07:一般常識と礼儀
正直、一般的常識を持った人間ならば、初対面やいまだ親交の浅い人間に対しては往々にして丁寧な言葉遣いをするものだとは理解しているし、それを生まれたからこの方実行してきたほうだと自負している。
たとえ目の前でべらべら喋っている男が見慣れた漫画の登場人物っぽい特徴をしていても、同じ名前でも、同じような属性の人間でも、馬鹿でもちょっと可愛いと思える親近感の湧く人間だとしても、親交が浅く身内でもない男な時点で、基本的に丁寧で失礼にならない態度を取ろうとする頭くらい、も持ち合わせている。
だがしかし、現在向かい合わせで机を挟み、書類に書き込みをしている最中の現在。
は先ほどからスパンダムに親切さを感じつつも親近感を感じつつも好印象を抱きながらも、苛々と募っていく感情を言葉にする誘惑に堪えられなかった。すでに衝動と言っても良かった。
「だからそこには共通語で名前書けよ、常識だろ? 公的文章ってのは、あ、あーあ。ちげぇよ、母国語じゃねぇで」
「うぜぇぇええええええ!!!」
内心、一度はちゃぶ台返しっぽいものをやってみたかった、という動機が無かったわけではない。
は力いっぱい書類やインク壷が乗ったままの、細々とした控えめながら秀麗な細工のされた正直光沢すら神々しいですね、と言いたくなる高価そうなテーブルをそれこそ渾身の力でひっくり返しスパンダムにぶつけた。
綺麗な曲線を描いてテーブルはそこそこの厚みをもっているだろうに、美しく浮き上がりスパンダムの少し見開かれた目に気づいていないかのような動きで、見事に顔面へとぶっ飛んだ。
「へぶぅっ!」
音としては見事に潰れて何を言っているか分からないが、とりあえず潰れたかえるのようなお約束の声を上げ、スパンダムは座っているソファーごと盛大に床へと転げ落ち、更には反動でソファーを越えて床上一回転を成功させ、壁へと激突するという運動を披露した。
「……」
自分がしでかしたとはいえ、他人様のお家もしくは職場で何をやってしまったんだろうと、が冷静になるのも早かった。あまりにも生で見たことが無いほど素晴らしいコントっぷりに、このまま牢屋に逆戻りかもと顔色を青くさせる。
けれど派手な音を立てたはずの室内に来たのは、何度か見たことのあるスパンダムの部下らしい黒服数人で、に一礼すると慣れた手つきで散らかり放題の室内を片付け始め、立ち上がってしまったままのに「すぐに終わりますので、お座りください」等と言いながら温かい飲み物を出すと言う丁寧っぷり。
思わず椅子に座りなおし飲み物を受け取ってしまったは、意識無く部下に抱き起こされ、丁寧にだが簡単にソファーに座らせられたスパンダムを呆然と見つめる。
「申し訳ありません。こちらの損傷が激しく、書き直しをお願い致します」
先ほどテーブルと一緒にインク塗れになったのだろう書類を示され、は声も無く呆然としたまま頷いて書き込みひとつ無い新しい書類を受け取る。
そんなの様子に部下は何を言うでもなく、スパンダムがもっていたらしい別の書類にも簡単に目を通し、綺麗なものから順番に置きなおされたテーブルへと並べていく。
「手間は掛かりますが、書くことはほとんど同じですので、この欄とこの欄だけは忘れないように記入をお願い致します。その際、捺印がいるのですが拇印でも結構ですので」
拇印のときのインクはこちら、洗い水とタオルはこちらになります。
新しくテーブルに置かれたそれに、は呆然とした状態から抜けきれないまま頷く。なるほど、全部空欄を埋めなくて良いのだなとスパンダムより素早く必要事項が教えられ、うんうん頷きながら部下の顔を見上げる。
スパンダムはまだ目が覚めないが、部下は一向に気にしない。
お前さんの上司じゃないのかね、などと気絶させた張本人でありながら少しだけは心配になる。
けれども本当に部下の人間は慣れていることなのか、の視線に眉ひとつ動かさぬまま口を動かす。
「このくらいでしたら五分程度で目覚めますので、心配は無用です」
「……はぁ」
本気で慣れていることなのだなと、呆れとも感動ともつかない声でが相槌を打てば、部下の男は少しだけ表情をほころばせた。小さく浮かんだ笑みに、の動きが止まる。
男の指が、とん、と小さく書類の一文を指した。
「とても心配している。それだけなのだと思いますので、どうぞ邪険にはしないでやってください」
まるで兄か何かのような口調に、の目が丸く見開かれる。スパンダムの前では決して言われないような、少しだけ砕けた口調に耳を疑った。
けれど男はほころんだ顔のまま、笑みを浮かべたままで使えなくなった書類へと視線を落とし、そして未記入の書類へと視線を向けた。
なにやら手元のメモ用紙に書き始め、それをに差し出してくる。
「……はぁ」
先ほどより更に覇気のなくなったの返答に、男は少しだけ笑い声をこぼしてメモ用紙を受け渡す。
そしてそれを見るようお願いを口にして、の視線はメモ用紙へと向かった。
流暢に書かれた文字の下に、が真似しやすいと思う程度にはっきりと書かれた言葉。これが何の意味を持つのだろうと男へと視線を向けなおせば、男もを見つめていた。
「共通語での氏名記入は必須ですので、僭越ながら見本を書かせていただきました。それは貴方の名前です」
「ごていねいに、どうも……」
思ってもみないほどの本当に丁寧な対応に、はとうとうかすれ声でしか返答が出来なくなる。
あれ、私たった今のさっき、スパンダムにおもっくそ攻撃したよね?
首をかしげながらも自分の名前らしい文字を指でなぞり、何かの模様みたいと思いながらも覚えようととりあえず見つめてみる。
それを至近距離で見ていた男は、一つ頭を下げると静かに退室していったが、は分かりやすいその字体を覚えることに集中し始めていて、何もかも意識の外だった。
「……」
「……」
意識を取り戻したスパンダムが見たのは、ぶるぶる手や指を震わせながら名前を記入している。
先ほどの乱闘まがいのことがなかったことになっている室内だが、空中にかすかに漂っている香りの変化までは戻せていないため、スパンダムは自分の顔をさすりつつ首をかしげる。
の手元の紙は、今のところインクを落とされずに綺麗なまま。けれど、震えながら書かれるその氏名は、文字を習いたての幼児に等しかった。
「……」
けれど、さきほどスパンダムが教えていたときよりも、数段読める字になっていた。と読めるその字は汚いながらも丁寧で、必死で書かれたことが容易に伺える好感の持てる字体だった。
「……きったねぇ字」
「黙れ」
「一刀両断!?」
集中力を切らさないよう、でもとりあえず無視しないように返答をしただが、すでにその行為を後悔し始めていた。
「な、な。お前、なんだその紙」
「部下の方がくださったの」
「なんだその喋り方」
「しばらく黙っていていただけます?」
「あ、インク垂れるぞ!」
「集中したいんです」
「ほらかすれ始めた! インク壷インク壷」
「……」
が集中しながらも、スパンダムにきちんと構っていることを認識したのか、スパンダムはあれこれやれそれと、一々一々の動き一つ一つ全てに突っ込みをかまし、右隣に座ったかと思えば左隣。左隣から姿を消したかと思えば正面、立ったまま斜め後ろから覗き込む、手を添えて文字の書き方を誘導しようとする、何か他のことに気をとられて話題を振ってくるなどなどなど。
「……ッ! …………、……」
もいい加減イライラが募ってくるというもので、借り物の万年筆がみしみしと悲鳴を上げるが、スパンダムは無邪気に悪気など一切見えない笑顔で、好奇心いっぱいの幼子のようにに纏わりつく。
「なぁ」
「うぜぇええええええ!!」
本日二度目のちゃぶ台返しが炸裂した。