寂しいアヒル5




私にとって、学校がどういう場所であるかを説明するとすれば、つまらない場所!の一言で片付くと思う。

勉強に関して言えば、小学校の頃から授業を休みがちだった私は、布団の中での暇つぶしもかねて教科書を読んで勉強したり、家の中で一番年の近い朋子姉様が、時々家庭教師になってくれる。

時々とはいえ、私が解らないところだけを重点的に解りやすく教えてくれる朋子姉様の授業は学校の授業より僅かに進んでいて、私にとって小学校の時から学校の授業というものは復習程度の意味合いしかなかった。

そして勉強以外での学校の意義といえば、友達を作ったり、友達と遊んだりなんていう、人との関わりあいや、社会性を学ぶ事が挙げられるのかもしれないけれど、周囲から『瀬川家の娘』という烙印を押された私にはそれこそ意味がない。

私にとってこの学校という場所は、まったく意味の無いつまらない場所で、中学校が義務教育でなければ、とっくの昔に私は、ここに来ることをやめていたと思う。

そんなふうに私にとって、意味も無ければつまらない場所だと思っているから、という訳ではないけど、一限目から授業をまったく聞く気にならなかった私は、頬杖を付いて窓の外をゆっくり流れていく雲をボンヤリ眺めながら、朝の出来事を思い返して、今日何度目になるかわからないため息をついた。

 


珍しく気分よく登校出来た私を待っていたのは、いつもと変わらないクラスメイト達の、遠巻きに眺めるような視線。

その視線に、先ほどまでの幸せな気分が一気に吹き飛んでしまった私は、誰も答えてくれないだろうと思いつつ、いつも通り誰に向かってでもなく「おはよう」とだけ挨拶して自分の席に着き、いつものように鞄の中身を机に移して、暇つぶし用に持ってきている文庫本に視線を落とした。

そんな態度が私とクラスメイト達の間の溝を、ますます深めているのだとわかってはいるけれど、はなから私を別次元の生き物のように考えている彼等に、なんと声をかけていいのか私には分からない。

無視されている訳ではないと思う。私から話し掛ければ畏まったような、萎縮したような、そんな態度だけど誰もがきちんと答えてくれる。

でも、だからこそ性質が悪いのだ。

あからさまな無視やいじめなら、こちらとしても相応の対応というものがとれるだろうけど、一歩退くようなそんな笑顔を浮かべる彼等の中に、どんな態度や話題を持って入ればいいのか、他人とのコミュニケーション能力に乏しい私にはまったく考え付かない。

私との間に一本線を引いたようなクラスメイト達の態度。そんな彼らに自分から近づく事もなく本を読むだけの私。私のそんな態度に、さらに間にある線を太くするクラスメイト達。

よくよく考えてみればこれは悪循環でしかなくて、どこかでそれを断ち切らなくちゃいけないのかもしれないけど、でもその事に気づいたからといってそう簡単に『それじゃ』と言うわけにはいかないのだ。

日常生活における習慣なんてものは、日々の積み重ねがあるだけにそうそう変化したりしないものなのだと思う。

だから一人のクラスメイトが、明らかに私目指して近づいてくるのが視界の端に映った時は正直な話ちょっと驚いた。

普段、朝や休み時間といった自由な時間帯。窓際の真ん中に位置する私の席に近づくクラスメイトは、よほどの用事がない限り皆無と言っていいほどだ。

以前(ファンタジー物の小説を読んだ後だったと思う)、私の周囲何メートルかは結界でも張っているのかしらと、そんな馬鹿な冗談を思いついてしまったほど、彼等は私の席を避け、教室のあちこちで固まってお喋りをしている。

普段がそんなものだから私は、それまで廊下の側で固まっていた集団から一人の女の子が近づいてくるのを認めると、珍しいという事もあって文庫から顔を上げ、思わずまじまじとその姿を眺めてしまった。

そんな私の不躾な視線にひるんだのか、彼女は一瞬足を止めかけたけど、それでも意を決したようにちょっと握り拳に力を込めて近づいてくる。

一応その娘の顔には見覚えがあった。春田さんと言う、私と同じ小学校出身の女の子。

『学年』=『クラス』だった私の通っていた小学校と違い、この中学校では近隣の三つの小学校から生徒達が集まってくるから、当然クラス分けというのが存在する。

だから同じ小学校の子が全て同じ教室になるという訳ではないし、中学校に入って初めて見知った子と言うのも当然いる。

とは言っても、このクラスになって一ヶ月ちょっと経つのだから、クラスメイトの顔にまったく見覚えがないという事はないけれど、顔と名前が一致するかというのはまた別問題なわけで。

そして必要がなければ、人間とはなかなか学習しないもので。

要するに私は入学から一月経った今現在、クラスメイトのほとんどの子の顔と名前が一致しないのだ

その点彼女に関しては、小学校が一緒だったと言う事もあって、私にとって顔と名前が一致する数少ないクラスメイトだと言う事が出来た。

「春田さん、おはよう」

自分でもちょっとぎこちないかなと思う笑みを浮かべて、近づいてくる女の子に挨拶する。

私から挨拶してくるとは思っても見なかったのだろ。彼女はビックリしたようにちょっと体を震わせて「え、あ、はい。おはよう・・・ございます」と挨拶を返してきた。

見るからにおっかなびっくりといった感じだし、ただ私に挨拶をするためだけに近づいてきたとは思えなかったから、彼女を見上げながら「なに?」と首を傾げると、彼女は戸惑ったように後ろを振り返って、教室の入り口付近へと視線をさまよわせる。

その様子になんだろうと彼女の視線を追うと、そこにはまたも見知った顔。

江里子ちゃんが、私を睨みつけるようにして立っていたのだ。

「あの、ですね。あの二年生から、瑞香様を呼んできてくれと」

同じ村に住んでいるからこその、その「瑞香様」という言葉に多少辟易しながら、春田さんに「ありがとう」と出来るだけ柔らかく微笑んでお礼を言う。

私にとって数少ないクラスメイトとのコミュニケーションの機会なのだから、出来るだけ好印象(か、どうかはわからないけど)を与えるに越した事はない。そんな下心もあったけど、幼い頃から私とは出来るだけ関わるなとご両親から言われ続けているだろう彼女が、取次ぎとはいえ私に話しかけてくれた事がなんとなく嬉しかったのだ。

だから文庫本に栞を挟んで机の上に置き、立ち上がった時に見えた春田さんの顔が、好奇心でちょっと輝いているように見えてもそれは、まぁご愛嬌だろうと思う事にする。

朋子姉様や江里子ちゃん本人の言葉からすると、江里子ちゃんも村ではちょっとした有名人らしいから、彼女があれこれ想像するのも仕方ない事なのだろう。

そして教室の入り口のドアに寄りかかるようにして立っている、江里子ちゃんへと視線を向ける。

昨日、彼女と始めて面と向かった時、突然だったし恥ずかしさやら後ろめたさやら怒りやらで、後で膝の震えが止まらなくなるほど緊張していたけれど、今日は春田さんと言うクッションのおかげで突然ではなかったし、思う所は色々あるけど昨日に比べればだいぶ落ち着いたから、彼女の顔を真っ直ぐ見る事が出来た。

江里子ちゃんは私を睨みつけるような表情のまま、私が側まで来るのを待っているのだろう、教室のドアに右肩を当てて寄りかかった状態から動く様子はまったくない。

「おはようございます。木戸先輩」

教室を入退室する人の邪魔にならないよう、廊下に出て挨拶した私に、彼女は唇の片側をちょっと吊り上げて皮肉がたっぷり含まれたような笑みを浮かべ、フンと鼻で笑うと突然私の腕を掴んで歩き出した。

彼女のその行動が突然だったという事もあるし、何より地力が違うのだろう。私は驚く間もなくいとも簡単に江里子ちゃんに引きずられる。

いくらかそうやって歩き、教室から死角になった階段の踊り場で立ち止まった彼女は、私の腕を放してゆっくりと振り返った。

「あんた、今日の放課後は暇?」

クラスでの私を見て、また「孤独なお姫様」だとかいう、皮肉が飛び出してくるのかと思ってちょっと身構えていただけに、江里子ちゃんの振り返りざまのその言葉はあまりに予想外のもので、思わず彼女の顔を見入ってしまう。

けれど私のそんな反応を予想していたのだろう。

「私があんたにこんな事を聞くのは、意外みたいね」

そう言って、それまでの険しい表情をわずかに崩して、自分でもおかしな事を言っていると思っているかのように苦笑いする。

「暇・・・だけど」

そんな江里子ちゃんの様子に首を傾げながら、私は答えた。

美咲さんに頼んだ『ママが遺してくれた物』の件で、私は朝からワクワクしていたのだけど、でもそれは別に今日でなくてはいけないという訳ではないし、何より結局はお父さん次第だし。

私に放課後一緒に遊ぶような友達がいないことは、彼女だって知っているだろうから。だから暇かと問われれば「暇」と答えるしかない訳で。

どうしても暇だと認めたくなければ、病弱な私ならではの病院での定期検診と言う嘘をつく事も出来るけど、そこまでして彼女を避けたいとは思わない。

「そう。それなら放課後校門の前で待ち合わせて、あんたの家まで案内してくれない? うちの爺さんからあんたの家に行くように言われてるの。さすがに私一人だとあんたの家にはちょっと入りにくいし、それにあんた自身も関わってる事だから、一緒の方が都合がいいだろうしね」

江里子ちゃんのその「家まで案内して」という言葉は、私にとって予想外どころのものではなかったから、疑問は色々あったけど声が声にならず、ただ口をパクパクと動かす事しか出来なかった。

そして江里子ちゃんはそんな私の様子に、再び皮肉一杯の笑みを浮かべて鼻で笑い、これで話はお終いというように背を向ける。

混乱していた私には、彼女のその背中を呆然と見送る事しか出来なかった。

 


今は三限目の数学の時間だけど、私の頭の中には数字だとか公式なんて一つも浮かんでいなかった。

今朝のあれは一体なんだったんだろうと、何度考えてもわからなくて。どんなに考えてもどうせわからないなら、いちいち考えるのを止めようと思っても、頭の中に浮かぶのは江里子ちゃんの事ばかり。そして同時に思い浮かぶのが「孤独なお姫様」と言う言葉。

「はぁ」と、また一つため息が出る。

勉強自体は嫌いじゃないけど、学校の授業というものに興味を持てない私は、普段から学校の授業なんて真剣に聞いてはいないけど、でもどんなに考えても答えが出てきそうにない事や、嫌な事を思い出すぐらいなら、日常生活にあまり必要無さそうな数学の公式を授業の中で覚えるほうが、よっぽど楽なような気がする。

だけどこれまで対人関係というものをほとんど考えていなかった私には、答えが出る・出ないじゃなくて、美咲さんの言うように『考える』事自体が必要なんだと思う。

一人で考えても答えが出ないから。嫌なことだから。そう言って臭い物に蓋をするように考える事をやめてしまったら、きっと私はこれから成長出来なくなるだろうから。

けれど、これ以上この事を考えてもやっぱり答えは出ないだろうし、何より私の頭が昨日のように暴走しかねない。

だから私は美咲さんが助言してくれたもう一つの方法、『聞く』事に方向を改めた。三時間近く悩んでも答えが出ないなら、それはきっと今の私じゃ答えを出すことが出来ない事なんだろう。

そういうふうに自分を無理矢理納得させて、不真面目な私は酷使した脳を少しでも休ませる為の準備を始める。

こんな時は、先生すら敬遠する瀬川家の娘と言う自分の立場に感謝するのだから、我ながら凄く現金なものだなぁと、思わず苦笑いが浮かんできた。

 

放課後。学校から家まで自転車で約三十分。歩けば一時間以上はかかるような、そんな道程を私と江里子ちゃんは、自転車を押しながらかれこれ二十分ほど黙々と歩いている。

普段は私自身積極的に喋る方ではないので、沈黙がそんなに苦にはならないのだけれど、例えば「家に何の用事があるのだろう」とか「私が関わってるって何だろう」とか、聞きたい事は沢山あって、それを聞こうと授業中は思ったのだけど、なかなかそのきっかけを掴めないという事が私自身もどかしくて仕方なかった。

学校を出てからというもの、そんなふうになかなか会話のきっかけを掴めずに、ただ江里子ちゃんの横顔を、チラチラと盗み見する事しか出来ない私の隣で、同じように自転車を押していた江里子ちゃんが、唐突にこちらを見ることなく尋ねてきた。

「あんた『みにくいアヒルの子』って童話知ってる?」

「え? ・・・有名な童話だから、もちろん知ってるけど」

舗装されていない砂利の土手道。隣を歩く私ではなく、真っ直ぐ正面を向いている江里子ちゃんの横顔を見上げながら、私はいきなり何の話だろうと戸惑いつつ答えた。

みにくいアヒルの子。アンデルセンの童話の中でも有名な作品だ。

周囲から醜いといわれていたアヒルの子は、実は白鳥の子供で、成長して綺麗な白鳥になったその子は、アヒルたちのもとから飛び去っていく。

随分昔に絵本を読んでもらっただけで、直接自分で読んだ事はないから細かいところは忘れたけれど、たしかそんな話だったと思う。

「だったら空を飛べないアヒルが、綺麗な白鳥になって大空を飛ぶその子を見て、どう思っただろうとか、あんたには想像つく? つかないでしょ。子供の頃一緒の世界で育っても・・・一度大空を羽ばたいた白鳥には、空を飛べないアヒルの気持ちなんてわかりはしない。そして白鳥はこう思うんだよ。あんたが私にそうするように、哀れみの眼差しで見下ろして『空を飛べないなんて可哀相』ってね」

江里子ちゃんはいったん言葉を止めて、立ち止まる。そして、急に立ち止まった江里子ちゃんからわずかに先に行く形で止まり、顔だけ振り返った私を睨めつけながらこう言葉を付け加えた。

「だから私は、あんたが大嫌い」

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