2006年10月 南アルプス、甲斐駒黒戸尾根、仙丈、鳳凰三山縦走報告
                        その1
   高瀬正人

                                2006年 10月6〜10日

    
                  
甲斐駒ヶ岳摩利支天、黒戸尾根上部(仙水沢峠より)

計画にあたって
 5月に今年の課題、前障子〜祖母〜傾の1日縦走を終え、次なる目標は8月に甲斐駒(黒戸尾根)に決めていた。いつもは真っ先に計画を持ちかける岳兄狭間はこの山域は既に15年前、勤続20周年記念事業と銘打って5日間の苦闘の単独大縦走(夜叉神〜鳳凰三山〜甲斐駒〜仙丈〜白鳳三山、おゆぴにすと第6号参照)を行っており、また、ジンカルショック(※脚注)のため長期の休暇も取り難いのではとの配慮もあり、今回は単独で計画を進めた。

 甲斐駒をはじめて見たのは、39年前である。高校3年の夏、当時山へ関心が芽生えていたころである。就職も決まり記念として富士山麓から小海線を経て小諸、軽井沢の旅を計画した。きつい土方のバイトで貯めた乏しい資金での単独の旅であった。

 はじめて中央線、小海線に乗った。その当時は私の視線は八ヶ岳に向いていた。とくに山麓の清里のたたずまいには心を奪われた。その清里KEEPから振り返って眺めると遥か右奥に南アルプスの山並みが連なっていた。あれが甲斐駒、僅かに北岳、手前に連なる鳳凰三山。あんなに高い山にどうしたら登れるのだろう。そんな畏怖を抱きながらあまり強い印象がなかった初見であった。なにせ私は当時九重も知らず、福智山が最高到達点だったのだから。

 それから幾たびか、北アルプス、八ヶ岳等、中央線を旅する毎に目にしたはずの甲斐駒。そして30年前OMCJ(今となってはなつかしい響き、※※脚注)で北岳バットレスの合宿に参加し、その時にも甲斐駒をみたはず。そういえば松田さんが摩利支天中央のルートを安東氏と登攀、敗退したと言う話は聞いたことがある。そんな印象の甲斐駒であったが、あるルートに関心があった。甲斐駒赤石沢ダイヤモンドAフランケ赤蜘蛛ルートである。

赤蜘蛛同人、井上、木下両氏によって1971年10月に初登攀されたこの周辺のルート(Bフランケ、奥壁)は、国内で質の高い花崗岩の継続登攀可能な岩壁として、アルプス、ヒマラヤへのトレーニングの場として注目を集め、更にヨセミテ派のクラック登攀の対象としても注目を集めた。赤蜘蛛の井上進、松見新衛、彼らはその後ヨーロッパアルプスで活躍し、モンブラン・プトレイ大岩稜に新ルートを拓き、1974年、’75年と連続して山渓登攀賞を受賞した。なつかしい名前である。既に現実の厳しい登攀からは1歩も、2歩も後退し、やがてOMCJの解散へ向かおうとしていたが甲斐駒には凄い岩壁がある・・・、そういう印象だけは強くこころに残っていた。

○甲斐駒(赤石沢ダイヤモンドAフランケ、黄蓮谷)をこの目で!

 あれから、かなりの歳月が流れた。私の手元に「日本のクラシックルート」アルパインクライミングルート集という1冊がある。この本は、大正末期から昭和初期の日本登山史における黄金時代から昭和中期以降に登られた、今となってはクラシックと呼ばれている著名なルート(北鎌尾根、北尾根、ドーム中央稜、屏風雲稜ルート、チンネ左稜線、等)の写真を主としたガイド本である。もう自分には登れないのだろうか?でもひょっとしたら登れるかも?いつも憧れと共に眺めている本であるが、この本に甲斐駒は2ルート出ている。

ひとつはAフランケ赤蜘蛛ルート、もうひとつは黄蓮谷右俣、厳冬期のアイスクライミングの代表的ルートなのだ。私はアイスクライミングをやったことがない、アイゼン、ピッケルの世界ならば多少経験はあるが。いつも写真でみる氷壁を出っ歯のアイゼンとバイル2本を駆使したダブルアックスの登攀には今もこころが踊る。「そうか・・・、甲斐駒にはこんなルートもあるのか。」私の甲斐駒への憧れはもう登れなくなった大岩壁や日本屈指のアイスクライミングルートをこの目で確かめておきたい、という願いに変わっていた。
                                (以下次号)
※ジンカルショック:人事カルチャーショック=不本意な人事異動に伴う憂鬱
※※OMCJ:Oita Mountaineering Club in Japanの略称=大分登高会

           おゆぴにすとトップページへ     山岳紀行目次へ