寂しいアヒル4




「少しお待ちくださいね。すぐ、軽めの物を作りますから」

私を食堂の椅子に座らせて、そう言いながら美咲さんが淹れてくれたハーブティーを片手に、台所で調理している彼女の姿をボンヤリと眺める。

彼女は昔から庭や自室、果ては離れのベランダなど色々な場所で様々なハーブを育てていて、私が今飲んでいるのも彼女が栽培したハーブで淹れたものだった。

カモミールという花を乾燥させて淹れたというそのお茶は、リンゴみたいな甘い香りでとても飲みやすい事もあって、彼女が飲ませてくれる様々なハーブティーの中でも私の一番のお気に入りだったりする。

台所で鼻歌を歌いつつも手際よく調理している美咲さんを眺めながら、私はそれまで疑問に思いながら、なかなか聞く機会のなかった質問を彼女にする事にしてみた。

彼女と二人きりになる事なんてなかなか無いから、丁度いい機会だと思ったのだ。

「あのね、美咲さん。一つ質問をしていいですか?」

「あら、なんですか?」

私の言葉に彼女は調理の手を止め、首を傾げる。

「何でお母さんの事を『沙夜子様』って呼ぶんですか?」

私の質問に彼女はキョトンとしてみせる。鳩が豆鉄砲を食らったような表情とは、まさしくこんな表情なのではないだろうか。

きっと彼女にしてみれば質問の内容云々よりも、私がなぜそんな質問をしたのかという事の方に驚いたのだろう。案の定彼女は、私の質問に質問で返してきた。

「あの、瑞香お嬢様。なぜそのような事を?」

「お母さんはお父さんのお側付でしょ。そして美咲さんも高志兄様のお側付でしょ。立場は同じお側付なのに、なんでお母さんの事を『様』付きで呼ぶのかなって、ずっと思っていたの」

「う〜ん。そう言えばどうしてでしょうね」

彼女は上目遣いで天井を見ながら、右手の人差し指を下唇に当てて、リズムをとるようにゆっくりと首を三・四度ほど左右に振りながら答える。

「美咲さーん」

そんな答えに脱力した私に、彼女はクスクスと小さく笑う。

「申し訳ありません瑞香お嬢様、冗談です。理由ならちゃんとありますよ。やはり御当主のお側付ともなれば私などとは立場も違いますし、あの方は私にとって恩人ですから」

「恩人? ・・・恩人って?」

「私は沙夜子様に、一生かけてもお返しできないほどの恩があるんです。それにほら、瑞香お嬢様も沙夜子様の事をお母さんと呼んでいらっしゃるじゃないですか。お嬢様のお母様を私がお呼びするのに、『さん』付けでは失礼ですから」

隙の無い笑顔を浮かべながら、肝心な部分は話そうとしない彼女に、私はそれ以上の質問を諦めた。こうなった彼女は、私などでは口を割らせる事が出来ないのを、経験から知っていたからだ。

しばらくして彼女の言うところの軽めの食事を私の前に置いた美咲さんは、テーブルを挟んで向かいの椅子に座り、私の顔を覗きこむ。

「瑞香お嬢様。私からも一つ、お聞きしてもよろしいですか?」

普段彼女が浮かべているフワフワとしたような、そんな柔らかい表情ではなく、ひどく真剣なその表情に数時間前の朋子姉様を思い出し、私はちょっと身構えながら美咲さんの言葉に頷いた。

「裕紀様や沙夜子様から御自分が愛されていないのではないかと、朋子様に仰ったそうですが、本気ではないですよね」

「・・・本気ではないけど。勿論お父さんやお母さんが、私の事を愛してくれてるのは知ってるけど、でもどうして血の繋がらない私を愛してくれるんだろうって。そういうふうに心のどこかで考えてはいるんだと思う」

私はそれまで持っていたハーブティーの入っているカップを置いて、そのすぐ側で掌を握ったり開いたりを繰り返しながら答える。

「だってそうでしょ。血の繋がりもない家族でもない私を、どうして愛してくれるの? 私は愛されるような事を何一つしていないのに、どうしてこのうちの人達は私の事を好きでいてくれるの? ・・・今までは家族から愛される事は当たり前だと思っていたけど、江里子ちゃんや朋子姉様の話を聞いて、わからなくなったの」

この件に関して、何がそこまで美咲さんを真剣な顔にさせるかは分からないけれど、いつでもニコニコとしている彼女が、怖いくらいに真剣な表情で私の話を聞いているからには、私も私の中にある考えや感情を出来るだけ正直に彼女に話さなければ失礼になると思った。

「だから本気で、お父さんやお母さんから好かれていないなんて思ってはいないけど、でも心のどこかに疑問はあるんだと思う」

うまく説明出来ていないかもしれないけれど、それは勘弁して欲しい。私自身にだって今自分が考えている事をよく整理できていないのだ。

ただ、その事が美咲さんに対して申し訳なくて、俯いてカップの中に視線を落とした私の、さっきからずっと意味のない行為を続けていた掌を、彼女はちょっと身を乗り出してゆっくりと包み込んだ。

「私はそれでいいと思いますよ」

「え?」

彼女の言葉の意味をはかりかねて、私は思わずカップから正面に座っている美咲さんへと視線を上る。

そこにあった顔は依然として真剣そのものだったけれど、彼女が手を握ってくれているからだろうか、それまで感じていた「怖いほど」と言う雰囲気はもうそこにはなかった。

「瑞香お嬢様が、裕紀様や沙夜子様のことを本気で疑っている訳ではない事は、日頃この家に関わる者なら誰でもわかります。・・・それにどうして? って考える事はとても大切な事で、これまでのように家族と言うものを、ただただ無条件に盲信しているより良いのではないでしょうか。たとえ家族だろうと、人が人の気持ちを完全に理解する事はできません。でも、話をすればほんの一部でも知る事は出来る筈です。わかっている事でもきちんと話をして確認する事が、今の瑞香お嬢様には必要なのではないでしょうか? 裕紀様や沙夜子様は勿論、江里子ちゃんと言う子とも」

そう言って握っていた私の手を離した美咲さんの表情は、それまでの真剣な表情が嘘だったような、いつも彼女が浮かべているフンワリとした笑顔に戻っていた。

美咲さんの口から江里子ちゃんの名前が出たことに関して、特に驚きはなかった。情報源が朋子姉様だって事は分かってる。きっと彼女にだけは今日のお昼やその後の事を、話している(正確には、隠しきれなかった)だろうと思ったから。

それに、口を割ってしまった後、朋子姉様のことだから「美咲も注意して見てあげて」くらいの事は言ったかもしれない。

朋子姉様や美咲さんがそんなふうに私の事を心配してくれるのを、いつもの私なら素直に喜んだかもしれないけれど、今の私にはなんだか子供扱いされているようで、素直に喜べなかった。

そんな自分の心の狭さにちょっと嫌気が差しながらも、いつからこんな捻くれたんだろうと思い返してみると、どうやら今日(昨日?)江里子ちゃんと出会ってからのような気がして、それが八つ当たりなんだって事はわかっていたけど、私をそんなふうにした彼女に対して怒りが沸々とわいてきた。

それに彼女の「孤独なお姫様」と言う言葉を、私は許せてはいない。

さっきは「図星を指されて」なんて思ったけれど。ううん、図星だからこそ許せないんだって言うのが、私の正直な気持ちなんだと思う。

そんな感情が思い切り顔に出ていたのだろう。美咲さんは、先ほど廊下で腰を抜かして立てなくなった私を見てしたように、手を口元に当てながら「あらあら」と微笑んだ。

「美咲さん。子供扱いしないで下さい」

彼女の仕草にまたも子供扱いされたような気がした私は、時間を忘れ思わず強い口調で声を張り上げる。

それが年の功と言うものなのかは分からないけれど、美咲さんはそんな私にもまったく動じる気配はなくて、かえって普段よりも落ち着いた雰囲気で、すでに空になっていた私のカップを持って立ち上がり、私に背を向けて台所へと向かうとそれを流し台の隅に置いた。

「子供扱いされてると思う間はまだまだ子供ですよ、瑞香お嬢様。・・・そうそう、美鈴様の事はご存知ですよね」

台所からカウンター越しにポンと手を叩きながら、いかにも良い事を思い出したというように微笑んだ美咲さんに、私は気勢をそがれ「はい」と答える。

何故今ここで美鈴伯母様の名前が出てくるのか、私にはさっぱり分からなかった。

「私も美鈴様の事はほとんど覚えていませんので、これは以前冬子様から伺ったお話です。まだ沙夜子様が裕紀様のお側付になられる前の事らしいのですが、裕紀様はご幼少の頃、それこそ御両親である晴紀様や冬子様にさえ気を許さないくらい、気難しい方だったそうです。・・・そんな裕紀様が唯一気を許していたのが美鈴様で、どこに行くにも何をするにもお二人はご一緒だったとか。二人で身を寄せ合って、まるであの頃の二人は自分達と、唯一例外として美央美様以外、外の世界を拒絶しているようだったと、冬子様は仰ってました」

美鈴伯母様。お父さんのお姉さんで、お父さんとお母さんにとって思い出を簡単に語る事が出来ないほど、大切だった人。私以上に体が弱い人で、一年の半分以上熱を出しながら過ごしたような人だった、なんて話も聞いた事がある。

そんな美鈴伯母様について、私がわずかに知っているいくつかの事を思い出しても、何故ここで突然彼女の話が出てくるのか、私にはやっぱり分からなかった。

「瑞香お嬢様はその話のお二人に似ています。家族という枠にとらわれて、それ以外の世界を必要としていらっしゃらない。外の世界を知らないから・・・言葉は悪いですが比較する対象がなかったからこそ、御自分が愛されているという自信がなくなったのではないでしょうか。愛情は目に見えないし、量ることが出来ませんもの」

そう、確かに彼女の言うとおりかもしれない。

私の世界は、私にとっての家族だけであった事。

私はそれ以外の世界を必要としていなかった事。

そして、愛されているのだという自信が、ちょっとなくなっていた事。

だけどなんでそんな事になったんだろう。私はこれまでそうやって生きてきたのに、どうして今になって?

そんな事を考えはじめたら、美咲さんがちょっと間を置いて言葉を付け足した。

「考える過程は大切ですけど、でも、どうして愛してくれるの? なんて質問、やっぱりナンセンスですよ。この家の皆様はきっと『瑞香だから』って仰るでしょうし、私もそうお答えしておきます」

その言葉を聞いたら突然、そう本当に突然、それまで私の胸の内を占めていたモヤモヤが半分くらい、スッと消えて無くなったような気がした。

そして気づいたのは、私はその言葉が聞きたかったのだという事。

きっと美咲さんの言うように、聞けば皆そう答えてくれたと思う。お父さんもお母さんも、晴紀おじ様も冬子おば様も、美央美伯母様も正文伯父様も、朋子姉様も高志兄様も、美咲さんも良子さんも、悠華ちゃんも悠紀君も。

なぜそう思うかと言えば、誰かから同じような質問をされたら、私もきっとそう答えるから。

わからなかったナゾナゾも、答えがわかってしまえば「なぁんだ」と思う。これはそんな感じだ。わかってしまえば、とても簡単な事なのだ。

今まで私にとって家族が愛し合うのは当たり前すぎて、誰にも気持ちを確認した事がなかった。お父さんにもお母さんにも「私のこと好き?」とか「私のこと愛してくれてる?」なんて、一度たりとも聞いた事がなかった。

だってそれが私にとって当たり前の事だったから。

だけどそれが当たり前じゃなくなって、じゃぁ私は? と思ったのが、事の始まり。

その時確認すればよかったのだ。お父さんでもお母さんでも、誰でもいいから捕まえて「私のこと愛してくれてる?」って。愛してるって答えてくれたら「どうして?」って。私が納得いくまで聞けばよかったのだ。

本当に、本当にわかってしまえばウジウジ悩んでいた事が笑えるくらいに、答えのわかったナゾナゾみたいに「なぁんだ」って思えるくらいとても簡単な事。

「うん、そうだね。ありがとう、美咲さん」

今の私に出来る精一杯の笑顔で美咲さんに答える。江里子ちゃんとの出会いから時間にして半日とちょっとだけど、なんだか久しぶりに笑ったように思う。

そんな私に美咲さんも目尻を下げて微笑んでくれる。

「やっと笑ってくださいました。・・・そうですね、快気祝いにもう一ついい事を教えて差し上げます。瑞香お嬢様のご両親。黒川御夫妻が瑞香お嬢様の事を愛してくださっていたと言う証拠の遺品を、裕紀様が葉子様よりお預かりしているそうです。そちらもご覧になってみませんか? もしよろしければ、私から裕紀様にお話しておきますが」

お父さんがママから何か預かっているなんて初耳だったから、美咲さんの言葉に私は驚いた。・・・だけどお父さんも意地悪だ。そんな物があるならもっと早く見せてくれればいいのに。

だけど私がそんな事を言ったって、お父さんはきっとはぐらかすから、ここは美咲さんの厚意に甘える事にする。

「うん。見たいけど、私がお願いしたってお父さんはきっとはぐらかして見せてくれないから、お願いします」

「はい。では、瑞香お嬢様が学校からお帰りになったらお見せいただけるように、お昼にでもお話しておきますね」

お父さん曰く「晴紀の次に食わせ者」で「苦手」な美咲さんの事だから、お父さんを上手く説得してくれると思う。

 


お父さんがママから預かったものって何だろう。なんて考えていたら、楽しくてあっという間に時間が経っていて、気がつくと朝食を済ませて家を出る時間になっていた。

お母さんはまだ私の体を心配していたみたいだけど、ママの事を考えると色々悩んでいた事がなんだか嘘みたいで、体がとても軽くて、だから普段は憂鬱な学校への道のりも今日に限ってはそんな事は全然なくて、自転車に乗ってて感じる風も、見上げた真っ青な空も、その空に浮かぶ真っ白な雲も、側を流れる川の流れる音も、時折聞こえる小鳥の声も、全てが新鮮でとても気持ちがいいものだった。

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