08:人の上に立つということ
「……」
「……」
顔に青疸が出来ながらも、仕事部屋にて黙々と書類仕事をこなすスパンダムと。
こめかみに青筋を浮かべるとはこのことかと、無表情に淡々とソファーにて書類の束を読みふける。
「……」
「……」
書類をめくる音、ペンを走らせる音、時折カップを傾け喉を潤す音。
二人から発せられる音に会話はなく、淡々と時間は進んでいった。
先に顔を上げたのは、書類の束を読み終わったで、そのこめかみには青筋は浮かんでおらず、表情も少々目が疲れたのか物憂げだが無表情ではなくなっていた。
としては怒りを持続させられるほど持っていた書類内容が簡単なわけもなく、日本語表記であることには心底感謝したが集中力の要る作業だったため、スパンダムがうざいだとかうざいだとかうざいだとかは一応忘れることにしただけなのだが、小さくついたため息は幾分か達成感の感じられるものだった。
それを機嫌の向上だと解釈したスパンダムは、これ以上一般人?の女にぼこぼこにされるのは威厳が損なわれると、今更じゃないかと突っ込みたくなるような心境で、せっせと仕事の速度を向上させた。
不祥事、タレこみ、不備、市民の悲鳴。
知ったことかと切り捨てたいもの、自分の糧にしようと取り込みたいもの、これをネタに強請ってやろうかとスパンダムの脳内手帳に書き込まれるものなど、さまざまな事柄が書類の上からスパンダムに伝えられる。
それを適度に割り振り、処理する人員を選別し、確保し、作業に当たらせ成功させるのがスパンダムの仕事のひとつ。
どうすればどう手を回せば自分の利益となるか、失敗した場合成功した場合の損害はいかほどかと計算しつつ、周りへの影響とどこまで影響するかなどを考えながら采配を振ろうとすると、やはりひとつの事案だけでも恐ろしいほど時間を要する。
どの国の、どの街の、どんな立場の人間が、どれほどの不祥事を隠しているのか。
一つ一つはただの記号、ただの肩書きに過ぎないが、それらひとつひとつ紐解けば影響力に差が出てくる。
もし戦争中の国だったら? もし国交を断絶している国だったら? もし人間の出入り検査がゆるい国だったら?
どの国か、そのひとつを取り上げても簡単に問題があがってくる。健康的な国というのは案外少ないものだ。
健康的な国に見えていても、内部がどれほど健康かは疑わしい。
スパンダムは軽く歯を噛み合わせて考え込む。万年筆のインクが乾くが、中々サインも指示も書き込めない今、乾いてくれたほうが紙面を汚さずによいと、紙の上でそのペン先を遊ばせる。
どの街かも重要だ。人の出入りは激しいのか、少ないのか、男が多いのか、女が多いのか、家族連れか、恋人同士か、国内の者ばかりなのか、異国のものばかりなのか、海軍は駐屯しているか、海賊が根を張っているのか。
それによって派遣する人間が変わってくる。見た目も言葉の訛りも性格も仕事の得意不得意も、さらに細分化すれば数え切れないほどの要素から、どのような街なら問題なくその街に潜入し、動けるのかを考えなければならない。
どのような立場の人間か。ターゲットの立場によっては、国、街の風習により近寄れなかったりする。それでは潜入できても意味がない。苦労して入国させ、街に潜入させても意味がない。
ひとつひとつ背景まで調べ上げ、一番情報収集に適した人材、交渉に適した人材を選ぶ。
簡単なひとつの仕事を任せるまでに、膨大なまでの情報が必要になる。確証が必要になる。
使える人材は死なせないほうがいいのは当たり前だが、死ぬような人材を送り込んで成功するような生半可な仕事は回ってこない。結局は、徹底的な下調べと現場でのフォローが必要になる。
臨機応変さと言うのはそれなりにどの人間も備わっているはずだが、いつも発揮できるとは限らないのだ。
「……」
今度はスパンダムがこめかみをひくつかせ、万年筆を放り出すと自分のこめかみを丁寧に揉んだ。
面倒だがすべてスパンダム自身が請け負えば、それなりに精神的負担は少なくてすむ。けれど実際、スパンダムの身体はたった一つで交渉は出来ても実践には不向き。現実的な話ではない。しかも面倒くさい。とどのつまり面倒くさいが、スパンダム自身が動けば精神的負担が格段に減るのは事実。でも無理だ。
堂々巡りに陥り、スパンダムは苛立ちのあまり紙の上で遊ばせていたペン先を、ゆっくりだが紙にめり込ませてしまう。
「スパンダムさん」
不意にが声を上げ、スパンダムは一瞬苛立ちのまま顔を上げようとして、すぐにその動きを止めた。
ゆっくりと息を吸い、それを同じように吐き出す。
心を落ち着けて八つ当たりをしないよう配慮し、スパンダムは声をかけてきたへと視線を向けた。
読み終わった書類の束をテーブルの脇に寄せ、はじっと静かに凪いだ瞳でスパンダムを見つめていた。
スパンダムは一瞬何を言えばいいのか分からず、小さく首を傾げる。けれどの視線は変わらず、呼びかけたのはだと言うのに何も言わないに、徐々にだが苛立ちを覚え始めていた。
スパンダムの感情の流れを表面だけとはいえつぶさに見ていたが、そんなスパンダムを可愛らしいだとか微笑ましいだとか胸中にて和やかに思っていることなど知らずに、スパンダムの眉間の皺が徐々に増えていく。
はスパンダムの表情を観察し、そろそろ怒り出すだろうかと見当をつけ、うっすら動き始めたスパンダムの唇が開ききる前に笑みを浮かべた。スパンダムがその笑みの意味を図りかねている数秒の間に、が先に声を発した。
「休憩にしませんか? ひと段落着いたなら、これのチェックも兼ねて」
は自分に渡された書類を軽くたたき、スパンダムに再度笑いかける。
は現状をすばやく理解できていないらしいスパンダムに、もう一度休憩しませんかと声をかけた上で座ったまま軽く背筋を伸ばした。それでも解すには足りなかった分は両腕を伸ばして、言葉としても態度としてもさっさと休憩時間の開始を決定した。
「お、おい」
スパンダムの戸惑った声がを呼び、書類に置かれていた片手が止めようとするかのように軽く伸ばされる。
けれど椅子に腰掛けているスパンダムから、机ひとつ挟んだに手が届くはずもなく、立ち上がり廊下へと顔を出したには到底届くはずがなかった。
「あの……すみません。あ、はい、そうです。あの、スパンダムさんが休憩に入るそうなので、何か飲み物いただけますか? あ、はい。ありがとうございます」
スパンダムが戸惑っている間に、は少々遠慮がちに声を上げながらも、着々と部下に注文をする。
の分の飲み物もスパンダムと一緒で良いかという質問には、一瞬言葉に詰まりつつも嬉しそうにその表情を崩していた。
そんなを目にして、スパンダムはため息を吐きながらも片手で自身の頭を掻き、早々に書類仕事を放り投げた。煮詰まっていたのは確かで、気分転換でもしなければやっていられなかったのも確か。ならば休憩もやぶさかでないと内心ぐだぐだ言い訳を重ねつつ、が元の位置に腰掛ける頃にはスパンダムも立ち上がり、のテーブルを挟んだ真向かいのソファーに腰を下ろしていた。
瞬きをしてスパンダムの行動には首をかしげたが、スパンダムはもう一度ため息を吐き出して無理やりその表情を笑みへと作り変え、苛立ちを霧散させるかのように自身の前髪をかきあげ、へと視線を向けた。
「休憩にするんだろ?」
「……はい」
「じゃあ何でんな顔すんだよ」
呆然と返事をしたの態度が気に食わなかったのか、スパンダムは笑顔の努力もむなしく苛立ちを滲ませた突込みをするが、瞬きをした後、ゆっくりと照れくさそうに嬉しそうに頬を緩めるを見て、準備していた苛立ちの台詞を飲み込んだ。
くつろいだ少々はしたない座り姿勢から、は礼儀正しい姿勢へとゆっくり背筋を伸ばして体勢を変え、スパンダムを真正面から見つめる。
「……いえ、一緒に休憩できて、うれしいなぁと。ちょっと、思いまして」
スパンダムがわざわざ席を移動してまで、それも無理やり取らせた休憩だというのに、が言ったとおり休憩時間を作ってくれたことが、ささやかながら嬉しかったのだと言外に告げるは、入室してきた部下たちに慌てて返事をして、スパンダムから照れた顔が見えぬよう率先して部下に話しかけ始める。……が、視界の端で硬直するスパンダムには気づいていて。
自分でもちくしょうくさい台詞言っちまったと思いつつも、これは何のお茶だこのお茶請けは何だどんな味なのかわぁ美味しいです作り方教えてくださいなどと、スパンダムが正気づいても話しかけてこれないように、むやみやたらに笑みを浮かべテンション高く給仕をする部下に話しかけ、部下もスパンダムとの様子に気づいていながら、丁寧にの質問の回答を口にしていく。
「……」
硬直のとけたスパンダムも、のわざとらしいまでに下手くそな照れ隠しに苦笑をひとつこぼすが、先ほどのスパンダム基準で可愛らしい反応にそこは突っ込まないでやろうと、テーブルに置かれたスパンダム用の茶をひと飲みする。
目の前ではいまだに部下へとテンション高く話しかけると、スパンダムに何度か視線を投げかけつつも律儀に回答する部下。
こんな時間が今後増えていくのかとうっすら微笑んだスパンダムは、先ほどまでの書類仕事での苛立ちがすっかり薄れているのにも満更ではない心地で瞼を下ろした。
「……茶と菓子くらいで騒ぐな。育ちが知れるぞ」
「落ち着きのないスパンダムさんに言われたくないと思いますよ!」
打てば響くように顔を赤くして振り返ってくるに、スパンダムは意図的に微笑みかけて肩をすくめる。それを見てからかわれたと気づき、けれど言い返せば墓穴と分かって地団駄を踏みそうな顔で堪えるは、どう見ても子供でしかない。どこにでも居る、平凡な子供のような女。
まだ不審人物として徹底的に調べられていることなど露ほども知らず、笑う愚かな女。