佐田の名所(人物)

佐田 秀(さだ ひずる)


 キーワード: 市指定史跡(佐田秀墓), 幕末
 幕末の勤皇歌人。
 宇佐地区と佐田地区で正反対の評価をされている、郷土の偉人です。

 内川野村の庄屋の家に生まれた秀は、歌や国学を物集高世に学び、その明晰な頭脳と卓越した記憶力から高世の秘蔵の弟子と言われていました。
 尊王愛国の念が強く、青木武彦らと楠公会を起こして勤皇討幕思想を鼓吹していました。ところが、討幕の計画を練っていたことが露見(木の子岳事件)。日田代官所幕吏の手から逃れるため、安心院の重松邸などを転々とし、長州の報国隊に身を寄せます。
 そして慶応4年(1868)、藩政に批判的な長州藩士らと長州を脱走し、再び宇佐へ。
 1月14日、秀らは四日市陣屋(日田代官所)を襲い、大砲や弾薬などを奪い火を放ちました。続けて、陣屋の役人たちが逃げ込んだ東本願寺別院にも火を放ち、この火によって近隣の民家7軒も類焼しました。
 奪った武器を手にした志士たちは、宇佐神宮の奥の院である御許山に錦の御旗を立て、立てこもります。このとき御許山に挙兵した浪士隊は、勤皇派の花山家理を盟主としたため、花山院隊と呼ばれていました。
【墓地にある「看板」】

 諸藩が手を出しかねていたこの事件を鎮圧したのは、秀と同じく討幕を掲げる長州の報国隊でした。秀らの挙兵が勅許を得てないこと、長州藩の名を用いたこと、脱隊違反の罪を犯したことをあげ、長州藩は、大義を説く秀を会議の席上で斬殺。
 長州は、「口に正義を唱え盗賊の所業せし者」として、秀らの首を四日市に晒しました。

 そのため、現在に至ってもなお、四日市を中心とする宇佐地区では「『御許山騒動』でお東さん(東別院の愛称)を燃やした、とんでもない火付け強盗」と言われ、佐田地区では「『御許山義挙』で勤皇の士ながら同志であったはずの長州に討たれた悲劇の志士」と言われています。

 現在佐田地区には、彼の足跡を示す史跡が数多く残されています。
    【史跡案内地図】


    • [参考文献]安心院町誌編集委員会/編(1970)『安心院町誌』安心院: 安心院町誌編集委員会
    • [参考文献]大隈米陽/編(1952)『豊前国佐田郷土史 上巻』佐田村:佐田村公民館
  •  佐田秀墓 
  •  佐田秀歌碑