03:まぁ、普通はこうなるわけで

「それで、だ」
 軽い音を立てて、スパンダムの万年筆が紙の上で止まる。が目を向けると、そのままキャップを閉められて机の上に転がされ、両肘を机につき両手の甲に顎を乗せたスパンダムの視線に気づく。
 あ、質問される。
 が勘付くと同時に、スパンダムが首を傾げた。眼差しはまっすぐ、その目の色は真剣そのもの。ほんの少しだけの心が動揺した。
 面識のない男性が目の前に居るということを、嫌と言うほど実感した。
「お前、どこから侵入してきた」
 よどみなく動くスパンダムの舌と、言われた言葉が脳裏に到達するまで数瞬。は動揺を悟られぬように笑みを浮かべた。

 目の前に居るのは、コスプレイヤーでなければスパンダム本人にしか見えない。
 数時間前にみた見事な大騒ぎも、漫画で見た本人そっくりだった。
 だからきっと、これは夢で目の前のスパンダムは本物なんだ。
 だったらきっと、私に危害は加えないだろう。

 そんな自分の考えには何の根拠もないのだと、唐突には気づいた。気づくと同時に恥ずかしさが訪れ、自分の単純で夢見がちで、恥知らずとしかいえない思考に頬に熱が走った。
 なんて甘い考えに至ったんだろうと気づいた自分に、目の前で真剣に自分を見つめるスパンダムの目を見返せない。
?」
 見知らぬ女の名前だと言うのに、真剣みを帯びているとは言え自分の名前を呼ぶスパンダム。
 その声は先ほどと温度を変えずにを呼び、不審者に尋問するというより知り合いにただ質問するような柔らか味を帯びた声音。
 再度の頬に朱色が走った。熱を増した頬を抑えることも出来ず、は自分の馬鹿馬鹿しい行動とそれを強引に尋問していないスパンダムの慎重さに、涙が出そうになった。あんなに馬鹿だ馬鹿だと思っていた人間が、実は自分より懐が深いと分かったときの羞恥を、は今痛いほど感じていた。
 頬を段階的に真っ赤に染め、泣き出しそうに目を潤ませ始めたに、静かに観察していたスパンダムは内心姿勢を正した。
 スパンダムの中では、が名乗りを上げ自分の世話までしたとしても、海賊の女ではないかと言う考えを消していない。不法侵入者ではないかと言う不信感も消していない。自分に取り入るために策を弄しているのだろうという、常の先入観も持っている。
 女はいつもそうだ、泣けば男が油断すると思っている。
 父親が実感を込めてそう教えてくれたことだ、その発言の後に母親にぐうの音も出ぬほど痛めつけられていたが。スパンダム自身にとっても頷けることだと、これまでの経験から学んでいた。
 女は体力的に男より劣る、だからこそ女狐と呼ばれるように小賢しい女は多く、男は常に疑って掛からねばならないのだとすら思っていた。味方にすれば強いかもしれないが、敵にすれば恐ろしいほど小賢しい。基本的に体力も知力も男に劣るのだから、男に大人しく従っていれば良いとすら思っている。

 この名前も偽名ではないかと疑っている。正直に話しているとは到底思っていない。
 スパンダムのその内心に気づいていないは、真っ赤に染めた頬を擦りさり気なさを装った様子で目尻の涙を拭う。
 そして、もう一度微笑んだ。
「分からない。気がついたら海の見える場所に転がってた。あ、違うか、ええと、滝みたいなところ。ほら、ここってぐるっと滝みたいなところに囲まれてるでしょ? その地面のあるところだから、この高い建物の下のほうだね」
 途中、つっかえながらも笑って口を閉じたは、音を立ててつばを飲み込んだ。スパンダムはじっと音もなくを見つめ、小さく人差し指で机を叩いた。
 の肩が跳ねる。
「そうか。気がついたらいたってのか」
「……はい」
 静かな問い掛け口調に、は脳裏で火曜サスペンスだか土曜サスペンスだかの音楽を聴いた。このパターンは疑われているときの常套台詞だ。けれど喋れば喋るほど胡散臭いことも承知しているは、もう一度無理矢理笑みを浮かべてスパンダムを見た。
 感情のこもっていないその目に、一呼吸分の息が止まる。
「……ほんとの事しか、喋ってないよ」
「そうか」
 口調は相変わらず知人に問い掛けるような固すぎないものだが、感情の色が見えないスパンダムの目がの恐怖心を煽った。
 知らない男の部屋で知らない男達が部屋の外にいて、知らない場所の真っ只中知らない立ち位置で知らない事柄を吐けと迫られている、その恐怖。
 冤罪で自白しろと迫られる心境は、これと同じだろうかとは血の気の失せた両手を握り締めた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。数を数えて呼吸を繰り返し、震える唇を引き結んだ。
 自分がなぜここに居るか知らないことを、罪だとは思わない。だから誰かに手を貸してくれとお願いすることも、罪ではないとは自分自身に言い聞かせた。そのお願いを跳ね除けられることは、悲しいかな当たり前のことだと何度もシミュレートして自分に言い含めた。
「分かんないものは分かんないです。有無を言わさず追いかけられたり、こんな風に侵入したとか望んで来たわけでもない場所で言われるくらいなら、……言われなくても、さっさと帰りたいんです。ここ、エニエス・ロビーって聞きましたけど」
 エニエス・ロビーの名前を出すと、スパンダムの目が少し警戒心を帯びた。は軋む笑顔のまま首を振った。スパンダムの警戒心を少しでも解こうと、困ったように眉を寄せた。
「私が知っているエニエス・ロビーは、海賊に破壊されて使い物にならなくなった場所だし、私の住んでいる街や国にはなかったはずの場所。むしろあったら困るくらいの場所だから、ああもう」
 小さく息を吐いて、はスパンダムを見た。苛立ちを含んだ声を漏らす。スパンダムの目は相変わらず感情の読めないものだったが、ほんの少しだけ眉を歪ませていた。
 その唇が動くと、戸惑うように怪訝そうな声を出した。
「破壊された場所だと? 馬鹿なこと言うな、ここにそんな事実はねぇ」
「そんなの見たら分かります。だから、私の知ってる場所じゃないんだから、侵入したもくそもないでしょ。嘘ついてると思うんだったら、検査でも調査でもなんでもしたらいいじゃない。このドジっ子スパンダム」
 スパンダムが当たり前の様に否定した言葉に、は少しだけ安心したが、どうすれば自分が無罪だと知らしめられるかが分からず苛立ちばかりが募っていく。「だから私は知りません」と印象付けたいのだが、どうすればいいのだろうとめまぐるしくに思考を回転させた。でも口から最後に飛び出したのは、子供のような悪口。
 だって、苛立つのだ、死にたくないのだ。自分の命は、目の前のスパンダムが握っているのだ。初対面の見知らぬ偉そうな男の一言で、自分は生きるも死ぬも操られてしまうのだ。
 現実味のない事柄と、けれど確かに感じる圧迫感が心臓の鼓動を早めていく。回転する頭は混乱し続ける。
 時計の秒針、スパンダムが椅子を軋ませる音、の唾を飲み込む音。
 次に動いたのは、スパンダムが先だった。を見つめていた目を一旦瞼の裏に隠し、見たことのない穏やかな微笑みを浮かべて肩の力を抜いていた。
「なら、遠慮なく調べてやろうじゃねぇか」
 何を言われたか分からなかったが意味を理解し、怪訝そうな顔で口を開こうとした瞬間、スパンダムはそのを片手で制止した。悪戯っぽく口の端を上げ、子供の様に何かを企んだ笑みを浮かべていた。
「…………スパンダム、さん?」
「今更気持ちわりぃな。ま、そんなんだったらしかたねぇか」
 なにやら一人でにやつき始めたスパンダムは、片手を下げてまた部下を呼ぶ。はなにがどうスパンダムの中で動いたのか分からず、ただ中途半端に腰を浮かした姿勢で、スパンダムと部屋に入ってきた部下を交互に見るしかなかった。
 スパンダムが笑う。
「この女の過去を調べろ。些細なことでもいい、ああ、待遇は俺の客人扱いにしとけ」
 上にくちばし突っ込まれても面倒だからな。
 信じてくれたのか、それとも何を企んでいるのか。
 スパンダムの言葉ひとつでどうにでもなる存在なのだと、自分の立場を認識する。スパンダムの笑い顔が、楽しそうに見つめてくる。
「ようやく分かったか。お前の立場が」
「……この先、どうするつもりですか」
「そうだなぁ」
 考える素振りでわざと答える時間を引き延ばす様は、本当にいやらしい。早く答えろと心の中でせっつくと、スパンダムは天井を見上げた。
「お前は不審者だ」
「そうですね」
「身分を証明するものを出さねぇ、何もねぇ」
「そうですね」
「傍において監視、幽閉して監視するにしても怪しい事この上ねぇ」
「そうですね」
 すでにお昼の番組のような返答になってしまっているが、スパンダムは何が楽しいのか笑みを崩さない。
「俺が疑って掛かっても、お前をどうしようとも誰も文句は言わねぇなぁ?」
「知り合いなんて現在ここにいませんから、潔白証明は難しいでしょうね」
 でも、私自身は文句言えますよ。
 強がってが睨みつけると、スパンダムはもう一度部下を呼んだ。即座に入室したその部下に、スパンダムは笑顔で告げる。
「部屋をひとつ用意しろ。風呂もトイレもなにもかもついたやつで、俺が行きやすい部屋をあけろ。こいつをしばらく軟禁する」
「……はぁ?」
 思わず口をついて出たの言葉に、スパンダムの笑みがより一層深まる。楽しくて堪らないといったその顔は、いじめる楽しさを知っている子供の残虐さが程よく現れていた。
 部下が退室し、二人だけの空間になってもその場の空気は変わらず、「まぁ、座れ」と嫌に楽しそうなスパンダムに勧められる。
 いつのまにか腰が半分浮いた状態になっていたは、スパンダムの言葉をはっきりと疑いながら渋々腰を落とす。それを待っていたかのように、スパンダムはにんまりと口の端を引き上げた。
「ま、しばらく快適な捕虜生活でも送るんだな」


 は、あてがわれた「軟禁部屋」にて一人頭を抱えて思考能力の正常化に努力を費やした。
 お約束のようにの言葉が信じられて? スパンダムの視線は不審者を見る目つきからは、幾分和らいだと思っていた。すぐに命を奪われなかったし、殴られなかったし、罵倒されなかったし。
 けれどそこで安心してはいけなかったわけで、その自分自身の油断をはしみじみと噛み締めていた。
「確かに、バストイレ付だけどさ」
 軟禁部屋は、もうものの見事に牢獄だった。
 じめじめと壁から染み出る湿気とカビ臭さは、いつから掃除してないんだお前とスパンダムの首を締め上げたくなる不潔さで、レンガの隙間からは風が常時出入りしていて千客万来。かろうじてベッドやシーツなどの寝具類は新しいものなのか清潔で良い匂いだが、部屋自体の不潔さがもう鳥肌モノだった。
「これは一晩でアレルギー出るね。現代人の病弱さなめんなよ」
 自慢にもならない悪態をつくと、は天井から染み込んで落ちてくる水の下に、端の欠けたお茶碗を置く。部下がなんだか困ったように「牢獄にぶちこまれる捕虜セットです」と言いながら渡してきたそれは、もうスパンダムが昼ドラ好きだろうなと思わせるセット。
 欠けたお茶碗、一色染め柄無しの作業服(つなぎ仕様)、なんか哲学とかの本、便箋セットとペン。……何を期待しているんだ、あの馬鹿は。ドジっ子と呼んだのがそんなに気にくわなかったのか。
 しかも国が違う所為か世界が違う所為か。日本語も確か使われていたはずなのに、渡された本の言語は英語系。八つ当たりだが、は力いっぱいベッドに本を叩きつけた。読めるかボケ! と叫ぶことも忘れない。
「……で、いつまで捕虜なんですか。無実なんですけど、潔白なんですけどあったかいご飯食べたいんですけど!」
「……すみません、主管の趣味なんです」
「止めてよ、頼むからさ」
 とりあえず鉄格子の前に椅子を引き寄せて座り込み、監視員の役らしき男性に話し掛ける。
 暇すぎたは、「気が付いたらエニエス・ロビー 摩訶不思議アドベンチャー」と題して、自分の苦労を愚痴愚痴ぶちぶちとその男性に愚痴ってみた。男性は最初の硬い態度は嘘だったかのように、涙ながらにの話に耳を傾けていた。
 ……お前、ウソップの親戚だろうと言いたくなったは、頑張って奥歯を噛み締めた。鼻が長くないところを見ると、父ヤソップの方かしら。暇すぎる思考は通常の三割増で脱線する。
「悪魔の実の能力者が関係しているかもしれませんね。それだと」
「悪魔の? ……なんだって?」
 涙を拭いながら言われたセリフに、思わずの耳が大きくなる。男性はそれに気付かず、鼻をかみながら話を続けた。
「悪魔の実ですよ。ほら、食べるとえらくまずくてでも能力者になれる、あれです」
「……」
 はしばし考えてみたが、上手い切り替えし方が思いつかない。やはり故郷にない名称の食べ物らしきものっぽいので、それ相応の対応をした方が良いのだろうか。
 考える時間はほんの少し長かったが、男性は鼻をかんでいるので特に気にしない程度の時間だったらしい。ちーんっ! と景気の良い音が響く。
 は鉄格子を掴んだまま、首を傾げてみた。
「知らない。なに、それ。能力者って超能力者? スプーン曲げられたりするやつ?」
「……なんですかそれ。能力者は能力者ですよ、ほら、火吹けたり体巨大化出来たり動物の身体能力使えちゃうような、超人になれる果物ですよ」
 男性の冷たい視線も気にしない。本当は無知だと思われて恥ずかしくて堪らないのだが、ここは知らない振りが良いのだとはその羞恥に耐え、無知の振りを続ける。
 首を反対側にかしげ、眉をひそめて男性を怪訝そうな目で見やる。
「……なにそれ、それって手品じゃなくてですか? しかも巨大化とか動物の能力とか、御伽噺の中でしか聞いたことないですよ」
 ごめんなさい、ルフィとチョッパーとルッチにカクにジャブラ。あとはまぁ、皆頑張ろうぜと心の中で懺悔しつつ、は男性の反応を窺う。
 胡散臭いと表情に出してみつつ、は男性の顔を見た。
「お兄さんも、その悪魔の実? を食べたりしたんですか? 食べても巨大化できなかったほう?」
「……本当に知らないんですか? 悪魔の実」
「ええ、そんな物があったら全国のちびっこ達が、こぞって食べたがりそうだなとは思いますけど」
「リスクとして、海水はもちろん水関係全般駄目になるんですよ。流水じゃなかったら動きが鈍くなる程度ですけど、海水はもう駄目。一発で底に沈んで死んでしまいます」
「あ、そりゃだめですね。私の故郷、小さな島国ですからプールや海好きな国民多いですもん。子供たち悲しみますね」
 実際は統計を取っていないので、本当にそんなに好きな国民が多いのかは知らないが、嘘も方便とは困った振りをする。残念だ、と付け加えるのも忘れない。
 男性は先ほどから、なにやら走り書きを机の上でしている。その内容は見えないが、明らかにに対する調書兼報告書だろう。意外に目の前の人物が優秀だったらどうしようと思うが、とりあえず大人しく男性の言葉を待った。
 男性はため息をついて、親指の爪を噛んだ。
「本当に?」
「ええ、悲しみますね。ヒーローごっこを実践できると思ったのに、海に潜れないとかプールで溺れるリスクだなんて、相当でかいショックですよ」
「いえ、そちらでなくて」
 わざと的を外した言葉を返すと、男性は困ったように額を掻く。
 手元の紙をまとめて、失礼の一言を口にして立ち上がった。
「少し用事が出来ましたので、一時間ばかり失礼しますね。その間、別のものが監視に来ます」
「はーい」
 元気よく手を振ると、男性はほのかな笑みを浮かべて手を振り替えしつつ、の視界から消えていった。
「……」
 静かな牢獄の中、辺りの様子を窺うが物音一つしない。
「……」
 ベッド周りなどを手探りで調べてみるが、別になにやら怪しいものも見つからない。
「……はぁ」
 は改めて自分の立場を認識し、脱力しながらベッドにもぐりこんでいった。
 現実逃避は睡眠が一番だ。
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メモ

 スパンダム短編から本編に昇格。