Sweet pain3




 いかに追い詰められていたとは言え、体を差し出すからここに置いてくれなんて、我ながら凄い事を言ったものだと思うけど、でもこれは本気で言ってて。

 それが伝わったのか、私の言葉に珍しく唖然としている裕紀兄さんの前で服のボタンを外しはじめると、我に返った裕紀兄さんは慌てて私の腕を掴んだ。

「何、馬鹿なこと言ってるんだ? ・・・大体な、お前のその貧相な体に俺が欲情するとでも思ってるのか? お前が馬鹿なのはわかってるけど、俺まで一緒だと思うなよ? この馬鹿」

 一度大きく深呼吸して落ち着きを取り戻したらしい裕紀兄さんから、ボタンを留めろと促された私は、そっと兄さんの手を引き剥がし、今外したばかりのボタンをブルブルと震えの止まらない手で留め始める。

「ほらみろ。馬鹿な事考えるからだ」

「馬鹿馬鹿ってウルサイなー」

 確かに馬鹿な事をしてるって、自覚はある。

 でもたてつづけに馬鹿と言われて、さすがに私もカチンときたから俯いたままそう呟くと、大きなため息と一緒にスッと伸びてくる裕紀兄さんの手の気配。

 それを感じて思わず体を大きく震わせて、その瞬間『あ、マズイ』と思ったけど、もうやってしまった無意識の体の反応はどうしようもなくて。

 そしてそれを察した裕紀兄さんの手が、私の頭のすぐ上で止まった。

「えっと、ね。今のは兄さんが怖いとか言うじゃなくて・・・えっと、ほら。私さっき馬鹿な事したから、それで拳骨が飛んでくるじゃないかなーとか・・・そんなふうに・・・思っちゃって・・・」

 どんどん尻すぼみになる私の言葉。

 まったくの嘘ってわけじゃないけどじゃないけど、私が兄さんの手に反応した本当の理由が別のところにある事は、裕紀兄さんもわかってるだろう。きっとこの人の事だから私が自分を恐怖の対象としてるからとか、そんなふうに思ってるんだろうけど。

 それもまったくの間違えじゃないけど。そう間違われたら本当は私としては困るんだけど。

 でも、ワンピースのボタン三つ四つ外す間に感じた事。

 私が女で、この人が男だという事。

 その事に戸惑ったのだという事。兄さんの手に本能的な恐怖を感じたのだという事。

 その本当の理由だけは、絶対に悟らせるわけにはいかなかったから。

 それを知られるぐらいなら、兄さんの間違いを正さないほうがまだマシだ。

 だってそれを知ったら、私を女だとは思っていないこの人はきっと傷つくから。

 そしてこの人を傷つけちゃいけないというのは、子供の頃から私達が沙夜子姉さんや美央美姉さんから刷り込みのように、何度も何度も言い聞かされてきた事。

 きっと限界ギリギリで踏み止まってるこの人を、これ以上壊さないために・・・。

「えっと・・・兄さん?」

 私の頭上で手を止めたまま微動だにしない兄さんに、俯いたまま上目で恐る恐る声をかけると、頭の上にちょっと大きくて無骨で温かい手の感触。

 そしてぎこちなくちょっと乱暴に、でも痛くないぐらいの強さで、髪の毛をグシャグシャにされる。

 その行為を一瞬嫌がらせかと思ったけど、兄さんによくそうされてる沙夜子姉さんの事を思い出して、その時の兄さんと、沙夜子姉さんの表情を思い出して。

 そして思ったのは・・・

 ああ、この人はなんて不器用なんだろう。

 そんな事だった。

 だってそんな時に二人が浮かべる表情はとても温かくて、とても優しいものだったから。

 そしてぎこちない手つきは、きっと人に優しく接する事に慣れていないのだろうから。

「バーカ」

 だから。

 頭上から降ってきた声と、今あなたが浮かべている表情がとても優しいものなのだろうと、そんな事を勝手に想像している私は自惚れていますか?

 ねぇ、兄さん。

 


 兄さんの部屋から出るとまるで待ち構えていたかのように、今にも泣き出しそうな顔で高志が立っていた。

 いや、美咲から私が裕紀兄さんに呼ばれたと聞いて、実際に待っていたんだと思う。

「兄さん。なんて?」

「え? うん、怒られた。とりあえずね・・・離れを自由に使っていいって」

 私の答えに高志は眉を顰めて首を傾げる。

「・・・それは良かったけど。でも、何であの人が怒るわけ?」

 確かに普通に考えたら、兄さんが私の処遇を決める場で怒る理由なんてないんだろうけど、その理由を今ここでこいつに話す訳にはいかなくて。

「私が馬鹿だったから・・・かな」

 そんな答えになってるかなってないか微妙な言葉で問いに答える。

 私の言葉に納得はしてないんだろうけど、でも高志はそれ以上問い詰める気はないらしく「ふーん」と頷いて。

 そしてもう癖になってるんじゃないかって思うぐらい、最近私が頻繁に聞く台詞を言いながら私の手を引っ張って自分の部屋へと歩き出す。

「あの人のわがままから、朋子だけは守ってやるから」って。

 


「あー、ハイハイ。あんたの兄さん談義はもう聞き飽きたから」

 駅前の比較的大きな通りに面してるとはいえ、こんな田舎では通勤通学の時間帯である朝や夕方ならともかく、昼間はまったくと言っていいほどお客のいないコンビニの店内。

 そこで高校時代の同級でバイト先の同僚でもある、草田朔なんて回文な名前を持つ彼女は、レジ台の上に頬肘ついて私にむかってヒラヒラと手を振って見せた。

「とりあえず朋子さんや。一つ言ってもいいかい?」

 ニタニタと笑いながら言葉を続ける彼女に、なんとなく美咲の姿を重ねてしまう。それだけでもウンザリって感じなのだが、その後の言葉も想像が付くからため息をつき、あんたが先に兄さんの話しをもちかけたんでしょなんて思いながら「どうぞ」と先を促す。

「あんたMでしょ」

「Mって?」

「マゾヒスト」

 そんな高校時代からまったく変わらない会話を交わしつつも、ふと気付くと頭の片隅ではいつだって兄さんのことを考えてる。

 そんな自分にちょっと苦笑いを浮かべていたら、朔はその表情だけで私の考えてる事を読み取ったらしい。

「色々考えても仕方ないんじゃない? 恋愛ってそんなもんでしょ。ま、私にはあのお兄さんのどこが良いんだって思うけど。・・・あの手強そうなお姉さんの事も含めてね」

 本当に朔の言うとおりだ。自分でもあの人のどこが良いのかさっぱりわからない。

 ずぼらだし、いい加減だし、面倒くさがりだし、怖いし、年がら年中ムスッとしてて何考えてるかわからないし、沙夜子姉さんがいつだって側についてるし。

 だけど、本当に時々だけど笑顔や優しさなんて、そういう普段の裕紀兄さんからかけ離れたところにあるものを私に向けてくれると、もうどうしようもない位に胸が痛くなる。

 いっそ過去も未来もプライドもなにもかも、自分の全てをなげうってこの想いを告げようと思った事も何度かあるけど、でも。

 その度に思い出すのだ。

 あの時の事を。

 私が女で、裕紀兄さんは男だという事。

 裕紀兄さんの手に本能的な恐怖を感じたのだという事。

 そして思い知るのだ。

 あの人にとって、私は女ではないという事。

 あの人と沙夜子姉さんとの、絆の強さを。

 それは。

 何年もかけて培ってきただろう絶妙な二人の呼吸だったり。沙夜子姉さんの膝を枕に眠る裕紀兄さんの姿だったり。沙夜子姉さんだけに向けられる特別な優しい顔だったり。

 そんな姿を見て、全て私には到底無理な事だって思い知らされるから。

『裕紀兄さんを傷付けるわけにはいかないから』あの時はそう考えたけど。

 あの時は本当にそう考えていたけど、でも今は違う事を私は知っている。傷つけるのが怖いんじゃなくて、傷つくのが怖いのだ。

 裕紀兄さんの答えを知っているからなおさら。自分が傷つくのを知ってるから。

 そんな私の考えを知ってか知らずか、朔が言葉を続ける。

「恋愛なんてさ、本人達も周りも絶対誰かしらが傷付くんだよね。誰も傷つかない恋愛なんてそんな綺麗な物ありえない。・・・だからあんたも相手を傷つけるのがイヤなら自分が傷付けばいいし、自分を傷つけるのがイヤなら相手を傷つければいい、両方傷つけるのがイヤなら私も含めて周りを傷つければいいよ。それぐらいであんたの友達やめるつもりは私も美咲もないからさ。だから・・・バーンと当たって砕けちゃえ」

 朔のその言葉に一瞬感動しかけて、でも何かがおかしい事に気が付いて、冷たい目で見つめていたら私が聞きもしないのに彼女は「あー」なんて意味のない声を発しならがら、頭を掻いて種明かしを始めた。

「あんたがバイト休みで宮野の所行ってる時さ、美咲がここにチョクチョク顔出すんだよ。『お互い暇ですねー』なんて嫌味言いながら。で、事務所の中であんたのここ最近の動向をあいつが漏らしてくのね。幸いここは飲み物もお菓子もタバコも時間も不自由しないからさ。だから最近あんたが悶々としてる理由も、バーンと当たって砕けちゃいそうなのも知ってる」

 その言葉に美咲と朔、彼女達に軽い殺意を抱いたのはこれで何度目になるだろう。きっと両手両足では数え切れない位はいってるんじゃないかと思う。

 でも彼女たちのそんな冷やかしがなければ。彼女たちが私の中に溜まったガスを抜いてくれなければ。私はきっと兄さんを思い続ける事に絶望していただろうから。

 だからそんな友達想いの彼女達のためにも。

 もうちょっと、あなたの事を想っても良いですか。兄さん。

| Back | Index | Next |