Sweet pain2




「私は―――――」

 言いかけて一度言葉を止めた私に、やっと裕紀兄さんは本から視線をこちらへ移した。

 それを確認して、私は言葉を続ける。

「今の私はまだ子供で何も出来ないけど。でもいつか必ず裕紀兄さんの役に立って見せるから。だからこの家にいさせてください」

 裕紀兄さんに見られないように、震える両手を後ろ手に握る。

 今、私が彼を怖がっていると気づかれたらそこでアウト。きっと・・・いや、間違いなく私は宿無し少女になるだろう。

 だってこの人は自分を怖がったり、嫌っていたり、そういう負の感情を持っている人や、自分が気に喰わない人には容赦がないから。

 大伯母様のように自分にとって役に立つ人間だって、彼はいとも簡単に切り捨てる。それなら彼にとってなんのメリットのない私なんて、私が彼を怖がっていると知られたら簡単に切り捨てるだろう。

 そしてきっと、そうなったら私がどんな生活を送るだろうなんて、気にも留めないのだ。

 『だから絶対に気づかれちゃダメ』

 そう思って後ろ手に握った、震えそうになる掌にギュッと力を込める。だけど、それは彼にとっては子供騙しだったらしい。

 裕紀兄さんは目をスッと細めて片唇を吊り上げる。

「お前今、俺とこうやって話してる事が怖いんだろ。そして俺がそんな人間にどう接するか知ってる。違うか?」

 嘘は許さないと言わんばかりの声色に、私は観念して頷いた。

 だってもう、本当に怖いのだ。

 美咲には冗談口調でああ言ったけど、本当に怖いのだ。

 裕紀兄さんもそうだけど、これから一人で生きていかなくちゃいけないかと思うと、怖いとしか言いようがない。

 怖いのは孤独とかじゃない。孤独なら耐えられるし、今までだって似たようなものだった。

 でもこの歳で行き場をなくして、私はどうやって生きていけば良い? 料理どころか、ご飯の炊き方だって知らないし、掃除も洗濯もまったく出来ない私が、行く場所もなくポンと外に放り出されれば、その先は自ずと決まってくる。

 死。

 大袈裟かもしれない。施設とか、この村の誰かの家に預けられるだけかもしれない。

 実際にはそちらのほうが現実的だろう。

 でもそのどちらもまったくと言って良いほど私には実感がわかなくて、頭の中に浮かぶのは行く当てもなく、ただフラフラと歩き回って、そして朽ちていく自分の体。

 今までも何度か、なんとなくそんな想像をしたことはあったけど、ここまで実感が伴った事はなかった。

 怖かった。実感を伴った死の想像なんてこれ以上したくなかったし、そんな恐怖を私に簡単に抱かせる彼が怖かった。

 そしてこの家で生活する限り、そんな想像をこれからずっと背負って生きていかなければいけないのかと思うと・・・。

 そんな私の恐怖を感じ取ったのか、裕紀兄さんが再び薄い笑みを浮かべる。

「俺が怖いなら、何でこの家に居たいなんて思う? ああ、あれか。行く当てもない後ろ盾もないお前を、俺がポンと放り出すとでも思ってるんだろ?」

「・・・はい」

 私の考えが何もかも見透かされてるなら、下手な嘘はつかないほうがいい。

 裕紀兄さんが怖い。

 この人の、何を考えてるのか悟らせない無表情を装った顔が、言葉が、態度が。怖い。

 だけどそれ以上に一人は怖い。

 精神的にじゃない、肉体的に一人は怖い。それは本能が発する警告。

「確かに裕紀兄さんが怖いです。あなたなら行く当てもない私を放り出すぐらい簡単にやってのけると思ってます。それにビクビクしながら一生暮らしていくのかと思うと怖いです。でもそれ以上に死ぬのは怖いです。一人は、怖いです。・・・だからここに置いて下さい、ここにしか私の居場所はないんです。そのためなら、私は何だってするつもりです。あんな怖い想像をするくらいなら、もしあなたが望むなら、今私が自由に出来る唯一の物・・・この体だって差し出しますから・・・だから」

 ココニイサセテクダサイ。

 そんなふうに。

 必死に。必死に。

 神様だとか仏様だとか、子供の当たり前で簡単で些細な願いすら叶えてくれない、そんな訳のわからない存在じゃなくて。

 私はあなたに祈ります。

 


 高志のアパートから戻った私は、いつものように裏口の脇にバイクを止め、そっと裏庭に入る。

 息を殺してそっと周囲を探る。

 別に隠れる必要はないんだけど、高志の部屋で一泊してきたという後ろめたさからか、部屋に戻って一息つくまで、出来るだけ誰にも会いたくはなかった。

「うん、誰も居ないみたいね」

 自分自身に納得させるように小さく呟いて、出来るだけ足音を殺しつつ裏庭から離れの玄関に向かっていた私の目に飛び込んできたもの。

 静かに、まるで一枚の絵画のように。

 縁台に腰掛ける沙夜子姉さんと、その膝を枕に眠る裕紀兄さん。

 今一番会いたくなかった二人の、そんな光景はもはや日常茶飯事になっているのだけど。言ってしまえば見飽きているのだけど。

 それでも胸の奥にチクリ、チクリと痛みを感じる。

 本当は二人のそんな姿一秒だって見ていたくないんだけど、世の中にはどうしようもない事っていうのが本当にあって。私にとってはこの光景が、二人のこうしている事が当たり前なこんな関係が、もう本当にどうしようもない事で。

 でも遠くから眺めているだけでいいなんて、そんなふうに思えるほど私は無欲な人間ではないから。

 だから私は胸の奥の疼くような痛みを我慢して、そっと二人に近づく。

「あら、朋子ちゃん・・・お帰りなさい。高志君は? 元気だった?」

 私の存在に気づいて微笑んだ沙夜子姉さんは、ちょっと逡巡した後、悪戯を思いついた子供みたいな意地悪な笑みを浮かべる。

 顔は私に向けながらも、その手はさっきからずっと裕紀兄さんの頭をゆっくり撫でていて。

 人から触れられる事を嫌う兄さんが、唯一そんな行為を許容している彼女のその手に心の中で眉を顰めながら、私は肩を竦めて笑って見せた。

「一応生きてはいたけど・・・って言うか、高志の所に行ってたのバレバレ?」

「いつもの事だしね。あなたがどこに行ってるか気付いてないのは、瑞香ぐらいでしょ」

 私と高志の関係がばれてないとは思っていなかったし、だからこそ高志の部屋で一泊してきた日はコソコソと裏口から帰っているのだけど、でもこうして面と向かって言われるのは初めての事で。何かあったのだろうかと思わず勘繰ってしまう。

 そんな考えが顔に出ていたのだろう。沙夜子姉さんは裕紀兄さんの顔を一瞬見下ろしてから言葉を続ける。

「裕紀がね、心配するのよ。『あいつらちゃんと避妊してるのか』って」

「なっ・・・」

 あまりにも直接的な言葉に、私は言葉を無くす。

「ビックリするでしょ? 裕紀の口から『避妊』とかそんな言葉が出るなんて。でも裕紀が心配するのもわかるから、私も一度釘を刺しておこうと思ってね」

 あまりに直接過ぎる言葉に沙夜子姉さん自身照れてるのか、ちょっと頬を染めながら、それでも表情を改めて真剣な眼差しで私を見つめている。

 もちろん私と高志だってその辺の事はわきまえているし、高志のことは好きだけど、愛してはいないから。

 愛してもいない男の子供なんて私は欲しくなかったし、そんな子供を私が愛せるとも思っていない。親から愛されることのない子供がどんな気持ちで育つかなんて、私が一番良く知っているから。

 その事は高志も理解しているのか、今まで一度だって無理強いされた事はなかった。

「・・・裕紀兄さんには『ご心配なく』って伝えて? 私、子供は欲しくないから」

 だって親から愛されずに育った私に、子供を愛する事が出来るのかって考えたら怖いから。子供に辛く当たっている自分の姿をもし想像しようものなら、その想像だけで私は自分が許せなくなる。

 そしてそれなら、最初から子供などいらないと思っていたほうがいいでしょ?

「・・・朋子ちゃん、私はね・・・ううん、これは朋子ちゃんが自分で答えを出すものよね」

 沙夜子姉さんの言葉の続きは容易に想像がついたけど、『あなたなら大丈夫だと思うから』とかそんな言葉だろうけど。

 だけどね、沙夜子姉さん。

 あなたの事は好きだし、尊敬しているけど。

 私はあなたのそんな安易でお人よしな考えだけは、嫌いなんです。

 だって、それは私がきっと一生かけても持ち得ないものだろうから。

 あなたに勝てない理由を突きつけられているみたいだから。

 だから・・・そんなふうに微笑まないで下さい。

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