遥かなるアンデス Jirishanca 1973
                ・・・ヒリシャンカ南東壁回想・・・
                      (第14回)
               吉賀信市

16.氷の洞穴へ

7月11日  晴れのち雪  起床:4時
 岡田の容体は昨日と同じでまだ苦しいようで食欲がない。しかし、悪くはなってないようなので安心する。これでは一週間ほどは動けないであろう。長塚がしばらく面倒を見てその後荷上げをすることにする。ルート工作を7時開始。強風を突いて篠原トップで登り始める。ルートは昨日のチムニーを止めて南壁側のフランケ、氷のついた南壁よりに左傾したルートに変更する。篠原がアイスハンマーで叩き落とす茸雪、氷片が強風に舞い上がり、確保している吉賀のヘルメットにもガンガン落ちてくる。舞い上がった氷片が南面に連なるエル・トロ、イエルパハ、シウラの峰々と共に朝陽に輝く。

 下から見た目にはすぐにザイルが延びそうであるが、左傾しているうえに階段状に小さなハングがあるために、ルート工作には苦闘を強いられている。4時間ほどを費やして1ピッチ(21ピッチ目)を勝ち取る。吉賀、落石を起こせば天幕に当たるので注意をしながらユマールで続く。そこはやっと足を置けるほどのテラスで、まず、先に篠原が登り始めて空いたテラスに立つ。つぎのピッチも同じようにハンマーを奮い氷を落としてリスを探す。やっと見つけたリスもハーケンが歌ってくれない。どうしてもポイントなるピンは埋め込みボルトに頼らざるを得ない。いつの間にか時計は午後をまわり蒼空は消えている。今にも降って来そうな雲行きだ。2人とも緊張感で時間の観念がなくなっている。


           
                      
第3キャンプ

 下では長塚が登攀具の荷上げにユマールで登ってくるのが見える。2ピッチ目のザイルは35m延びて小さなハングに篠原の姿が消えてこのピッチ終了の声が掛かる。ハーケン、カラビナを回収しながらユマールで登る。ハングの上に顔を出して驚く。そこは岩肌ひとつ見えない氷のクーロアールの落ち口であった。何と言う豹変ぶりであろうか。これが60〜70m続いてその上部には、キノコのような巨大な氷爆が行く手に覆いかぶさっている。

ひと息入れる間もなく、篠原はアイゼンの出っ歯を利かせてクーロアールを登攀し始めた。折りしも降り出したアラレはこのクーロアールに集中して落ちて来た。2人を追い落とさんばかりに飛び跳ねて流れ落ちてくる。眼はほとんど開けておれず首廻りの僅かな隙間から衣服の中へ、アラレが流れ込み登攀を一層困難なものにさせる。3ピッチ(23ピッチ目)を終えた頃には、夕闇が迫る時間となっていた。直ちに下降を開始したが最後の懸垂下降の頃には暗くて見えなくなってしまった。長塚が下から照らすライトの明かりを頼りにC3への下降となった。

            
             
C3のすぐ上部を登攀 

 左傾した壁は、左に振られないように足を踏ん張り慎重に下降する。左に振られると南壁側に落ちてしまいユマールで再びビレーピンまで、登り直すことを強いられることになる。長塚が照らしてくれるライトの明かりと声を頼りにして、風にバランスを崩さないように慎重に下降して帰幕。天幕内は狭い上に、ヘルメットもゼルブストも付けたままで居住性はすこぶる悪い。しかし、岩壁の中である。これ以上は望めない。ビバークに比べれば天国だ。

 食事の準備でラジウスを炊き始めると、みんなぜん息のように咳き込み喉が痛む。C3は狭いために中の空気が悪いのだろう。また、今まで長い間ガソリンの有鉛ガスを吸ったために気管支がやられてタンも出る。篠原をはじめ3人の表情は、窮屈な壁での活動による苛立ち、岡田の負傷、天候が安定しているうちに登頂しなければと焦りも加わり血走った形相をしている。岡田は多少痛みが治まり水分を受け付けるようになって大事には至らないことが分かり安心する。明日は長塚、吉賀でルート工作。篠原はその後を追い荷上げとする。強くなった風が天幕を叩く音を聞きながら横になる。

7月12日 晴れのち曇り  起床:4時

疲れのためか身体が重たくてピリッとしない。吉賀の顔にも少しムクミが見られる。

 8時30分。昨日の到達点に着き、長塚の確保にて吉賀トップで登攀を開始する。しかし、岡田の墜落を目の当たりにしたためか自分でも驚くほどビビる。不安なために不必要にハーケンを多用する。上がって来た篠原に「もたもたするな!速く登れ!」と怒鳴られながらスタンスがはっきりとアイゼンのつま先に感じられない。所謂、足が地につかない状態で、ぎこちないバランスにて氷のついた壁を右斜上する。下で見ている方が本人以上に心配したことであろう。次第にその不安も薄らぎトップで登攀する喜びを覚えてくる。

 ル−トは氷爆の下を、右に巻き不安定な雪壁を20m直登して中央稜の細いリッジにまたがる。ここより、遠方に青く澄んだカルワコーチャ湖、それと対照的に、灰色に濁ったプカコーチャ湖が視界に入った。さらに10m程を粘りのない雪を崩しながら登り1ピッチ(24ピッチ目)を終えて長塚を迎える。

 2ピッチ目は、右側にBCからも見える熊手の格好をした大きなツララを40〜50m程の位置に見ながら、リッジ上に盛り上がった氷にアイスハンマーを奮い乗り越す。再び不安定な雪稜を慎重に登高する。傾斜はきつい上に雪は締まっておらず膝上までもぐりスピードは遅い。ちょうど40m延びた所にピナクルがありそこにビレイを取り長塚を上げる。ここで彼は不調を訴えて篠原と代わりC3へ下降する。ピナクルより先は、スパッと切れ落ちており行く手を阻まれる。

            
             氷の洞穴下部の登攀

 そこで、次のピッチは南壁側にエスケープすべく、左下に4〜5m下がりさらに30m程トラバースして、ヒマラヤヒダを2本乗り越してパイプのなかに入る。4ピッチ目、パイプを縦に割ったような中を真っ直ぐ登りはじめる。この中も雪が締まっておらず傾斜もあるために、雪の中を泳ぐような状態となり登攀スピードはえらく遅い。下から篠原がイライラしてか「吉賀。速く登れ!速く行け!」と怒鳴っているのが聞こえる。「俺はこれが精一杯だ。どんなに怒鳴られてもこれ以上速くならん」と思いながら必死で雪を掻く。

 アイゼンが利く位にクラストしておれば苦もなく登れるのだがこのような雪質が最も登り難い。40m一杯ザイルを延ばし、つぎのピッチでさらに15m程登るとツララのカーテンに囲まれた氷の洞穴が現れる。

        
                氷の洞穴
   
 中に入ると広さは6畳以上もあり鍾乳洞のようで壁の氷が鈍い光を放つ。篠原を迎えてルート偵察。洞穴のツララを乗り越えないとはっきりとは確認できないが、北東稜はもう近いと思われる。すでに、陽は沈んだ。暗くならないうちに帰らなければと、蛇行したリッジに注意しながら、懸垂下降でC3へと急ぐ。天幕に帰ると岡田の状態は良くなって来たようだがまだ胸の痛みがある。長塚も疲労困ぱいのようで元気がない。動けるのは2人だけになってしまった。吉賀の疲労した顔を見て、篠原、「吉賀。お前はまだ動けるか」・・・吉賀、「俺も、いつまで持つか分からん」・・・篠原、「そうか後は俺にまかせろ。お前は確保を頼む。もし、俺一人になってもアタックするぞ!」。と篠原の強い決意と登頂への執念を感じる。
つづく

             
                         氷の洞穴内部

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