05:明確なもの
温かい手がそっとの頬に触れる。壊れ物に触るような繊細さはなく、慣れた仕種でその手はの頬を包んでいた。
ゆるりとなぞるように指先がの頬のラインをすべる。
「ん……」
「……。おい、起きろ」
むずがって鼻から声を上げたに、呆れた声音が降ってくる。頬を滑っていた指先は、熱の残滓を残してそれが当たり前のように離れていった。
それが妙に寂しくて、ぐずるように意識がその体温を追いかける。つられる様にまぶたが持ち上がり、視線が熱源を探してさまよった。そしてすぐに熱源らしきものを見つけると、それに向かっては本能的に手を伸ばした。
けれど、あっさりその熱源はの手を避ける。楽しそうに笑う声が頭上から聞こえ、は顔をしかめながらその声の主を見上げた。
「……手、かえせ」
「お前のじゃねぇだろうが」
そうだ、お前の手だ。
は反射的に言葉を返しそうになり、かろうじて目覚め始めた理性でこらえる。その意味を本当の意味で自覚して、初対面の男の手を求めるだなんてなんて節操無しだろうと自分を見下す。……スパンダムの手は、随分優しかった。
理性は目覚めても目が覚めるのはまた別問題なのか、はうつらうつらとまぶたをゆらめかせながら、スパンダムの言葉を待った。スパンダムもの言葉を待っていたのだが、当の本人がまだ寝ぼけていることに気づき、自分から口を開く。
「眠いか」
「……ねむい」
布団はふかふかと太陽のにおいがして、の思考をとろかせる。原形をとどめないほどとろ火にかけられた料理のように、心地よくてあたたかい。
は再び触れてくる手に頭を撫でられながら、何度も「うん、うん」と肯定の返事を繰り返した。
「……なら、眠っといても良いぞ」
「うん……うん……」
すでに理解していないだろう言葉にも、律儀に頷きが返される。そのままスパンダムの手で頭を何度も撫でられていたは、子供のように眠りについた。
まだあどけない幼児のように、このエニエスロビーでは見られない何も知らないような穏やかな表情が、スパンダムの手の下で呼吸を繰り返す。殺そうと思えば、一海兵以下と言われるスパンダムの手でも殺せそうな、それこそ無防備な寝顔。
食事に混ぜていたのは、自白剤の他に睡眠薬を主にした尋問や拷問の類。記憶されていてはなんとなく嫌なので、スパンダムの指示により本人のあずかり知らぬところでの調査を施した。けれど結果は起きているときと変わらず、しいて言えばスパンダムについて知っていることを吐かせてみれば、「へたれ」だとか「ドジっ子」だとか「うっかりハチベエ」だとか良く分からないものばかりで、唯一スパンダムを喜ばしたのは「え、スパンダムって長官なんじゃないんですか」の一言だ。
「おれが長官か」
順当に行けば、必ずたどり着く場所。地位。
けれどそれまでの道のりは、やはり平坦ではない。いくら親の威光を使ったとて、自分自身が動かなければ意味がないのは百も承知だ。使えない将がのうのうと生きていていいのは、本当に下級だ。スパンダムが目指しているのは、そんなものではない。自分勝手に世界をいじられ、自分の意思が響き渡る地位が望ましい。
誰もがスパンダムを尊敬し、畏怖し、崇拝するような人間になるのが望ましい。否、世界は当たり前にそうなるのだ。
「……」
けれど理想と現実が食い違うのはよくあることだ。
まだ焦るような時ではないと分かってはいるが、スパンダムは自覚しているより存外焦れていたらしい。
「馬鹿だな」
撫でる手の下で、穏やかに繰り返される寝息が心地よい。
スパンダムのことを長官だと勘違いしていたゆえの好意かと自己分析してみるが、その程度で女に気を許すほど頭は弱くないと思っているスパンダムは、すぐに首を横に振る。何か知らんが生まれた好意でもない。もっと明確な何かがあるのは分かっているのだが、その明確な何かがなんなのかが分からない。
「」
名前を呼ぶ。寝ているので当然返事はない。
けれど撫でている手の下で、ふにゃりとその顔が柔らかく緩む。スパンダムが驚く間もなく、そのたるみきった雰囲気の笑顔はうっすらとまぶたを上げた。
「……」
「……」
お互い見詰め合って数秒。スパンダムは止めていた手を撫でるために動かしなおすと、うとうととはまた眠りの世界におちていく。なんの言葉も交わさずに、ただ目線が交差しただけ。目が覚めてもいないだろうと、スパンダムの目線が交わっただけの数秒だった。
「…………くそっ」
力なくスパンダムは横を向いて悪態をつくが、その声に力強さはなく顔面は誰が見ても分かるように真っ赤に染め上がっていた。急激な体温の上昇に、スパンダムは舌打ちをする。片手で自分の顔を触れば、鏡を見なくてもそこが熱を持っているのを確認できた。
ふっと、まるで待っていたかのように廊下から扉をノックする音が響く。
スパンダムはその聞きなれた音に顔を上げることなく、低い声で返答をする。顔が赤く声が上ずっていたが、ノックした人物は特に何も言わずに部屋へと滑り込んできた。
「主管、なにかお持ちいたしましょうか」
「ああ。……あぁ、そうだな。水となんか食うものくれ」
「はっ」
いつものように部下が退室するのを横目で見ながら、スパンダムは慌てて言葉を付け足した。
「においの強くねぇやつな」
その一言に部下は足を止め、本当にうっかりといった動きでスパンダムの顔を見るが、即座に頭を下げて了承の言葉を告げた。そしてスパンダムが何か言う前にと、いつもより幾分早足で部下はその部屋を後にする。
スパンダムと眠るが居る部屋は、スパンダムのプライベートな寝室だった。
「……ちくしょう」
スパンダムはもう一度悪態をつくと、片手で自分の顔を覆ったままの頭を撫で続ける。部下に顔を見られたこともそうだが、自分が最後に付け加えた一言にも体温が上がってしまったスパンダムは、俯いた顔のまま自分の手の隙間からの寝顔を盗み見た。
幸せそうで穏やかな寝顔は、スパンダムがここ数年見ていないものだった。
「ばれてやがんな……」
スパンダムが寝ているを気遣って、匂いがきつくないものを頼んだことも、自分が監視だなんだと言いつつ自室につれてきた本当の理由も、女っ気のないスパンダムが色々発注したあれやこれやの理由も。
「あー……」
スパンダムは明確な何かがはっきりとしないまま、けれど状況証拠から自分の明確な理由を察した。