
佐田の名所
佐田秀歌碑
幕末の勤皇歌人、佐田秀(ひずる)の歌を刻んだ歌碑。
勤皇の志士として、秀が率いた「御許山義挙」の詳しくは、こちら(佐田秀)をご覧ください。
勤皇の士として知られる秀は同時に、万葉の「ますらをぶり」を思わせる優れた歌人でもありました。隠棲していた頃も、轟の池をはじめとする郷土の自然を詠んでいます。
記憶力にも優れた秀は、1,000首暗記すれば一流歌人と言われる時代に、4,000余首にも及ぶ万葉集の全歌を暗誦していました。秀の師でもある物集高世は「万葉以後の名人」と秀を激賞しています。
荒ハてし 秋の故郷来て三れは
あさちか原に 月ひとりすむ
久々に帰って来て見ると、故郷の佐田は長けたつばなが野原いちめんに生い茂り、いたましいばかりに荒れ果てて、ただ秋の月ひとつだけが澄み極まって冷たい光を放っている。なんともさびしい限りであることよ。
碑には、慶応3年(1867)、長州より帰国した秀が故郷である佐田を思って詠んだ一首が刻まれています。
そしてこの歌を詠んだ翌年。御許山義挙の末、29歳の秀は長州の報国隊によって斬殺されました。
勤皇の志士として、秀が率いた「御許山義挙」の詳しくは、こちら(佐田秀)をご覧ください。
勤皇の士として知られる秀は同時に、万葉の「ますらをぶり」を思わせる優れた歌人でもありました。隠棲していた頃も、轟の池をはじめとする郷土の自然を詠んでいます。
記憶力にも優れた秀は、1,000首暗記すれば一流歌人と言われる時代に、4,000余首にも及ぶ万葉集の全歌を暗誦していました。秀の師でもある物集高世は「万葉以後の名人」と秀を激賞しています。
荒ハてし 秋の故郷来て三れは
あさちか原に 月ひとりすむ
久々に帰って来て見ると、故郷の佐田は長けたつばなが野原いちめんに生い茂り、いたましいばかりに荒れ果てて、ただ秋の月ひとつだけが澄み極まって冷たい光を放っている。なんともさびしい限りであることよ。
碑には、慶応3年(1867)、長州より帰国した秀が故郷である佐田を思って詠んだ一首が刻まれています。
そしてこの歌を詠んだ翌年。御許山義挙の末、29歳の秀は長州の報国隊によって斬殺されました。
- [参考文献]大隈米陽/編(1952)『豊前国佐田郷土史 上巻』佐田村:佐田村公民館
- [参考文献]歌碑建立委員会(2001)『佐田秀歌集抄』
優れた歌人でもあった佐田秀の歌碑
歌碑から見える毘沙門橋(石橋)