寂しいアヒル3




木戸江里子。私が密かにつむじの人と名づけた彼女の家庭環境を知った時もそうだったけど、朋子姉様の話もまた、私に少なからぬショックを与えた。

私にとっての家族のあり方と、あまりにかけ離れていたから。

そしてそれは、私が当たり前と思っていた家族の形に疑問符を打ちつけた。

『家族』だったものが『家族?』になったのだ。

それは文字という形にすると、たった一文字分の小さな違いかもしれない。

でもそのちょっとした違いが、私の根底にあったものを揺るがすには十分なもので、そのショックと一昨日から出ていた熱もあってか、家に帰りつく頃には疲れ果てていた私の顔を見たお母さんは、文字通り飛び掛らんばかりの勢いで私に駆け寄り、私と一緒に帰宅した朋子姉様から二・三言耳打ちされたお父さんは、私に苦笑を向けながら「知恵熱でも出たか?」と言って、お母さんから軽く頭を叩かれた。

そんな普段通りの二人の様子にちょっと感謝しながら、さすがにこの時ばかりはお母さんの「今日はもう休みなさい」と言う言葉に従い、自分の部屋へと向かう。

水野夫妻が私の顔を見た早々、悠華ちゃんや悠紀君を連れて帰ってくれたのは正直な所助かった。体がとてもだるかったし、頭の中がタンスの中身をひっくり返したようにもうゴチャゴチャになっていたから、彼等の相手をしてあげられる余裕が今の私にはなかったのだ。

出来る事なら、時間を戻して今日一日を初めからやり直したかった。

時間を戻して、お母さんの言葉に従って大人しく布団の中で丸まっていたら、私は何も知らずにいられただろう。そして私はお父さんやお母さんや私が家族と思っている人々に囲まれて、ずっと無邪気に笑って暮らせたかもしれない。

知らない事を知るというのはとても大切な事だと思うけど、時にそれがとても残酷な事なのだというのを、私は初めて知った。

だって彼女達の事を知った私はもう、家族に囲まれて無邪気に笑う事が出来ないかもしれないから。

無茶苦茶になった頭の中で色々と考えながら、布団を敷いてくれた良子さんと言う住み込みで家事などの手伝いをしてくれている年配の女性にお礼を言って、パジャマに着替えて布団に潜り込む。

今日は天気がよかったから、ついさっきまで外に干されていたお布団からはお日様の匂いがして、それはなんだかとても幸せな匂いだった。

でも、その幸せな匂いに包まれて、それを強く感じれば感じるほど私は悲しかった。

この幸せな匂いのする布団を私の家族に例えたなら、なら彼女達はどんな布団に包まれて、どんな夢を見てきたのだろう。

そんな考えがとても傲慢な考えだとわかっているけど、一度知ってしまったからには考えずにいられなかった。

 


「ああ、そんな事考えても無駄だよ。瑞香ちゃん」

私の様子を見に来たと称する朋子姉様は、あれから一時間ほどずっと悩んでいた私に笑いながらそう答えた。

「だって瑞香ちゃんにはそんな経験がないんだもん、わかりっこないよ。そうじゃなくてね、私はもっと瑞香ちゃんに外の世界を見て欲しかった。自分の今いる狭い世界が全てじゃないんだっていう事を、瑞香ちゃんもそろそろ知らなきゃいけない。それであんな話をしたのよ」

私は顔の半分まで布団を被って、黙って朋子姉様の話を聞いていた。

朋子姉様の言わんとしていることはわかる。私にはわかりっこないと言う朋子姉様の言葉も、おそらくはその通りなのだろう。

でも考える事をしなかったら私には一生彼女を理解する事は出来ないだろうし、それに何より、今の私には『外』などという訳のわからない世界より、家族のあり方について考える方が重要だった。

血が繋がっていても、家族として愛してもらえなかったという朋子姉様。

血が繋がっていて、家族から愛されている悠華ちゃんや悠紀君。

血が繋がらないから、家族として愛してもらえないという江里子ちゃん。

血が繋がらないのに、家族として愛してもらっている私。

だったら家族って何だろう。

そんな考えが頭の中をグルグルと巡っていた。

「お父さんやお母さんは、同情してるだけで本当は私を好きじゃないんじゃないかな」

そんな言葉が思わず口からこぼれ出る。

本気でそんな事を思っていたわけじゃないけど、口に出したらなんだかそれが本当の事のように思えて、私の目から涙が溢れ出た。

だけどその言葉は、朋子姉様の逆鱗に触れたらしい。

「・・・たとえ冗談でも、そんな事言うもんじゃないよ」

普段あまり聞き慣れない朋子姉様の低い声、きつい口調に、彼女が本気で怒っている事に気付いた私は、思わず布団の中に隠れてしまう。

だけど彼女はそんな私の布団を乱暴に剥ぎ取って、さらに言葉を付加える。

「そんなことは一々確認するまでも無く、あなたが一番よく知ってる事でしょ。瑞香ちゃんの今の言葉はね、甘えてるだけなのよ」

本気で怒鳴る朋子姉様が怖くて、私は剥ぎ取られた布団を再び口元まで被った。

そんな私に、昂ぶった感情を落ち着けるように何度か深呼吸して、朋子姉様はセミロングの髪を掻きながら、まいったなと呻く。

「怒鳴った事は謝るわ、ごめん。でも、冗談でもそんなことを言って欲しくてあんな話をしたんじゃないのよ。私はただ、私や江里子ちゃんの家みたいな家族も実際にあるんだって事を、瑞香ちゃんに知って欲しかっただけなの。・・・だから裕紀兄さん達の前では絶対そんな事は言わないで頂戴。お願い」

ちょっと項垂れたように俯く彼女の言葉に、私は黙って頷く。

血の繋がった家族から見捨てられ、そして自らも家族を切り捨てたと言う彼女だからこそ、私の言葉に我慢できなかったんだろう。

でも、さっきの発言は私自身思いがけない言葉だったけど、心のどこかでずっと思っていた事なんだと思う。

私とお父さんの血の繋がりは皆無ではないけど、正確には朋子姉様と同じ又従兄妹と言う関係だ。親戚ではあっても家族と言える程ではないし、お母さんとはまったく血の繋がりはない。そんな私の事を、どうして彼等は家族として愛してくれるのか。

私は心のどこかで、そんな疑問をずっと持っていたんだろう。

結局、私は彼女と変わらないのだ。確かにお父さん達が私を愛してくれている事は、その理由はどうあれ、私は肌で感じている。

でも私にとっての本当の家族は、もういないんじゃないかと思ってしまったら、朋子姉様の剣幕に驚いて一度はひいた涙が、再び溢れ出した。

「ありゃりゃ。瑞香ちゃんってこんなに泣き虫だったっけ?」

朋子姉様の途方にくれたような情けない声が、彼女が本気で怒った声を聞いた後だけになんだかとても印象に残った。

 


気がつくと辺りは真っ暗だった。おそらく泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったのだろう。

子供の頃はお母さんの部屋で一緒に生活していた私も、中学入学と同時にお父さんから自分の部屋を貰って、特に体の具合が悪くない限りはそこで寝起きするようになっていた。

布団から身を起こして壁にかけられている時計を見ると、午前四時なんていう、私にとっては寝直すにも起きるにも中途半端な時間。

時間を確認したら急に空腹感を覚えた私は、台所へと向かって部屋を出た。

よくよく考えてみると、お昼過ぎに朋子姉様から奢ってもらったジュースから先、何も口にしていないのだから当たり前だ。

真っ暗な廊下。

眠っている皆を起こさないように、明かりを点けずに出来るだけ足音を忍ばせて歩いた。

記憶と勘を頼りに私の足音以外物音一つしない廊下を歩いていると、この状況は彼女の言ったあの言葉とちょっと似ているなと思ってしまった。

「孤独なお姫様」

お父さんやお母さんといった私を愛してくれている人達はいるけれど、パパもママも兄弟も、いわゆる肉親という人がまったくいない私は、ある意味孤独と言ってもいいかもしれない。

なぁんだ、と思った。

彼女の言葉は、当たっていたのだ。

『図星だから怒ったのかな? あの言葉は確かに許せなかったけど、でもあながち間違いじゃないし』なんて考えていたら、自分がなんだかとても滑稽に思えてきて、暗い廊下の中一人でクスクスと笑い出してしまった。

「あの・・・瑞香お嬢様?」

「ひゃ」

そんなふうに一人で笑っていた私は、背後から声をかけられるまで、私の他に誰かが起きているなんて思ってもいなかったから、その声に心臓が口から飛び出そうになるくらい驚いてしまう。

ちょっと大袈裟ではあるけれど比喩ではなくて、本当に心臓がビクンと持ち上がったような感覚があったのだ。

短い悲鳴を上げて、心臓の辺りを押さえて廊下にへたり込んでしまった私にひどく慌てたのだろう。声をかけてきたその女性は、普段の彼女のゆっくりとした所作からは信じられないような動きで、私の前に回りこんだ。

「瑞香お嬢様、大丈夫ですか? 申し訳ありません、そんなに驚かれるとは思わなくて。どこか苦しかったりしませんか? 大丈夫ですか?」

「美咲さん・・・ビックリさせないでよー。死ぬかと思ったー」

しゃがみ込んで慌てて私に声をかけてきた美咲さんに、私は涙声で答えて、ちょっと冷たい廊下から立ち上がろうとしたけれど、足にうまく力が入らず、立ち上がる事が出来なかった。

立ち上がろうとして再びへたり込んでしまった私を見て、状況を理解したのだろう。彼女はいかにも「あらあら」とでも言うように、右手を口元に当てる。

そんな彼女の様子にちょっと腹の立った私が、頬を膨らませて軽く睨みつけると、そんな私の様子に今度こそ彼女は「あらあら」と口に出して微笑んだ。

「もぅ。美咲さん、笑わないで下さい。うぅ、本当にビックリしたよー」

「申し訳ありません、瑞香お嬢様。こんな暗い廊下で、お嬢様がお一人で笑っていらしたので・・・」

そういって彼女はちょっと言い辛そうに私から顔をそらした。

つまり私が自分を滑稽に思って笑っていた姿を彼女は見ていて、そんな私を心配して声をかけたのだろう。私が彼女の立場でも、同じように心配して声をかけてしまうだろうから。

そう考えたら途端に恥ずかしくなって、照れ隠しに私と同じようにしゃがみ込んでいた美咲さんの腕をポカポカと叩き出してしまった。そんな私を、彼女は「失礼しますね」と再び微笑んで、両腕で包み込むように優しく抱いてくれる。

こんなふうに抱きしめられたり、頭を撫でてもらったりする度に私はこの人達から本当に愛されて生活いるのだなと思うけれど、今はあまり嬉しくなかった。

でもそうやってしばらくの間彼女に抱かれる事によって、何とか落ち着きを取り戻した私は、美咲さんの手を借りて立ち上がる。

「美咲さん随分早起きなんですね。いつもこんな時間から起きてるの?」

彼女の手を借りながらもまだちょっとふらつく私に、美咲さんはわずかに心配そうな表情を向けていたが、私のその質問に彼女は考え込むように、首を傾げて天井を見上げた。

「えーと、そうでもないですよ。今日は朋子様が朝の六時からお出かけになるという事なので。だから今から朋子様の朝食の準備です。普段は沙夜子様や良子さんのほうが私より早いんですよ」

美咲さんはお父さんから本邸に部屋を用意されていて、そこで生活しているけれど、朝起きて夜寝るまでのそのほとんどの時間を、朋子姉様と一緒に離れで過ごして、彼女の身の回りの世話などをしている。今では一見その様子から朋子姉様のお側付のように見えるけれど、実際は朋子姉様のお側付ではない。

美咲さんは本来、お父さんの弟である高志兄様のお側付なのだけど、高志兄様が県外の大学へと行ってしまい、なぜか彼について行かなかった美咲さんは、離れに一人で暮らしていた朋子姉様の世話をするようになった。

まぁ、離れに一人で暮らしているとは言っても、朋子姉様は食事をいつも本邸の食堂で皆と一緒にとったり、お風呂も本邸のものを使ったりと、こちらにいる時間もそれなりに長いから、一人で暮らしているとはちょっと言えないかもしれない。

「朋子様もこんな朝早くからどちらに行かれるんでしょうね。まったく、お世話するる私の身にもなって頂きたいです」

そんなふうに丁寧な口調で不満を言っていても、今は暗くてちょっと見えないけれど、彼女のその顔が笑っているのだと言う事を私は知っている。

彼女がそんなふうに言う時はいつだって、他愛ない悪戯をした子供を、その悪戯に微笑みながら軽く叱る母親のように優しい顔だと言う事を。

「あの・・・ところで、瑞香お嬢様はこんな時間にどうなさったのですか?」

「えっと、ですね。ちょっとお腹がすいたんで台所へ」

「それでしたら目的地は同じですね。私もご一緒させて頂いてよろしいですか?」

彼女のそんな大袈裟な言葉に、ちょっと笑ってしまった私の手を握ったまま、彼女はこう付け加えた。

「でも瑞香お嬢様。こんな時間に食事をとると太ってしまいますよ」

そんなちょっと意地悪な一言が、彼女の性格を如実に現しているのではないかと私は思う。

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