H編集長の気まぐれ編集日記
2002.8.22 | 先日、大阪のS君から久しぶりに電話の便りがあった。「子供達にせがまれて自宅にADSLを導入したのでインターネットが出来るようになった。ついては、以前教えてもらっていたHPのアドレス、それにK会長、T会員、K副編集長ほか会員諸氏のメールアドレスも教えてもらいたい」といった主旨であった。 もちろん、これまで幾つかの山行に付き合ってもらっているS君からの‘直接の電話’に、すぐに返答のメールを送った。ただし、その内容たるや「こまめなK副編集長を除き、K会長はキーボードがたたけない、Tは娘との共用もさることながら、これまで本人から一度も返事が返ってきたためしがない、よってこの二人からの返事は期待しない方が良い。」旨の内容だった。 ところで、前出のS君には、今年の年賀状でまず、いち早くHPアドレスを知らせたし、彼からの年賀状でも山に対する意欲的な姿勢と大分への思い入れが窺えたので、4月に転任の挨拶状のなかにあった職場のメールアドレスに大分の近況も含めアドレスを再送した。しかし、S君からは応答がなかった。職場のメールアドレスということもありセキュリティも含め一定の制約があろうことは容易に想像できたが、結構こまめに近況報告しただけに返事がないのに少々がっかりしたことは確かだ。 で、そのS君に対し、彼からは電話の数週間前に(自宅に新設したメールで)HPアドレス再送を促す短い文言を受け取ってはいたが、僕は若干のペナルティを課す意味も込めて、少しの間、返事を放っておいた。それに業を煮やしての冒頭の電話だったというわけだ。 メールは手紙と違い、字の上手下手を気にせずともよく、切手も投函の手間も不要、かつ手紙のように時候の挨拶や起承転結に至る文面の型など慣例にとらわれずともよい。それだけに反応はスピーディでなければならないし、内容に一定のモラルが必要だ。このような、NET社会における道徳または規範のようなものを、ネチケット(NET上のエチケット)と呼び、その大切さが昨今問われ始めているようだ。 パソコンを持つ、持たない、キーボード操作が出来る、出来ないということはともかくとして、NET社会での暗黙の了解事項=道徳感=ネチケットの有無なども、これからはデジタルデバイドの対象となり得る。おっと、これは自戒を込めてのことなのだが・・・。 |
2002.8.17 | 暑かった今年の夏もお盆を過ぎ、ここに来ていくらかしのぎやすくなってきた。まだ夏が終わったわけでもないこの時期、「この夏も昨夏同様、五十路半ば近くにして、元気によく頑張ったな」と、自分をほめてやりたい心境だ。 昨日(8月16日)はたいていの民間企業なら盆休みだろうが、プロジェクト試験の調査と圃場周辺の環境整備に、学生と午前中目一杯汗を流した。そんな真っ最中に届いたK副編集長からの立て続けのメールである。曰く「今の私・・・思索に耽っている。・・・」、曰く「何してる?・・・今、(避暑地の某コンドミニアム)のベランダでパソコンを眺めつつ・・・」、曰く「名文がなかなか浮かばぬ・・・」と。 市街地のごたごたしたアパートからじゃああるまいし、‘ベランダ’はないだろう。せめてバルコニーとかテラスとか、もっとムードのある言葉を使ってもらいたいな。ま、それはともかく、こっちのシチュエーションなどまったくお構いなしの、TPOをわきまえないメールにも困ったものだ。読書三昧、思索三昧、「座して百城を擁す」ような境地にある自分を知らしめたい気持ちは分からぬでもないが。 牛が牽くのに汗をかくほど、あるいは軒の上まで充たすほどの蔵書の様を汗牛充棟というのだそうだが、そのような中での晴耕雨読ならぬ晴走雨読の生活、・・・近頃思うことだが、何だか早くこんな環境に身を置きたい、つまり早くサンデー毎日になりたい・・・これも老化現象の一つなのだろうか? 今日は、そのKの待つコンドミニアムにこれから向かう。思索三昧など期待できそうにもないが、秋風の漂う高原に身を置き、ジョギングや散策、それに早朝のサイクリングで心地よい汗をかきたい。それに旨いビールも! |
2002.8.16 | 気まぐれ編集日記なるものを先月立ち上げたはものの、三日坊主ならぬ七日坊主で中断してしまった。生来、この手のものは長く続いたためしがない。何か書きたくなった時に書く。「立ち上げた以上続けなければ・・・」などと義務感を持ったり妙に無理をしてもまったく筆、じゃなくてキータッチが進まないものだ。だからこその‘気まぐれ’編集日記なのだが。 文章を書くという行為、いや書きたいという欲求には、ある種‘ひらめき’のようなものが必要だ。そしてそれはたいていまったく突然にやってくるものである。 「たとえば宇宙船のような、天体のどこかからふりそそいでくる目にみえない粒子の一つが、わたしにあたって、脳を貫通すると、そのとき一つの発見がうまれるのだ、・・・後略」、「それはしかし、瞬間的にきえてしまうものだ。そのままきえるにまかせるか、あるいはそれをとらえて、自分の思想の素材にまで育てあげるかは、『ウイルソンの霧箱』(筆者註.宇宙船を観測する装置)のような装置をもっているかどうかにかかっている。」(梅棹忠夫「知的生産の技術」、1969)。 この日記を立ち上げた先月、冒頭に短眠型人間についてふれたが、私の場合、この、自分にとって宿命的とも言える変則睡眠パターンの狭間で様々な発見やひらめきに遭遇するように思う。文章を書きたいという欲求も、まさにこの様な時だ。 今週は筒上山〜手箱山と瓶ヶ森林道、ザ・クレージー・トライアスロンクラブ・ミーティング、それに遥かなるアンデス ヒリシャンカ南東壁回想(第5回)を立ち上げることができとりあえずほっとした、といったところだ。 |