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1.政親が親繁から家督を譲られる

寛政3(1462)年の春、大友氏15代当主の大友親繁は、竹中の勝光寺(しょうこうじ、大分市大字竹中)を訪れた。

竹中の山には、山桜が咲きほこっていた。

勝光寺は大友氏初代、能直(よしなお)の菩提を弔うために建てられた寺として知られている。

親繁は重要な決断をするたびに、この寺を訪れ、能直の霊に報告することを常としていた。

「小僧丸の顔を見て帰るとするか・・・」

親繁の四男として生まれた小僧丸(後の親治)は、母の実家である竹中氏の館で育てられていた。

親繁には、正室(先代当主、親隆の娘)との間に五郎(16代当主の政親)と六郎(後に日田氏を継ぐ親常)、肥前の千葉氏から迎えた側室との間に七郎(後の親勝)を含め4人の息子がいた。

小僧丸は親繁が晩年になって出来た子で、嫡男の五郎と歳の差が20歳あった。

竹中氏の館は鏡城(かがみじょう)と呼ばれ、勝光寺から近い小高い丘の上にあった。

竹中氏は大友氏の一族で、竹中地域の領主でありながら、大野川流域の水上交通を束ねる河川奉行を務めていた。

「ところで、小僧丸は何歳になる?」

親繁は、母親である竹中夫人に尋ねた。

「今年で、5歳になります」

「もう、そんなになるのか・・・。小僧丸、父の所へおいで」

親繁は小僧丸を呼び寄せ、膝の上に抱いた。

息子の重さを体に感じながら、

「この涼しい目元は、誰かに似ている・・・。そうだ、この子は持直(もちただ)殿と同じ目をしている」

と、思った。

大友氏12代の持直は、大友氏として最初に海外貿易を始めた人物でとして知られる。

持直は博多の貿易に関する権利を巡って、時の将軍である足利義教と対立し、幕府の大軍を相手に10年余りに及ぶ戦いを繰り広げ、最後まで負けない戦を展開するという不屈の精神力を持っていた。

親繁は叔父の持直を尊敬し、共に幕府軍と戦った。

「この子が大きくなれば、兄の政親を脅かす存在になるかもしれぬ・・・」

と、親繁の頭の中に不安がよぎった。

親繁の表情を察した竹中夫人は、

「小僧丸、父上はお疲れのようじゃ。向こうに行っておいで」

と、部屋の外に遠ざけた。

「何か、お悩みでも・・・」

「小僧丸は、寺に入れた方がよかろう・・・」

「あの子は、実に聡明だ。わしが死んだ後、家督争いに利用されるかもしれぬ・・・」

「わかりました。あの子には、その方が幸せかもしれません」

と、竹中夫人は、わが子を寺に入れる辛さを耐えながら、涙を流しながら答えた。

こうして、小僧丸は出家し、瑞光寺(ずいこうじ)に預けられた。

瑞光寺(大分市六坊町にあったとされるが、現存してない)は、大友氏中興の祖とされる10代親世(ちかよ)の菩提寺として知られる。

親繁は勝光寺から戻ると、大友館に年寄衆を集め、嫡男の政親に家督を譲ることを告げた。

しかし、政親が19歳の若さであったため、後見人として軍事権を10年間維持し続ける。

その後、親繁は臼杵の戸室の丘に屋敷を建て、そこで隠居する。



2.大内の後ろ盾で、親豊が家督を継ぐ

大友政親が家督を継いでから5年後、京都で「応仁の乱」(1467〜1477年)が勃発する。

この戦いは、将軍足利義政の跡継ぎ問題をめぐり、細川勝元と山名宗全(持豊)が対立し、諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて行われた。

京都を舞台とした約10年に及ぶ戦いで、京の町は荒廃し、幕府の権威も失墜した。

大友氏は東軍として筑前、豊前に出兵し、西軍として京都に遠征していた大内政弘の背後を攪乱したが、深入りすることはなかった。

京都で争いが続いていた間、政親は父(親繁)の支えにより、大友氏の所領である豊後、筑後、肥後の支配を固めていった。

この時、政親には嫡男の鷹房丸(後の義右)と2人の娘がいた。

2人の娘は、後に島津忠昌(島津氏11代当主)と少弐資元(少弐氏16代当主)の正室となる。

しかし、政親の最大の悩みは、嫡男の鷹房丸(6歳)が病弱で、自分の後を継げるかどうかであった。

「父上、鷹房丸には、大友の当主は無理かもしれません。万が一を考えて、小僧丸を還俗(げんぞく:僧侶をやめて世俗の人に戻る)させ、養子にしたいと思います」

政親は、親繁が隠居している臼杵を訪れ、相談した。

「そうか、それもよかろう」

親繁も鷹房丸が家督を継げぬことになれば、再び兄や叔父の家系を含めた一族間での家督争いが復活しかねないので、何としてでも自分の家系の中で家督を継いでいかねばならぬと思っていた。

こうして、瑞光寺の僧侶となっていた小僧丸(14歳)は還俗して、親治(ちかはる)と名乗る。

親治と鷹房丸は叔父と甥の間柄であったが、年の差が8歳ということもあり、政親の子として兄弟のように育った。


鷹房丸が元服する頃、政親の後継者をめぐって家臣団の対立が起きる。

「宿敵、大内氏の血を引く者がお屋形になることは、国人衆が納得できまい」

「嫡男は正室の子と決まっている。これを覆せば、争いのもとである」

家臣団は、親治を押す者と鷹房丸を押す者とで対立した。

多くの国人衆は、先の戦いで大内から侵略された恨みが残っており、鷹房丸の嫡男には反対であった。

不利と見た鷹房丸を擁立する一派は、

「仕方がない、奥方の実家(大内氏)を頼ろう」

と考えた。

鷹房丸の母は、大内政弘の妹である。

政弘は大内氏第14代当主で、周防、長門、筑前、豊前と安芸、石見の一部を領有する西国一の大名であった。

「大内との誼(よしみ)を維持したければ、鷹房丸に家督を譲るべし!!」

と、政弘からの使者があり、政親も迷った。

大友一族の中で最大の実力者である田原親宗に相談すると

「もともと、親治殿は鷹房丸殿が無事に元服出来るまでの予備であった。こうなれば、正室の子が継ぐのが本筋であろう」

と、答えが返ってきた。

国東郷(国東市)に勢力を持つ田原氏は、幕府の奉公衆(将軍直属の軍隊)を務めていたこともあり、守護職の大友氏と肩を並べるほどの勢力を持っていた。

文明16(1484)年、15歳になった鷹房丸は元服して名を親豊(ちかとよ)と改め、大友氏17代の当主となり、大内政弘の娘を嫁に迎える。

一方、家督争いに敗れた親治は、肥後の郡代として府内を去る。

邪魔者のように府内を追い出された親治であったが、

「このまま府内に残るより、肥後に行った方が、安全だ」

と思っていた。



3.親豊と政親の親子対立

大友親豊は15歳の若さで家督を継いだが、政親が後見人として権限を維持し続けた。

「家督を継いだというのに、これでは飾りではないか・・・」

母親の大内夫人は怒りに耐え切れず、親豊を連れて実家の山口に戻り、大内政弘のもとへ身を寄せた。

「落ち着くまで、ここに居たらいい」

と、政弘は妹(大内夫人)と甥(親豊)を快く迎えた。

大内館に滞在していた間、親豊は大聖院宗心(だいしょういん・そうしん)と出会い、意気投合する。

宗心は大友氏13代親綱の六男であったが、家督相続の争いを避けるため、父の菩提寺である大聖寺(豊後大野市犬飼町)に預けられていた。

大聖寺を出た宗心は、各地を回るうちに大内氏の厄介になっていた。

「自分こそ、大友氏の正統な後継者である」

と自負する宗心は、大内氏の力を借りて家督を奪い返そうと企んでいた。

「まず、親豊の信頼を得ることで、実権を握る。それから、大内氏の後ろ盾で、家督を奪う」

と考えた。

翌年、宗心は大内政弘の使者として府内へ赴き、政親と親豊の和解を進めた。

「大内からの使者が誰かと思えば、宗心殿であったか・・・」

「大聖寺を出てから諸国を流浪していましたが、今は大内殿の厄介になっております。微力ながら、お役に立てればと思って、まかり越した次第です」

「宗心殿の大友家を思う気持ちは、よくわかりました。親豊が20歳になったら、後見人を退くとしましょう」

宗心と政親の話し合いで父子の和解が成立し、親豊は府内へ戻る。

長享3(1489)年、親豊が20歳になったので、政親は約束通り後見人を退き、直入郡の朽網(竹田市長湯町)で隠居する。

3月26日、9代将軍の足利義尚(よしひさ)が、近江の六角氏を討伐中に鈎(まかり)の陣中で病死した。

政親は、義尚の葬儀に参列し、その後の情勢を探るために京へ上った。


政親が留守の間、日田(大分県日田市)で事件が起きる。

平安時代以来、日田は大蔵姓日田氏が郡司職を世襲していたが、文安元(1444)年頃、一族によるお家騒動で血脈が絶えた。

そのため、大友親隆(14代当主)の嫡男(親満)が養子となったが、子が無かったので大友親繁(15代当主)の次男(親常)が日田氏を継いでいた。

親常は日田郡守と称して、朝鮮との貿易を行っていたことで知られている。

親常が早世し、息子(親有)が幼かったので、叔父の親勝(親常の弟)が後見人と称して、日田城(日田市北豆田(慈眼山公園)に居座った。

「大殿(政親)の命で、私が郡司を務める」

親有は真意を確かめるため府内を訪れ、親豊に面会した。

「大殿が親勝殿に日田の郡司を任せるとは、本当でしょうか?」

「そんなことは知らん。父上から、聞いておるか・・・?」

と、傍にいた宗心に聞いた。

「いいえ、存じませぬ。勝手に郡司を名乗るとは、守護に対する謀反でござる」

と、宗心は言葉を返した。

「許せぬ・・・。ただちに討伐軍を送り、成敗しろ!!」

親豊は謀反人を成敗するとして、軍勢を府内に集めた。

「これで、政親、親豊親子の仲を裂くことが出来る・・・」

と、宗心は心の中で笑っていた。

実は、政親が親勝を郡司に任命すると偽の書状を出したのは、宗心であった。

更に、宗心の提案によって、日田攻めの総大将に親治が選ばれた。

「一族の中で兄弟同士が殺し合えば、家督争いの相手が減ってよかろう・・・」

と、宗心は政親の留守を狙って、次々と策謀をめぐらせた。

「ただちに出陣し、謀反人(日田親勝)を討伐せよ!!」

肥後の親治のもとに府内からの命令が届いた。

「兄上(親勝)を討てと・・・。どうせ、宗心の差し金であろう・・・」

討伐軍への参加に不満を示していた親治であったが、しぶしぶ出陣する。

親治の攻撃に日田勢は敗れ、親勝は逃げたが、肥後の山中で討ち取られた。


京より戻った政親は府内を訪れたが、家臣らに阻まれ、親豊に会うことが出来ぬまま、瀧河内(現由布市庄内町大字淵)へ逃れた。

「なんと、私が日田の謀反に加担していると・・・」

宗心が、府内の町中に噂を広めていた。

大友館では政親寄りの年寄衆が退けられ、宗心の言いなりになっていた。

宗心の横暴に郷を煮やした政親は、宗心討伐の書状を国内の有力武将に送る。

「親豊はまだ若く、世間の事をよく知らないので、宗心の讒言(ざんげん)に惑わされている。親豊を正しい方向に導くために奸臣を成敗するので、味方してくれ!!」

政親に味方する武将が次々と府内をめざして集まってきた。

「これは、まずい。ひとまず逃げねば・・・」

形勢の不利を悟った宗心は、親豊を連れて佐伯の堺に逃れた。

「しばらく佐伯に逗留し、和睦の道を探りましょう」

「わかった。では、叔父上(政弘)に頼もう」

親豊は和睦の仲介を依頼する書状を書いた。

突然、大内氏から和睦の使者が来たので、政親は疑った。

「さては、大内も絡んでいるのか・・・?」

「宗心の首を差し出せば、和睦に応じる」

と、政親は大内の使者に答えた。

交渉の結果、宗心を国外に追放することで和解が成立し、親豊は府内へ戻る。

豊後から追放された宗心は、再び大内に庇護されることになった。



4.越中公方からの援軍要請

明応2(1493)年、京都で「明応の政変」が起こる。

明応の政変とは、10代将軍の足利義材(よしき)が河内(現在の大阪府)に出陣中、前管領の細川政元と日野富子(8代将軍足利義政の正室で9代将軍義尚の母)が組んで、足利義澄(よしずみ)を11代将軍に擁立したクーデターのことである。

京都を制圧した細川政元は、義材に味方する者をことごとく粛清した。

義材は政元に捕えられ幽閉されるが、側近の手引きで京都を脱出して越中(富山県射水市)に逃亡する。

越中では畠山氏、朝倉氏、富樫氏、上杉氏など北陸の守護、国人衆の支援を得て、越中公方(くぼう、将軍と同意)と呼ばれるようになる。

翌年の4月、越中の義材から細川政元討伐の協力要請を働きかける書状が大友親豊のもとに届いた。

「私が正統の将軍である。この乱れを正すため、私に味方してくれ」

義材は各地の有力守護大名へ、同様の書状を出していた。

親豊は、叔父の大内政弘からの勧めもあり、

「越中公方(義材)殿に忠節を誓います」

との書簡を送り、味方することを申し出る。

喜んだ義材は、親豊に自分の名前の下の字を与え、材親(きちか)と名乗らせ、修理大夫(しゅりだいぶ)の官職を与えた。

「公方様は私を頼りにしている。大内殿と力を合わせて京に上り、天下に大友氏の名を轟かせてやる!!」

と、義材から名前と官職を与えられた材親(親豊改め)は、意気揚々だった。

しかし、この話を聞いた政親は、材親の行動に危険を感じた。

「なんと愚かな、今さら、落ちぶれた前将軍を助けるとは・・・・・」

政親は材親の考えを改めさせようとしたが、聞く耳を持たなかった。

このことを、田原親宗に相談すると、

「私に任せていただければ、何とかしましょう・・・」

と、快い返事がきた。

親宗は国東から2千の兵を引き連れ、府内館を囲み、

「どうか、上洛を考え直してくだされ!!」

と迫った。

親宗の力による説得は3日に及んだが、材親の意志は変わらなかった。

そこへ、親治が肥後から兵を率いて、田原勢を襲った。

背後を襲われた田原勢は総崩れになり、親宗は船で国東へ退却した。

親治は府内の大友館に入ると、まず、材親の安否を確かめた。

「お屋形様、ご無事ですか・・・?」

「兄上、助かりましたぞ・・・」

材親は、親治の手を握って礼を言った。

「田原には用心した方がいい。隙があれば、守護職を奪い取ろうと企んでいる一族でござる」

「そうか、危なかった。このままでは、おかぬぞ!!」

親治の話を聞いた材親は、次第に怒りが込み上げてきた。

「安心なさいませ。今頃、親宗は我が手勢の餌食になっておりましょう」

この言葉で、材親の怒りは収まった。

明応3年5月24日、親宗は船で国東へ戻る途中、蓑崎(杵築市大字狩宿美濃崎)で木付親久に攻められ、5百の兵と共に討ち死にする。



5.政親、義右親子の死

明応3(1494)年9月、越中に逃亡していた越中公方の足利義材が挙兵し、大友材親にも上洛の命が下った。

しかし、父親の政親が上洛に反対することで、家中がまとまらず、材親は上洛できずにいた。

翌年6月、義材は材親がいっこうに上洛しないので、催促する使者を送ってきた。

「公方様は、材親殿を頼りにしております。その証として、自らの名前である義の字を取って、義右(よしすけ)の名を授与すると告げられました」

このことは、義材の義右への期待が大きかったことがうかがえる。

「必ず上洛しましょう。なにしろ長旅でござるから、準備に手間取っています」

使者の言葉に感服した義右(材親改め)は、上洛を約束する。

大友氏で、名前の上の字に「義」が付くのは、義右が初めてのことである。

これ以降、大友氏の当主は将軍家より偏諱(へんき)を受け、名前の「義」の字をもらい、義長、義鑑、義鎮、義統と続くことになる。

ところが、一緒に上洛するはずであった叔父の大内政弘が9月に病死し、再び上洛は延期されることになった。

大内氏は嫡子の義興(よしおき)が18歳の若さで家督を相続したが、大内家中での対立などがあり、義興の地位は不安定であった。

12月、将軍義材より、再度の催促状が届く。

「義右は、まだ上洛せんのか・・・?」

しかし、義右は動ける状態ではなかった。

この時、義右は病が重くなり、床に臥せっていた。

急遽、政親が大友館に戻り、守護職の代行を務めるようになった。

かねてより病弱な義右であったが、これまでの上洛をめぐるストレスにより、病気が悪化したものと思われる。

その頃、京都で新将軍(義澄)を擁立し、管領に返り咲いた細川政元から書状が届く。

「大内氏を攻め、周防から動けぬようにせよ・・・」

政元は安芸の武田氏、筑前の少弐氏などにも呼び掛け、大内氏の領国を一斉に攻撃するよう求めた。

「政弘亡き後、若輩の義興では大内はまとまらないであろう。攻めるなら、今だ!!」

大内攻めを決心した政親は、肥後から親治を府内に呼び戻した。

「お屋形(義右)に万一のことがあれば、塩法師丸(親治の嫡男)を義右の養子として家督を継がせろ。成人するまで、そなたが後見人じゃ・・・」

こう言い残して、政親は大内攻めに向かった。


明応5(1496)年の正月、少弐政資は政親の協力で筑前から大内軍を追い出し、悲願であった大宰府を奪還した。

5月27日、政親が豊前に出陣中、病で臥せっていた義右が死去した(享年27歳)。

これまで政親と義右が対立していたこともあり、巷(ちまた)では、政親が毒殺したという噂が流れた。

義右が病死したころ、政親は大内義興の反撃に会い、捕えられて長門国の船木地蔵院(宇部市大字船木野田)に幽閉された。

「義右が死んだか・・・。親治、後は頼んだぞ!!」

6月10日、義興の命により、政親は自害させられた(享年53歳)。

政親、義右親子が揃って急死したので、大友家中は大混乱となった。

「お屋形様の遺言では、親治殿が次の当主に・・・」

「遺言なんか、あてになるか。大内との関係を考えれば、大聖院殿がいい」

と、家中は親治派と宗心(大内)派に分かれた。

親治は、黙って様子をうかがっていたが、

「宗心(大内)派の勢力が、これほど多いとは・・・」

と、大友氏の行く末を案じた。

「混乱に乗じて大内に付け込まれる前に、一気に片を付けなければ・・・」

と、起死回生の策を立てる。

親治は葬儀を済ませると、大友館に年寄衆を集め、

「先代(義右)の遺言に従って、大友氏の家督を継ぐことにする。反対する者は、この場から去られよ・・・」

と告げた。

市川親清、田北親幸、朽網繁貞などの反対派の年寄が、不満を言いながら、次々と館を出て行った。

館を出た十字路には、親治の手勢が待ち構えており、反対派の年寄は次々と討ち取られた。

親治は粛清の手を緩めず、反対派の一族をことごとく成敗した。

これが、俗にいう「御所の辻合戦」または「御所辻の乱」である。

こうして、親治は混乱を収拾し、大友宗家を継いだ。

翌年の2月、親治の嫡男、塩法師丸は元服して親匡(ちかただ) と名乗る。

親治は、将軍足利義澄(よしずみ) と越中公方の義材(よしき) の両者に対し、親匡への家督譲与の了解を求めた。

これに対して、大内義興は親匡の家督相続に異義を唱え、大聖院宗心を擁立して、干渉してくる。

明応7(1498)年、親治は豊前国下毛郡(現在の大分県中津市)の戦いで、大聖院宗心を擁立する大内軍を破り、親匡への家督を認めさせた。



6.戦国大名への道

文亀元(1501)年、大友親治は親匡(ちかただ、後の義長)に家督を譲って隠居したが、なおも、実権を掌握し続けた。

親治は義長の補佐をしながら、方分(かたわけ)、諸奉行、検使等による領国支配体制を充実していった。

方分とは、新たに切り取った他国の領地(征服地)を支配するための軍事、行政権を統括する大友氏独特の職制で、守護代や郡代が進化したものである。

また、必要に応じて諸奉行(各部門の行政責任者)や検使(監査役)が設けられ、事に当たらせている。

大友氏の重臣である年寄を加判衆(かばんしゅう)と改め、同紋衆(大友一族、譜代)3名、他姓衆(国人)3名の合計6名によって構成するものとした。

さらに、永正12(1515)年、大友氏最初の分国法となる「大友義長条々」を発布するなどのことをした。

この分国法は、戦国時代への扉を開いたといえる「朝倉孝景17箇条」とともに戦国時代の分国法として名高い。

こうして、親治は着実に大友氏の基盤を強化し、大友氏の戦国大名化に尽力した。

永正15(1518)年、親治は、息子の義長が自身に先立って死去するという不幸に見舞われたが、孫の義鑑(よしあき、宗麟の父)を補佐し、大永4年(1524年)に64歳で死去する。



作成 2015年7月20日 水方理茂


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