09:目に見えぬ言葉
スパンダムはには何も言わず彼女の部屋を用意させて、女の必要なものをリストアップさせてそれも大急ぎでそろえさせた。さすがに趣味どうこうを聞く時間もなくあつらえられたその部屋は、スパンダムとしては狭いし物は少ないし日当たりも悪いしスパンダムも通いにくい場所にある。急遽と用意させた所為ではあるが、監視はすこぶるしやすいし下手な情報が流れ込む場所でもないのだが、スパンダムは不満に思った。手配したのは自分だと言うのに。
「……」
「……」
スパンダムと小さな休憩と言う名のお茶会を催した後、また別の部下が入室して何か手渡し会話をして、を置いてどこかへと行ったスパンダム。
逃げるなよと念を押されて部下を一人監視につけられたのだが、保護されたと言う居座る口実が出来た後で、一般人のが逃亡を図る理由もなく、大人しく世界の仕組みだなんだとスパンダムの部下から口頭で軽くレクチャーをされていた。
「……」
そんな風に大人しく待っていただったが、戻ってきたスパンダムは不機嫌全開で顔をしかめており、書類になにやら書きながらもぶつぶつ文句を口にして、けれどコントのようなドジも踏まずに仕事に精を出していた。
さすがに、とて声を掛けられる場面ではないと自重する。お茶を口にする音でさえ、気を使って最低限の最小限にちびちび唇を湿らせる程度にしたほど。
さすがに部下がそこまでしなくては良いと言ったものの、の視線は苛立ちあらわに仕事を片付けていくスパンダムに釘付けだった。
(ふざけんなよ、馬鹿どもが。女が暮らすと言えば可愛いものの一つや二つ見繕うのが常識だろうが、あんな派手派手の売れ残り臭いギンガムチェックは可愛いんじゃなくて下品っつーんだよ物に寄るだろうがあの色彩の使い方はもっとこう小物やなんかの方がこいつには映えるだろうがなんで黒とか蛍光イエローなんざ持ってくんだよお前色っつーものの根本がわかってねぇんだよむしろなんで紫持ってこねぇんだよ気が利かねぇな俺の色だろうがよ馬鹿どもが!)
スパンダムの内心は、ただただ部屋に置かれたものの色彩やらなんやらについての愚痴しか吐いていなかった。
さすがに頭と手は仕事の処理をしているのだが、一海兵以下の戦力とはいえ、のちのち長官になる男。部下の使い方も下手だが潰さずに使える程度の処理能力は持っている。部下がへまをしても挽回できる手腕もある男。将来口が軽すぎて隠密行動も派手に皆殺しにしちゃう部下を持っちゃう男。
今はそんな将来なぞ知らぬまま、スパンダムは本日中に仕上げる仕事を万年筆が悲鳴を上げる速度で処理していった。
「……スパンダムさん、集中力半端ないですね」
「主管はやれば出来る方なので」
「……愛されてますね」
「馬鹿な子ほど可愛いと言う奴で」
「……あの」
「はい」
「……スパンダムさん、上司ですよね?」
「はい。彼の一言で私たちは命を投げ出します」
「……あれぇ……?」
スパンダムのそばのソファで、ようやくこの世界レクチャーを再開したと部下の二人だったが、やはりスパンダムの様子に雑談が始まる。けれど思った以上に砕けた印象の部下の様子に、は引きつりながら首を傾げざるを得なかった。
(じゃあなんで、そんな口利けちゃうの? あれ? ドジっ子スパンダムと思ってるのは、読者だけじゃないとか? いやいや、部下とか周囲の人はやっぱりドジっ子だって思うだろうけど、あれ、なにこれ根本的にクソ男だからこそロビンちゃんたちをあんなーこーとーして、カティ・フラムくんたちにもそんなーこーとーしちゃうんじゃなかったっけ? なんでこんな普通に愛されてるの? いやいやアイスバーグさんたちのところへ行って、門前払い食らった後のドジに部下全員が目を見開いて大声上げてスパンダム心配してたはずだし、これはこれでありなのか? でもクソ男だよね言葉悪いけどロビンちゃん蹴ったときとかその足を逆パカしてやるとかガチで思ったし。でも、あれ、あれー?)
困惑も新たに固まっているは、それでも部下の人間が丁寧に日本語表記で海図やらなんやらに書き込みをしている動きを目で追いかける。正直良く分かっていないので、それも正直に口にすれば、部下は丁寧に分からない箇所の解説をしてくれる。しかも、別の部下が出来立てだという菓子まで持ってきてくれる始末。ちなみに揚げたてドーナッツはの顔も舌も蕩かせた。
「美味しい……揚げたて最高ふわふわサックサク!」
「作ったものに伝えておきます」
「このチョコレートかけたのも最高です。わかってらっしゃるこの冷やし具合……!!」
「主管の好物ですので、腕が上がったようです」
「スパンダムさん、甘党なんですか」
「普通に食べますね」
「コーヒーはブラックっぽい匂いですが」
「甘いものを食べて甘いものを飲んだら、口の中でケンカをするそうです」
「あぁー、なるほど。ってどんだけ濃い食べ物飲み物組み合わせてるんですか」
「変な組み合わせばかりされるんですよね、主管」
いつの間にか部下二人との三人でティータイムとしゃれ込んでいるが、スパンダムはいまだにガリガリと仕事中。時折ものごっつい骨折音紛いな物が聞こえるが、インクをこぼすことなく万年筆を放り投げて部下にキャッチさせ、新しいのを受け取り仕事を続行するスパンダムは鬼気迫っている。ちょっと格好良い。ペン先が砕ければインクが飛び散るはずなのに、書類には一切こぼれていないのは部下たちが手を出さないことからも伺える。放り投げてもインクは飛ばない。え、どんなマジックよとが目を丸くしても、事実は事実としてそこにある。
言葉をなくしたは、差し出されたナプキンで一旦手を拭いてから、新たに入れてもらった紅茶を飲む。茶葉なんて分からないだが、美味しいと思う。カップも香りも色も味も、の五感を満足させる。
ほう、と満足の吐息をこぼせば和らぐ場の雰囲気。といっても、直径三メートル程度の範囲だが。
スパンダムは、相変わらずなにやらガリガリ仕事をしている。
部下のつむぐこの世界のあれこれを聞きながら、はふっと気が付いた。
「この紅茶も、税金でまかなわれてますか?」
「まぁ、経費ですね」
「……」
え、あれ? それって物凄く申し訳ない状態じゃね? お偉いさんには微々たる金額でも、庶民的には少しでも削りたくなる税金から運営されてるものの中で、こんな良いもの飲み食いしちゃだめじゃね?
この世界で税など納めた覚えのないは、サッと血の気が引いた。
(保護された立場としては、赤貧はスパンダムのプライドが許さないだろうが、清貧レベルじゃないとだめなんじゃなかろうか……!?)
残念ながら元の世界でもお金持ちではなかったので、現在の状況が過分だと分かっているは、部下にそっとお願いしようと正面で話し続けてくれる男を見上げた。
凄く丁寧に図も絵もメモさえ書いて、紙に記してくれる紳士っぷり。これはが聞き逃したり、忘れても大丈夫なようにとの配慮だろう。いい男だ。
「あの」
「はい」
「私、やっぱりさっきの牢屋で」
言いかけたとたん、スパンダムが椅子を蹴倒して立ち上がった。
「ー!」
「はいー!!」
ドスの利いた声に、思わず紅茶を即座に置いて背筋を伸ばしたは、スパンダムが自分を見ていないことに気づかなかった。
「お前、女だよな」
「はい! その通りです!」
鬼気迫るスパンダムでなければ、茶化しただろう質問もお行儀良くきびきびと答える。
そんなに満足げに頷いたスパンダムは、視線をに向けて言葉を重ねた。
「可愛いものは好きだよな?」
「はい! 大好きです!」
「綺麗なものはどうだ?」
「綺麗なものも好きです!」
「色はギラギラよりふわふわだよな?」
「はい! その通りです!」
途中から、部下二人は納得顔で頷いていたが、は何がなんだか分からない。いや、好みを聞かれているは分かるのだが、それが何に影響するのかまでははっきりと分からなかった。服か? 靴か? それとも迷子札でもつけられるのか? 年齢的には身分証明書? 迷子だけど保護されてます、保護者はスパンダムですって? などと内心首を傾げるが、次々投げかけられるスパンダムの質問に、詰まることなく、むしろ詰まったらギラギラ怒りを押さえ込んだような目つきのスパンダムに殺されると思いながら、頑張って答えていった。
質問は、けれどが思っていたよりすぐ終わった。
最後の「紫色は好きか」という質問には、「お前の色だろ」と突っ込みたくなったが、もちろん笑顔で「大好きです!」と答えておいた。好きという言葉に嘘はないんだが、そこでようやくスパンダムが満面の笑みで「そうだろう、そうだろう」と嬉しそうに頷いているのを見ると、良心が痛んだ。嘘ではないのだが。なんだかこう、申し訳なく思っただった。
そしてスパンダムはなにやら書類をいくつか部下二人に渡すと、改めて風呂に入って来いと部屋からを追い立てた。
「え、私眠ってましたよね」
「だから風呂に入ってねーんだろーが」
「入れてくれてたって良いのに」
あんなふかふか布団に、汚れた身体で入っていたのかと愕然としたためこぼれた言葉。
目をむいたスパンダムと目が合い、さすがに品のない言葉だったかとは慌てて部屋を辞した。
「ご案内いたします」
「よろしくお願いいたします」
また別の部下が扉の外で待機しており、彼はが飛び出したことに軽く笑みを浮かべるだけにとどめ、丁寧にお辞儀をして先を歩き始めた。しばし深呼吸を繰り返したも、自分の年齢を思い出して落ち着き払った雰囲気を心がけてその後についていった。
歩く廊下は下品ではないが、程々の豪奢さを隠さないインテリアを置いていた。
そしてが思った以上に歩くようで、大浴場でもあるのかとが推測してしまう程度には、スパンダムの部屋から離れた場所へと誘導されていった。
「こちらになります」
「ありがとうございます」
「では、ごゆっくりどうぞ。入浴を終えられましたら、テーブル上のベルを鳴らしてください」
「わざわざすみません」
「いえ。では、失礼いたします」
頭を下げて礼を表せば、部下の男性は笑顔でさらに丁寧に言葉を柔らかくほぐした。その彼に釣られて雰囲気がほぐれたは、その背中を見送ってから案内された扉を開く。
「……」
が、歩いている間に見慣れた扉と同じだったからと、一応心積もりしていたも踏み出すはずだった足を止めた。
目に映っている室内は、脱衣所ではなかった。
それはだけではまだ、休憩室挟んで脱衣所、浴室となるのだろうと考えることが出来た。
だがしかし、現在の目に映っているのは、あからさまに女性用に整えられた室内。
ベッドに椅子にテーブルにクローゼットに可愛らしい小物にカーテン、奥には確かにバスルームがあるだろう雰囲気が伝わってくるが、スパンダムが使っていると言われれば鼻で笑える程度には、色使いが優しく甘い部屋だった。
「……え、なにこれ。は?」
まさか、この部屋で寝泊りしていいよとか言わないよね?
頬を引きつらせて乾いた笑い声を漏らしたは、とにかく風呂には入らねばといろいろなことを振り切って部屋に足を踏み入れた。
あちこち視線をさまよわせれて何かを探してしまうが、誂えたかのように女性物で色調統一された室内は、の動揺を加速させるだけで。
恐る恐る室内の扉を開けば、ふんわり漂う暖かい空気と湿度に思わず遠くを見つめてしまうがいた。
洗面台と呼んでいいのかすら分からない、落ち着き払った金持ち仕様のそれは、鏡から台から化粧品やらもそうだが、何よりも足元。先ほどの室内とはまた違ったじゅうたんを敷き詰められている。足拭きマットとは間違っても呼べないふわふわもふもふな絨毯。用意された着替えは三種類ハンガーに掛けられて、壁に掛けられていて目を楽しませてくれる。使ってよいのだろうタオル類も大中小サイズがそろえられており、絶対手触りが良いのだろうふんわり見た目だけで分かる柔らかそうな風合い。
「……ぱねぇ」
思わず口をついて出る言葉だが、ふわりと頬を撫でてくる空気は湿度をたっぷり含んでいた。すでに湯を張られた風呂が自分を待っていることを思い出し、は慌てて服を脱ぎだした。
ばさりばさりと、色気もへったくれもない音が響く。良く考えなくても、不潔極まりない部屋に小一時間とはいえ放り込まれていたのだ。背中や足が汚れていた。うへぇっと顔をしかめながら、脱いだ服を入れるのだろう大口の籠に汚れが見えるようにめくった服を放り込んだ。下着は一応、服の真ん中に押し込んで。
浴室だろう扉を開ける。シャワーカーテンでなかったことを意外に思いながらも、広いは広いのだが以上二メートル程度の人間仕様なようで、極端な大きさの浴室ではないことに、まずそっと胸をなでおろす。
扉やシャワーの調節など、全てがの標準より少し高い位置ではあるが、苦になるほどではない。
「……お借りします」
目がお金のマークになる程度には、獅子の口から湯があふれていたり、バスタブが高そうな石っぽかったり、ボディーソープやシャンプーらしき石鹸やボトルの風合いが高級感をさり気なく演出していたりととの蚤の心臓に圧力をかけてくる。
けれど、清潔大好き民族の名は伊達ではないぜとばかりに、素っ裸になったは、即座に手桶を掴むと湯船の湯を引っかぶった。
「……っ!!」
幸せに身を震わせると、何度も何度も湯を頭から被り、体中に掛けていく。じわじわとしみこんでいく湯の温かさに目尻が緩み、涙腺もついでに緩む。
その後は言葉もなく頭から爪先まで丁寧に洗い揉み解して、湯も次から次に獅子の口から出されるものだから無造作に使いまくり、途中から鼻歌なんかも歌いだしちゃったりしつつ、湯船につかる頃にはの表情も雰囲気も、ふにゃふにゃのへらへらのほわんほわんと緩んでいた。
「ん〜……っあぁあああぁ」
おっさん臭い声も心のそこからの心地良さと共に吐き出して。人に見られていないのを良いことに、そっと置いてあった脱毛セットらしきものもちゃっかり使用して、本当に身も心もツルツルすべすべの心地良さは、の全てを緩めていた。
顎の下までしっかり湯船につかり、バスタブのふちに頭を乗せ、細められた目は今にも眠りそう。
心の箍までもしっかりと緩められたは、しばらくして、小さな寝息まで立てていた。
「……」
「……」
女は長風呂だとはいえ、何かあっては困るし、いや違うあいつが怪しいそぶりをしたら事だしな!
などと心配を隠そうとして失敗したスパンダムの言葉に、こっそり様子を伺っていた部下二人はどうすべきか浴室の外で頭を抱えた。
身元不明の突如現れた女性、・。
彼女が一々驚いているのは冷めた目で観察できたのだが、吹っ切れたのだろう彼女の行動には動揺が隠せなかった。まるで自室のようにあれこれ使って身体を磨いて鼻歌を歌って、無駄毛処理なんかも恥じも外聞もなくやっちゃって、え、ここまで見てて良いものなの? 主管切れない? 報告したら絶対切れるよねお前報告しろよ嫌だよお前しろよと、目で押し付けあった部下たちは多分悪くない。
なんかふとした瞬間、泣きそうな顔で笑う表情とか見て仕事とはいえ、今まで似たようなことも当たり前のようにこなしてきたとはいえ、罪悪感とか忘れたはずのものが疼いたりもして。
「ああ、あったかい」
湯の中で呟いて、笑ったその顔が小さな幼い子供のようで。
どこかの国でするという、穢れや煩悩を落とすと言う【ミソギ】という行為を覗いてしまったかのようで。
「……ん……んぅ」
どちらにせよ、風呂の中で眠るだなんて確実に風邪を引いてしまう行為。
部下二人のうち、どちらかは彼女を室内に回収しなければならないわけで。
「……」
「……」
目を合わせた部下二人は、感情も何もかもを一旦押し込めて、無言でじゃんけん大会を開催した。