寂しいアヒル6




「だから私は、あんたが大嫌い」

江里子ちゃんの口から飛び出したその言葉は、私にとってとても嬉しいものだった。

勿論面と向かって大嫌いと言われ、それが嬉しいなんていう事が変な事だというのはわかってる。

でも、それでも、同年代の子達皆から遠巻きに眺められるばかりだった私にとって、大嫌いなんていう正直で激しい感情を、真正面からぶつけられた事が嬉しかったのだ。

それが顔に出ていたのだろう、それまで私を睨みつけていた江里子ちゃんの表情が怪訝そうな、そんな表情へと変わっていた。

でもそれは至極当然な反応だと、自分でもわかっている。だから私は照れ隠しもあって、ちょっと顔を引き締めた。

「私が江里子ちゃんを哀れんでると・・・そう思ってるの?」

江里子ちゃんのアヒルの子云々と言うセリフは、私には難しくてなんだかよくわからなかったけど。でも最後の、哀れみの眼差しと言う言葉が、彼女が言いたい事を要約しているんじゃないかという事だけは、私にだってなんとなく理解できたのだ。

哀れみ。確かに私が江里子ちゃんや朋子姉様に感じている感情を表すには、一番近い言葉なのかもしれない。

でもなんとなく、彼女が言う哀れみと、私の中で消化しきれない江里子ちゃん達に対してのそんな感情は、必ずしも同じものではないように思う。

それは水と氷のように本質は同じでも見た目が違う、って言う位の違いでしかないのかもしれないけど。でも氷は氷、水は水と言葉を使い分けているからには、そこには何か確固たる違いがあるはずなのだ。

だからこのモヤモヤは哀れみという言葉に近いのかもしれないけど、でも私の中でしっくりこないからには、きっと違う何かなのだと思う。

「あんたから江里子ちゃんなんて呼ばれる筋合いはないけどね。まぁそんな事はどうでもいいわ。・・・そうよ、違うって言うの?」

私から視線を外して、皮肉というよりは自虐的な笑みを浮かべながら、鼻で笑う江里子ちゃん。

『私、江里子ちゃんを哀れんでる?』

もう一度考えてみても、それを否定する事や肯定する事が出来るほど、私の中の江里子ちゃんに対する感情はまだハッキリとした形を成していない。

ただ今言えるのは、どちらもなんとなくしっくりとこないと言う事だ。

そんなふうになんと答えていいのかわからず、俯き黙りこんだ私を江里子ちゃんはまた鼻で笑い飛ばして、言葉を続ける。

「あんたも私の噂を色々聞いて、それで可哀相だって思いながら、廊下ですれ違うたび私の顔を覗き込んでたんでしょ。それを哀れみと言わずになんて言うの?」

「・・・江里子ちゃんは、私に哀れんで欲しいの?」

それは深い考えなどない、彼女の言葉を聞いていてなんとなくそう感じたというだけの、何気ない疑問だった。

哀れだと、可哀相だと言いなさいと強要されているよな、そんなふうに感じた。ただそれだけの何気ない疑問だったのだ。

だけどそれは彼女にとって何気ないなんて、可愛げのあるものではなかったらしい。

「な・・・ば、馬鹿なこと言わないで!」

叫ぶように張り上げられた声に驚いて俯いていた顔を上げると、そこには真っ赤な、これ以上はないというほど憤怒の形相で、私を睨みつけている彼女の顔。

だけどそれを怖いとは思わなかった。年上の江里子ちゃんに対してこんなふうに思うのは失礼な事なのかもしれないけれど、私から図星を指されて、それで真剣な表情で怒る彼女の顔を可愛いとすら思ったのだ。

そんなふうに思った事がまた顔に出たのだろう。凄い勢いで私から顔を背けた江里子ちゃんは、私を置いて行くかのように早足で再び歩き始めた。

私もその後を追うように歩きながら、なんとか彼女に私の話を聞いてもらいたくて。

ここで彼女を黙って見送ったら、二度と彼女との接点を持てなくなるんじゃないかって思ったから、考え考え、言葉につっかかりながら、彼女の背中に声をかける。

「私が江里子ちゃんの名前とお家の事を知ったのは昨日だよ。・・・それでね。私にとって、世界は私の家族だけだったから。だから・・・江里子ちゃんのお家の話を聞いて・・・それは私にとって凄いショックだった。だって世間知らずな私にとって、家族っていうのは私を愛してくれるのが当たり前で・・・だから凄いショックだったの。正直な話をするとね、江里子ちゃんのお家の話しを聞いてから私の中にはモヤモヤとした気持ちがあって・・・それが何なのか、私自身にも分からないけど。でも江里子ちゃんの事を蔑んだり、そんな感情じゃない事だけはわかる。・・・でも、そうだね。・・・事情も良く知らない私が江里子ちゃんのお家の話を聞いてショックを受けるなんて、それは・・・哀れんでるのと同じなのかな。ううん・・・でも、そうだよね・・・傲慢だよね。・・・ごめんね」

身長も足の長さも全然違う江里子ちゃんの歩く速度について行けず、どんどん離れて行く彼女の耳に届くように、徐々に大きくなっていく私の声。

そして最後の「ごめんね」なんて、今迄私が出した事がないような大きな声だったけど、他の誰かが聞いてるかもしれないとか、恥とか外聞とか、そんな物はまったく気にならなかった。

どんなに急いでも江里子ちゃんに追いつけない。そんな自分が情けなくなって、それでも追いつきたくて、自転車に乗って追いかけようとしたその時だった。彼女が突然立ち止まって振り返ったのだ。

遠目ながらも、彼女が相変わらず私を睨みつけているのがわかる。それでも立ち止まって振り返ってくれたのが私には嬉しくて、ついさっき自転車に乗って追いかけようと考えていた事すら忘れて、私は自転車を押して駆けだした。

昨日、彼女の話を聞いた時から私の中にずっとあるこの気持ちをなんていうのか、私にはまだわからないけど。でもそれはこの際関係無いんじゃないかと思う事にした。

なんだかわからないことを色々先送りにしているようにも思うけど、でも私は世間知らずな子供で、まだまだ知らなくちゃいけないことも沢山あるから。色んなことを知っていけばこの気持ちが何なのか、いつかわかる時が来るかもしれないし、その時までのお楽しみにしておくのも、それはそれで良いんじゃない? なんて走ることでちょっとボーっとしはじめた頭の片隅で冷静に考えてる自分もいて、それがなんだか可笑しくて私は笑いながら、私を待ってくれている江里子ちゃんの側に駆け寄った。

笑いながら息を切らせて駆け寄った私を、江里子ちゃんは相変わらず小憎らしい表情で、鼻で笑う。そして私の息が整うのを待たず、でも今度はゆっくりと歩きだした。

「自分で自分を傲慢だなんて言う人間で、本当に傲慢な奴なんていないよ。あんたはただのお人好し。・・・だけど勘違いしないで。私は傲慢な人間は大嫌いだけど、お人好しな人間も嫌いなの」

江里子ちゃんの隣に並んで、一所懸命息を整えながら歩いている私を見下ろしながら、吐き捨てるように言う。

そんな彼女の言葉に私は「よかった」と呟いた。

それが聞こえたのだろう。「大嫌い」と言った時みたいに、また江里子ちゃんは怪訝な表情で私を見ている。

だけどそれは私には予測済みだったから、今度はニッコリ笑って江里子ちゃんを見上げ、無言の疑問に答える。

「だって『大』が消えたもの。それって、進歩でしょ?」

その私の言葉に、江里子ちゃんは一瞬頭の上にいくつかの疑問符を浮かべたけれど、それでもすぐに私の言葉の意味に思い当たったのだろう。苦笑いを浮かべながら自転車越しに腕を伸ばして、私の頭を拳固で軽く叩いたのだった。

 

それから家に着くまでの約四十分。私達は並んでただ黙々と歩き続けた。

あのやり取りからほんの少しだけ私達の関係は変わったようだけれど、それでもやっぱり私と彼女の間にはまだお互い埋めることの出来ない溝があって。ちょっと寂しくはあったけれど、こういうことは焦っても仕方ない事だと思うから、前向きに考えて、今はこれでよしと思う事にする。

それに、最初の二十分のような、居心地の悪さというものはもうなかったから、私は隣を黙々と歩いている江里子ちゃんの横顔を時々盗み見するに留めて、聞きたい事は色々とあったけれど、彼女同様黙って帰路につく。

特に会話はなくても、例え嫌われていても、こんなふうに学校から誰かと並んで帰った事のなかった私にとって、それだけでも十分楽しかったのだ。

 


いつものように自転車を玄関脇に置いて、その隣に江里子ちゃんが自転車を置くのを待つ。

高志兄様がこの家を出て、朋子姉様がバイクの免許を取ってから、この家に自転車が二台以上並ぶなんていうのは久しぶりの事で、そんなとても些細な事だけど、なんだか私は嬉しかった。

そんな感じで私の自転車の隣に、江里子ちゃんが自転車を置いてる様子をニコニコと眺めていたからだろう、彼女が呆れたようにため息を一つついて、玄関の方へと私の肩をポンと押す。

江里子ちゃんから促されて私が玄関の取っ手に手を伸ばすと、突然玄関が開いて朋子姉様が顔を出した。

「おかえり、瑞香ちゃん」

「あ・・・うん、ただいま。朋子姉様も帰ってたんだ」

今朝早く、行き先も告げずに出かけて行った朋子姉様。今までにも朋子姉様が行き先を告げずに出かける事はあったけれど、大体そんな時は日帰りする事はなくて、お母さんや良子さんはいつも凄く心配している。

美咲さんは何か知っているんだろうけど、誰にも何も言わない。

だから今日も朋子姉様は帰ってこないものと思っていた私は、玄関が突然開いた事もそうだけど、そこから顔を出した朋子姉様の姿にちょっと驚いてしまったのだ。

「うん、今日は最初から日帰りのつもりだったから。・・・あぁ、江里子ちゃんも一緒に来たんだ。うんうん」

一人で納得して頷いている朋子姉様を、自転車を置いて私の隣に並んだ江里子ちゃんは、じっと睨みつけている。

そして朋子姉様はそんな江里子ちゃんの視線を意に介すどころか、平然と受け止めて笑っていた。

「そうそう。あなたは今日、自分がここに来た理由がわかってるんでしょ。それぐらいの気迫を持ってもらわなくちゃね。じゃないと面白くないもの」

そういって朋子姉様はクスクスと笑いながら、「二人とも早く入ってらっしゃいよ」と付け加えて玄関から顔を引っ込める。

「昨日も思ったけど、何なのあの人」

ボソッと呟く江里子ちゃんに、私はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。

確かに江里子ちゃんと朋子姉様じゃ、馬が合わない気がする。いや、朋子姉様は江里子ちゃんを気に入りそうだけれど、江里子ちゃんの方は朋子姉様みたいな人が苦手なんじゃないかと思う。

「親戚。あっ、でもあんな感じだけど、悪い人じゃないんだよ」

あんな感じ、なんて言うのは朋子姉様には悪いけど、私にはそう答えるしかなかった。

私のその答えに「ふうん」と気のないような返事をして、江里子ちゃんが頷く。

「お人好しのあんたから悪い人じゃないなんて言われても、あまり説得力ないわ」

そう言って、再び促すように私の肩をポンと押す。

それに頷いて私は玄関を開け、家の中へと入る。中では朋子姉様がまだニヤニヤと言うよりはニタニタと言ったほうがいいような、そんな笑みを浮かべて私達を待っていたけれど、私は朋子姉様のその奇妙な笑みよりも、当然私の後について来るだろうと思っていた江里子ちゃんが、私の後についてこない事の方に気をとられていた。

どうしたんだろうと振り返ると、江里子ちゃんは躊躇しているように、玄関前で足を止めている。

首を傾げる私を一瞥し、自嘲するような笑みを一瞬浮かべ、そして意を決したように大きく深呼吸した。

そこでやっと私にはわかったのだ。彼女が一瞬躊躇した理由。

私にとってこの家は帰る所で、生活の場だから、中に入る事に何の躊躇いもないけれど、でも彼女には違うだろう。

例えば口や態度では『瀬川家なんて私には関係ない』なんて言ったとしても、この村に住んでいる限り関係ないなんて事は決してない。それだけこの村の中での「瀬川」という家の持つ影響力は強くて、そしてそれはこの家に住んでいる私が一番良く知っている。

そんな家の本宅に乗り込もうというのだ。

私からは大きくてしっかりしている様に見えても、江里子ちゃんだってまだ中学二年の、ちょっと小憎らしいだけの普通の女の子だ。ほんのちょっと気後れした所で、誰が責められるだろう。

それに鈍い私でも、江里子ちゃんの様子と朋子姉様の言葉から、さすがに今はなんとなく彼女が家に来た理由が想像できた。

昨日の私と江里子ちゃんの一件が、どこからか彼女の家族の耳に入ったのだろう。だから彼女はお父さんから怒られる為に、(私との口論だけでお父さんが江里子ちゃんを怒るだろうなんてこれっぽっちも思ってもいなかった私には、そんな考え今まで思いつきもしなかったけど)ここにきたのだろう。

だから私が「大丈夫だよ」と声をかけようとした時だった。それまで何度か深呼吸していた江里子ちゃんが「んっ」と、私ではなく自分に言い聞かせるように頷いて、玄関の中に踏み込んだ。

「はい、二人ともおかえり。瑞香ちゃんは着替えてから客間に来るように、って裕紀兄さんが。で、江里子ちゃんは私についてきて。・・・御当主がお待ちよ」

玄関の中で私達を待っていた朋子姉様の言葉に、無言で頷く江里子ちゃん。そして奥へと入ってく朋子姉様を追いかけるように、私の脇をすり抜けて行く。

朋子姉様の前で強がってはいるけれど、傍目から見ても随分緊張してるのがわかる江里子ちゃんに、私はなんと言葉をかければ良いのかわからず、二人が廊下を曲がるまでのほんのわずかな間だったけれど、私は学校の時と同じようにまた、彼女の背中を見送る事しか出来なかった。

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