、今日の日を選ばせて頂きました。

 それでは、佐藤さん、今遅れて駆けつけて頂きましたので、矢野先生の遺影を持参されておりますので、黙とうの時間を取らさせて頂きます。

   (当時の遠征隊の隊長であった故・矢野真氏の遺影が司会者のテーブルに置かれ、それに    向かって1分間の黙とう)

矢野夫人のメッセージ(加藤代読)
 皆様ご無沙汰しております。ヒンズークシ登頂40周年まことにおめでとうございます。あらためて感謝とお慶びを申し上げます。矢野真の家内でございます。日頃のご無沙汰をお許し下さいませ。今日の集まりが穏やかに楽しく盛会に終わることを願っております。真が生きておりましたら80歳になります。おいしいお酒を酌み交わしながら楽しく過ごして居られる皆様のお姿を天国からニコニコしながら眺めていることと存じます。

 今日のご案内にご返事も差し上げず本当に失礼を致しました。私ごとでございますが、数年来私は在宅看護の治療を受けておりますが、昨年暮れ頃から体調が悪く、今年2月からしばらく入院しておりました。退院後もはかばかしくなくて、独り暮らしを察して東京から息子が迎えに来ました。今日は息子の家で養生をしております。あれやこれやで大切なご案内を見失ってしまったのでしょうが、まったく記憶がなく本当に申し訳ございません。拝見したと致しましてもとっても出席できませんが、それなりのご返事は差し上げるべきでしたのに、どうぞ失礼をお許し下さい。40年前の感動を思い出しながら楽しい会と皆様のご健康を心よりお祈り申し上げます。2005年7月2日 

(加藤:昨日、FAXで頂きました。有り難うございました。それではもうひと方ご祝辞をたまわりたいと存じます。)

首藤大分県山岳連盟会長祝
 えーっとあのー、今山岳連盟の会長をしております首藤と申します。当時、まあ、いわゆる登山ブームの頃だったと思うんですけれども、まあ、日本がマナスルに登った後、えー、いくつかの会が海外に登頂するといった中で、ヒンズークシに登頂するのは大分県では初めてでした。インターハイ、国体の開催をひかえバタバタしていた頃ですけども見事に登頂されたというニュースが大きく出ていたことを覚えております。

 えー、その当時、海外に出るということは非常にこう大きなマネジメントが必要でありまして、大変ご苦労されたと思うんですね。で、ヒンズークシの前に台湾にも行かれてますけど、これも結構手続きが大変でした。そういう中で見事に登頂されて成功をおさめたということは、その当時大分県の山岳界にあっても喜ばしい出来事であったと思います。

 その後いろんな方々が海外に出かけられるようになってですね、登れるようになりましたし、その当時海外登山を経験されたということは、本当に貴重なことだったと思っております。あわせてそれから大分登高会も発足しまして私達もいろいろとご指導頂いてここに至っているわけであります。特に梅木さんにはまあいろいろ岳連のこともお世話頂きまして感謝しているところでございます。

 今日は昔を懐かしんで皆さんと一緒に歓談できればいいなと思っております。本当におめでとうございます。

(加藤:それではまだいろんな方に言葉を頂きたいのでございますが、8ミリの映写を約1時間したいと思います。) 

        約53分3本の8ミリ映像に見入る。その後第二部の宴会となり会食しながら途中、参加者全員にひと言近況報告ということで、マイクがふられる。

江藤(東京から)
 皆さんお久しぶりで懐かしい顔の方々ばかりで出会えて嬉しく思います。当時の隊の最年少だったのですが、いまだに最年少です。ヒンズークシの頃はまだ子供で、今でも子供みたいなものですけどね、みんなに迷惑のかけっぱなしでした。何にもわけわからなくってですね。でも、ヒンズークシをきっかけにその後‘病膏肓に入る’でいろんな山に登りましたが、しかし、その後登った山を飛び越えてヒンズークシは大きなものがあります。あの時お世話になった皆さん方にあらためてお礼を申し上げたい。どうも有り難うございました。
(司会:江藤さんは今東京に居られて今回の行事のためにわざわざ駆けつけてもらいました。6人のうちの一人ですから当然お見えになるとは思っていましたけど、本当に有り難うございました。続きましてもうひと方遠方浜松からの松田さんよろしく)

松田(浜松から)
 えー40周年おめでとうございます。えー、僕は40年前の3月に、当時ある方の紹介でサニー山の店をたずねました。すると店にえらの張ったおっさんが居てですね、「今、ヒンズークシの準備に忙しいんだ。入会は帰ってからにしてくれ」とウエイティングさせられまして、ヒンズークシの手伝いをさせられまして、9月から登高会ができると「お前、会に入れ!」ということで、大分の人生が続いております。

 以来、故郷・鹿児島を捨てて大分の方が、人生が長くなりました。今日は、六十以後の人生を相談したく浜松から参加させてもらいました。本当に懐かしい顔ぶれに今日会えて、ほんとうに嬉しく思っています。今日は有り難うございました。

西
 皆さんお久しぶりでございます。私は大変顔(多分「人」の言い間違いか?)見知りをする性格ですので、こういうところで挨拶するのは下手でございます。思い出しますと穂高が零歳、梓が四歳でございます。

 大分の駅で、あずさが元気がいいので私は学校の先生をしておりましたので子供を実家にあずけ、隊員と一緒に大分駅に送った記憶があります。そういう時の心にる涙は一生忘れられないものです。

 そして帰ってきました時に、元主人は肝硬変になっていまして、あと1か月の命だといわれました。それで、1か月をいかに過ごすかというので、うちの近くの山田医院に行きましたら非常に手当が良くて健康になりまして、その後元気に山に登れるようになりました。実を言いますと今日は私が誘ってみようかと思ったけど本人の自主性を大事に致しましたので、私が影の人間としてここに居ります。

 皆様の努力は、もう用意をする時からいろんなことで・・・、日田から矢野先生が見えますと二人でケンカするのをじーっと聞いておりました。もうお金のことばかりでした。毎日毎日のことで・・・。この町内の一軒一軒から千円ずついただいております。その時の千円は今の一万円の価値があるのではないかと思います。それで皆さんがヒンズークシに行けたということは、一人健康で行けたのではなく大分県民の力で行けたのだと今も思っています。

 ヒンズークシに初めて登ったのは今西先生の勤めておられた岐阜大でございます。そして今西先生を知ったのもその年で、それから亡くなるまで今西先生には大変お世話になりました。

 それで(着ている赤いシャツを指さして)ヒンズークシというところの隣で買いました。あなた達隊員が空港に降り立った時に空港で迎えた時のシャツを今日は着ています。もっとドレスアップすれば良かったけど、11時開会と聞いて慌てたものですから・・・。

 梓は誕生日が来れば45歳、長男・穂高は41歳でございます。そういう40年間の、走馬燈のように過ごした日々が私の涙でございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

(加藤:はい、有り難うございました。えー冒頭ご説明しましたように、今日のご案内をしましたところ返事のない方が2名いましたが1名は今のお話の中に出た方でおそらく想像がつくと思います。もう一名も別府の方です。)

五島
 どうも皆さん、こんにちは。声をかけていただきまして感激してます。皆さんと出会ったのは1959年頃で、それまで学生時代は姫野さんと二人で登りながら、西さんのところに足を運んでいました。山登りってカネがかかるけども楽しいなあ、という雰囲気をもちながらやっていました。ヒンズークシの前61年に研究会が出来た頃から4〜5年間くらいお付き合いをさせてもらいました。メンバーが全国の厳しい山を登る訓練があり、その中で氷ノ山だとか富士山とか足手まといになりながら自分の青春の夢を追いかけた。ヒンズークシ遠征のちょうど一年前に県職員として採用になり、「お前、行くのか?それだったら辞表を書け」という話で、梅木さんにも県の人事課にかけ合ったりしてもらいましたけど・・・。職業を捨て切れなかった。しかし、青春時代の大きな印です。

 今、退職して社会福祉法人青い山21で障害を持つ子供達24名と花をつくっています。本当に今日は昔に帰らせて頂きました。有り難うございました。

丹生
 皆さん、こんにちは。丹生でございます。私は山登りを始めた頃はあまり好きではなかったのですが、高校の先輩でもありテニスの先輩の矢野さんなどと一緒に登り鍛われているうちに面白さを知りました。そこにアルバムがありますが、その1ページの由布岳早登り大会・・・「あー懐かしいな」と思い、あの頃は由布岳の麓に松の木が5〜6本あったような記憶がある。確か記録を持っていると思う。1時間を切った覚えがある。まだ破られちょらんと思う。それ以降、スキーしたり山登りしたり・・・、あっそう言えば大山に山登りに行った時一人遭難し、佐藤さん、あんたやなかったかなあー?もう一人亡くなった方が居た。そして次の年追悼登山を行い、1日ビバークして帰ったら、女房と婚約の時で、女房の親から「山登り止めてくれんかなあ」と言われ、「困ったのう、女房と結婚せにゃわりいけど、山登りもしてえけど」と思いよって結局その後スキーや余裕のある山登りに方向転換してしまいました。

 今、中学校の女子テニスを教えている。それから去年久しぶりに立山アルペンルート・・・(「短く、短く」と傍らから声)にも行きました。有り難うございました。

佐藤(和)
 40年前といいますと僕は高校の2年でした。それから5年後にサニースポーツに行ったのが入会のきっかけとなりました。丹生さんの話にもありましたけど、僕も貴重な体験をしまして大山合宿で雪崩に遭い○○・・・今はもう、1年に数えるほど、4〜5回程度、(傍らの吉賀が「えっ、そんなに行ってるの?俺は20年行ってねえよ」そのあとはガヤガヤで聞き取れず)

(佐藤君の時は何故か冷やかしが多かったのかざわついて特に聞き取れませんでした。コメントも短かったけど。なお、ついでながら佐藤和彦さんは昨年会社を定年退職し、次の就職先までの間隙を利用して後立山鹿島槍山荘で、昔からの念願であった山小屋のアルバイトをした。当初、1か月程度を予定していたけど体調を崩して1週間でやめたそうです。朝から夜九時の消灯まで、仕事か寝るかの毎日だったけど、経験して良かった、と言ってました。)

栗秋
 (「はい、安全運行!」とヤジ)栗秋と申します。1965年当時中学一年の僕はこの遠征のことをまったく知りませんでした。昭和48年11月だったと思いますけども大分登高会の門をたたきまして、以来おつきあいさせてもらっています。最近は大分山のいで湯愛好会に所属して(「なんじゃそりゃー?軟弱な」「軟弱な!」とヤジ)楽しく山に登って温泉に浸ったりで、まつこれも生涯山に登るという流れの中で、時にいろいろ身体を鍛えるようなこともして体力維持に努めています。もしよろしかったら、ここに狭間というのも居りますけども一緒にホームページをつくっておりまして、日々更新をしておりますので、是非覗いて下さい。

(高瀬夫妻、一緒にマイクに)
高瀬
 ただいまご紹介をいただきました高瀬夫妻でございます。加藤さんに紹介して頂きましたように、私達、登高会では二組目の、一番最初は確か別府の矢野さん、三組目は臼杵にいらっしゃいました桂さん、大分登高会には三組のカップルができました。私共は結婚して30年、孫も生まれ、何とか山登りを続けながら、子供にも恵まれながら、まあ一応女房共々山登りの人生を続けております。
高瀬(旧姓・安部)
 ちょっとひと言、主人よりも私の方がですね入会が早く頑張ってたんですよ。私が会社に入った時ね電話帳で探し当て‘大分登高会’の名前がすごくいいってことでひかれてサニーを尋ねたんですよ。話したらそのまま即入会となった。その後、主人とも知り合えた。西さんには感謝しております。今日はお会いできなかったのがさみしい。今後とも二人共々よろしくお願い致します。

狭間
 私は昭和46年頃松山に居たんですけど、その時に大分で大分登高会というのが先鋭的な山登りをしているということを意識してました。県に採用されるようになって大分に帰ってきてすぐに大分登高会の門をたたきました。

 ところで日本の山岳会では当時、50歳くらいの人が長老として幅を利かせていましたけど、イギリスでは90歳以上が長老、あれから三十何年、日本の山岳会でも80〜90の人が長老と言われるように成熟してきていますが、しかし我々は五十歳台になっても相変わらず駆け出しのぺーぺー。とにかく、登高会に山を教えて頂いて、それが一つの人生そのものみたいなところがあって、こだわりもあって、山の数は沢山は登っていませんが、今でも登っております。あと何十年か分かりませんけど生涯続けたいと思っています。

 それから先程ちょっと紹介のありました山のいで湯愛好会とかいう軟弱な会を立ち上げ、ここに居られる登高会の残党組(の一部)で軟弱な山登りを続けつつ、山にはそれなりにこだわりを持ち続けております。私共のホームページ‘おゆぴにすと’については、ご存じの方も多いと思ってますが、もし知らなければ人生損をします(笑い)。PR用名刺を先着10名様に差し上げます。ヤフーの検索で‘おゆぴにすと’と入れたら一番に出ます。是非覗いてみて下さい。

吉賀
 皆さんどうもこんにちは。初めての方が居られドキドキしてますけど、私あのーヒンズークシは、歳が若いもんで、記憶にございませんで、(その頃)私は職場の仲間とハイキング程度から(山を)始め、ちょっと物足りないので大分登高会というのがあるらしいので、トキハの前を歩いていてちょっと(サニー山の店に)寄ってみたわけです。そしたら店の奥におっさんが居て「私入いりたいんですが」と言ったら、「そうか今から行って来い」、「どこですか?」、「高崎山にうちの丹生という素晴らしいクライマーが登ってるから」、

で、乗りかかった船で当時路面電車に乗って高崎山に行ったけど場所が分からんで、高崎山のてっぺんまで行きまた下りて岩場にたどり着いた。丹生さんが毛糸の帽子をかぶって登っていてですね、私の最初の先生は丹生さんです。

 その後仕事そっちのけで登ってまして西さんの紹介もあってアンデス、ヒマラヤに行きましたけど、何とか死なずに大きなケガもなく今まで過ごしてきた。まあ、ヒマラヤ以後ちょっと趣向が変わって(ここで「ちょっとネ」とちゃちゃが入る)趣味の園芸、ショーブ、ボタンなど・・・、そのうち定年になったらまたどこか行きたいと思っています。よろしくお願いします。

渡辺(旧姓・塩地)
 私は山登りを始めて和記さんの家の近くだったので西さんところに紹介してもらった。それが40年前とは信じられません。私はまだ多分42〜3歳じゃないかと・・・。進学も仕事もすべて山を中心に考えて結婚も山を第一義に考え、看護学校行って就職も病院に入れば、日勤→準夜→準夜→日勤→準夜→準夜・・・で休みがいっぱい取れるので、そういう理由で看護婦さんになって結婚も富山の人とすれば山にいっぱい行けると思って(笑い)・・・。23年間同じ人と暮らしました。今はもう違う人と暮らしていますが、仕事が忙しくあまり行けないですけど、またそのうち行きたいです。大分登高会の、何を隠そう私は会員番号多分11番です。(松田さんが「俺16番、お前の方が偉い!」)

小竹
 さっきやっさん(塩地)が11番、私は多分12番と思います。ヒンズークシという山と山登りを知ったのは高校3年の時で、中津北高の先輩(西さんのこと)のすすめもあり、それで大分に来て「よし、行くぞ!」とか言って頑張って行ったんですけど、それからずーっと・・・。まあいろいろ人生ありすぎて良かったと思います。今からまたいい方向に向かって行きたいと思っています。以上です。

筒井(旧姓・首藤)
 私は登高会で知り合った首藤加代さんのお兄さんと結婚しまして・・・
登高会の思い出・・・ 今日見えていない染矢さんと一緒に姫野さんに伯耆大山に連れて行ってもらって、八合目の小屋の横でビバークして姫野さんのすごい経験によって命を助けていただいた。そういうことがありまして家に帰ったら親に「山に登るのはやめろ!」と言われ、それでかえってやみつきになって、ずーっと登高会にお世話になって・・・。皆さんと山に登れて本当に良かったです。

首藤(旧姓・筒井)
 首藤さんの親戚と結婚したわけではないんです。一番の山の思い出は三苫さんと染矢さんと三人で女では初めてという後立山の縦走をしました。登りは白馬の雪渓、下りは針ノ木の雪渓、行けども行けども岩場という貴重な思い出です。高崎山に勤めています。来て下さい。(御本人さんは無料でいいですよ)

和田(旧姓・三苫)
 こんにちは。首藤さんから話がありましたように、後立山を縦走したんですけども、ちょうど梅雨時で10日間くらい雨ばかりだったんだけど、でも、完登っていうか、しまして今でも思い出して懐かしんでいます。主人を亡くして23年になります。ポー・ロン・リに関しましてはご迷惑、ご心配をかけましたけど、多大なご支援をしていただきました。この場を借りてお礼申し上げたい。いまだに一人暮らし。昨年の秋から今年の1月いっぱいまで地球一周船の旅で回ってきました。全国から900人くらいの沢山の人と一緒で沢山の山の仲間と出会いまして毎日楽しく山の話をしまして。来年もまたいろいろ計画しております。

高本(旧姓・指原)
 今あのー、みなさんとお会いするのは30年ぶりで、何を話していいか分からないですけど、あのー、こういう機会があって嬉しく思っています。山登りは私、大して登っていなかったのですけど、山に登りたいということで姫野さんから登高会に入れさせてもらって、やっさん(塩路)やら小竹さんからいろいろお世話になって当時は登ったのを覚えています。今は同級生同士で、えー、あのー、お花を見に山に登っています。以上です。

山本(一)
 皆さん、こんにちは。山本かずあきでございます。別府の方に住んでおります。えー、今日はヒンズークシの40周年ということで、おめでとうございます。私もヒンズークシ40年とともに育ったような気がしています。今日の素晴らしい8ミリの貴重な映像を見せてもらい感慨深いなあ・・・、そしてまだまだ何か一つやってみたいなあ、という思いです。

 ちょうど私が山に出会いましたのは、私が生まれたのは玖珠でございますが、門司高等学校で2年の時、山岳同好会を創りまして、次の年に県体に出まして、その時に西諒様が山岳の審査委員か何かをしてました。高校を出まして夜間学校に別府の方で通うと同時にですね、一番に行ったのは西さんのところで大分登高会に入りまして、ということで・・・、高校卒業して40年経ったのかなあ、貴重なフィルムとともにですね・・・、映像の中にありましたキスリングザック、私今も使っていますけど(周囲驚きの声起こる)、サニー山の店で8000円しましたけど、大事に持っています。ニッカーズボンもふせあてだらけ・・・、登高会にずいぶんお金をつぎ込んだものだなあ・・・。今後も健康管理しながら頑張っていきたいと思います。どうか今後ともよろしくお願い致します。

山本(康)
(「フグ食いに行こう」「フグ食い行きまっせ」とヤジ)
 こんにちは。登高会の皆さんにはご無沙汰しております。私あのー、まっ、私が登高会に入ったのは昭和45〜6年、亡くなった三重野勝彦さんに紹介してもらいました。そして西諒さんと知り合いになりました。関心は、山登りの方は国内専門で海外には行ったことがない。まあそのうち○○(聞き取れず)ぐらいはせないかんかなあと思っとりますが、まあ、あのほんと昔、内田さんが四峰のコルから急雪渓を奥又白へ一緒に下った思い出があります。それから四峰に取り付いたのですが、内田さんのあの時の馬力、すごかったなあと思っています。まあ、あのー、臼杵の方もあのー、私はもういかんせん、土日動けませんので・・・。まっ、いろいろ西さんに案内もらいますが出席せんで申し訳なく思っています。今日はあのー、まあ、亡くなりました三重野勝彦さんと高並の代理みたいなもので、今後ともよろしくお願いします。(加藤「高並さんから欠席の葉書をいただいております。現在熊本にお住まい。出席かなわず皆様によろしくとのことでございました」)

(加藤「7月3日午後1時10分にコー・イ・モンディに登ったということで、その時間になりましたので万歳をお願いしたいと思います。それでは佐藤さん、よろしく」)

佐藤(日田山岳会)
 えー、ご使命をいただきましたので、万歳三唱を、まっ、万歳が最後ではないということを確認したうえで、登頂に成功した時間に、とお聞きしましたので、さっきから時計が気になり出しました。ちょうど10分になったようでございますので、万歳を三唱させて頂きます。えー、大分登高会のヒンズークシ登頂成功の万歳でございます。

              ヒンズークシ登頂 万歳、万歳、万歳!

(加藤「えー実はカブール時間と日本時間の時差が4時間半あります(笑い)。これからは第三部となります。シナリオにはありませんでしたけど、実は、梅木さんは6月末でネクタイをしなくてよい身分となりました。そこで長年の苦労をねぎらいたいと思います。本日の出席者の一番若い方に花束を贈呈させて頂きます。」)

(「梅木さん、長い間お疲れ様でした」と書かれた横断幕が掲げられ、塩地さんのお孫さんが花束を贈呈する。)

梅木
 えーどうも、思いがけないことで本当に有り難うございました。私が山に登り始めたのは中学校頃からでしょうか。正式な登山といいましょうか、高等学校の1年生からございます。(「旧制高校ですか?」「いや、新制高校です」) それでもうそれこそ半世紀以上になります。私が物ごころついて最初に「仲間」と感じたのが、山でありまして、その次は酒でございまして、その次がタバコ、そして新聞社に入りまして、五番目が女房ということでございます。新聞社に入りましたのが昭和31年、それから約10年後ヒンズークシに行ったわけですが、ヒンズークシに行く前に台湾に昭和39年に大分山岳会の登山隊が出まして、その時新聞記者としてついて行ったわけですが、そのあと西諒さんと残りまして台湾一周をやって、その時話が出まして「来年はどっか行こうよ」ということから具体的になりまして、東京の深田久弥さん宅にも情報収集に出かけたりもしました。 

 最初から私は仕事というのは山に登るためのカネを稼ぐ手段だちゅう意識でございまして、山登りは一番大事なもの、これが自分の仕事なんだ、と思って今日までやって参りました。しかし、カネを稼がなければならないなあー、まっ、それで一生懸命仕事はしたと、それだけの話で、第一義は山でございます。

 今度は本当にネクタイをはずしてまして自由な時間が沢山でき、これでまあ最後にもういっぺん山に恩返しをしたいというように思っております。

 昨年でしたか○○に行きまして、今年の3月カラコルムも行きまして今度9月にはタクラマカンの方に計画しております。子供がウォーキングシューズを買ってくれましたので、歩き続けていきたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。


姫野さんよりお礼の言葉(14:00)
えー、それではひと言だけお礼を申し上げます。
 ヒンズークシ・・・これは今は私たちの宝物である、7月3日という日は私共にとって忘れることのできない日、あれから40年の歳月が過ぎましたが、かつての隊長、今は故人となりました矢野隊長、彼の元で支援を頂いた方4名、その後の登山活動でも○○した人ばかりでございます。今日こうしてその4名を含めみんなが集まることができました。それだけに皆さん方で話が尽きないと思いますけど、こういう時間設定でございますので、今日和やかな雰囲気の中で楽しいひとときを過ごすことができましたことを、あらためてお礼申し上げて、どうか皆さんこれからも元気でまた会いましょう。
   (2005.7.3 責任編集:加藤、一部聞き取れない箇所あり)
ヒンズークシ8ミリ映写会



大分合同新聞の取材



懇親会




























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