寂しいアヒル2




「江里子お姉ちゃん」

それは私達の一〇m程前を歩いていた悠華ちゃんの声だった。

そして私は、先程水野の伯母様から聞いたばかりの「江里子」という名前に思わず身をすくめてしまった。

別にやましい事など無いと思うのだけれど、彼女の知らない所で彼女の事を聞き、挙句勝手に彼女に対して得体の知れない何かモヤモヤとした感情を抱いている事が、急に傲慢な事ではないかと思えてきたのだ。

私が思わず身をすくめたことが伝わったのか、手を繋いでいた悠紀君が再び心配そうに私を見上げていた。そんな彼に何とか私は笑顔を向ける。

「あら、悠華ちゃん。久しぶりだね、こんな所でどうしたの?」

初めて聞く彼女の声。

女の子としては多少低いけれど、ハッキリとしたとても聞きやすい声。

私はゆっくりと、彼女の姿を確認するため顔を悠紀君から、私達の少し前にいるだろう悠華ちゃんへと向ける。

そこには新しい玩具に夢中にじゃれつく仔犬よろしくはしゃぐ悠華ちゃんと、真っ白いTシャツに色褪せたジーンズといういつもながらの格好でそんな悠華ちゃんに、はにかんだような笑顔を向けている彼女がいた。

私がそれまで見てきた彼女の表情はいつも厳しいもので、初めて見る彼女のそんな笑顔に私は思わず見惚れてしまっていた。

そんな私の視線に気付いたのだろうか、彼女が悠華ちゃんから私達へと視線を向ける。

「悠紀君とは一昨日ぶりだね。熱を出したっていう、大好きなお姉ちゃんのお見舞いには無事たどり着いた?」

足元でじゃれ付く悠華ちゃんの手をとり、私達に近づきながら悠紀君に声をかける彼女に、悠紀君は手を離して私の後ろへと隠れ、顔だけを覗かせて恐る恐るといった感じで「うん」と頷いた。

悠紀君の激しい人見知りにも慣れているのだろう。彼のその行動に大体の人が見せる怪訝な表情を見せず、「よかったね」と笑いかけている。

そして悠紀君からゆっくりと私に視線を移した彼女の表情は、それまで悠華ちゃん達へと向けていた優しいものとは一変して、とても厳しいものだった。

「で、あんたがその『お姉ちゃん』だね。・・・一応初めましてって事になるのかな。学校やそこら辺ですれ違う度、いつも人の顔をジロジロと見ていたけど」

私はその言葉に思わず俯いてしまった。おそらく顔も真っ赤になっているのではないかと思う。

すれ違うたび彼女の事を見ていた。その事が彼女にばれていたという恥ずかしさも勿論あったけれど、先程から私の中にある得体の知れないモヤモヤとした感情まで見透かされ、その事も責められているような気がしたのだ。

「なんだか私はこの村では有名みたいだから、わざわざ自己紹介するまでも無いと思うけどね。まぁ、一応名乗っておくよ。・・・私は木戸江里子」

「黒川瑞香・・・です」

「知ってるよ、あんたは私以上に有名だからね。孤独なお姫様」

皮肉以外の何物でもないその「孤独なお姫様」という言葉の響きに、私は思わず彼女を睨みつけた。

そんな私に、彼女はスッと目を細める。

剣呑な光がともったそんな彼女の瞳に気おされながらも、私は彼女から視線を外さなかった。

正直な話とても怖かったけれど、なぜか「孤独なお姫様」と言う言葉だけは聞き捨てならなかったのだ。

そんな私達に、悠紀君はおろか悠華ちゃんまでオロオロと私達に視線をさまよわせていた時だった。

「瑞香ちゃん。どうしたの、そんな怖い顔して? あら、あなた確か・・・」

私にとってとても長いように感じられた睨み合いは、彼女の背後、要するに私の正面からいつの間にか近づいてきた朋子姉様によって打ち切られた。

「木戸さんの所の娘さんよね。なぁに、瑞香ちゃんと喧嘩でもするの? あなた度胸あるわねー。裕紀兄さんこの子には甘いから、ちょっとでも怪我させようものならお家、どうなるかわからないわよ。確かあなた、ただでさえ家の中で色々あるらしいのに、それはまずいんじゃないかしら。私もね、昔この子にちょっと怪我させちゃって、危うく家から追い出されそうになった事があるのよ。あの時も沙夜子姉さんから助けてもらえなかったら、本当に家から追い出されてたわね。信じられないと思わない? 行く当てもないこんなか弱い女の子を平気な顔して追い出そ・・・あら?」

こういう時、放っておくと朋子姉様の話は延々と続く。それこそ言葉を挿む暇さえ見せぬほどの勢いで喋りだした朋子姉様の様子から、その事になんとなく気付いたのだろう。

彼女は私から目を逸らし、悠華ちゃんの手を離して、何事もなかったかのように私の脇をスッと通り過ぎていった。

朋子姉様はそんな彼女の背を見送り、そして私に視線を落として、クスッと笑う。

「瑞香ちゃんも怖くなかった? でも、やっぱり瑞香ちゃんは葉さんの娘なのね。さっきの彼女を睨んでた時の顔なんて、裕紀兄さん叱ってる時の葉さんにそっくりだった」

普段の私なら飛びついたかもしれない「ママ」の話。けれど、そんな朋子姉様の言葉も半ば聞き流す。

睨みあっている時はなんともなかった膝が、今になってガタガタと震えだしていた。

震え始めた私を心配したのだろう、それまで私の後に隠れるようにしていた悠紀君と、正面にいた悠華ちゃんがそれぞれ私の両手を握ってくる。

そんな私達の様子に朋子姉様は腕組みをしながら、わずかな時間考え込んでいたようだが、悠華ちゃんたち同様私を落ち着かせるように、優しく抱きしめてくれた。

「あの子との間に何があったかは知らないし、聞くつもりもないわ。沙夜子姉さん達にも黙っててあげる。でも本当に困った時は私達に相談するんだよ」

私を抱きしめて、耳元でそう囁く朋子姉様の心遣いがとても嬉しくて、私は悔しさとか怖さとか安堵とか感謝とか、そんな様々な感情から今にも溢れ出しそうな涙を一生懸命こらえて頷く。

「ハイ、とりあえずこの話はお終い。よーし、ここで会ったのもなにかの縁だ。お姉ちゃんがジュースを奢ってあげよう」

私の体を離し、悠華ちゃんの手をとりながらおどける様にそう言った朋子姉様に、悠華ちゃんは瞳を輝かせ「本当?」と今にも駆け出しそうな勢いで答える。

そんな彼女達と、ちょっと俯きながら私の手をギュッと握ってくる悠紀君に、なんだかとても励まされているような気がして、さっきからのモヤモヤとした感情と彼女への憤りはまだちょっと残っているけれど、それでも気分は悪くなかった。

 


「瑞香ちゃんはさっきの江里子ちゃんの事知ってるの?」

朋子姉様から奢ってもらったジュースを片手に、河原で遊んでいる悠華ちゃん達を土手に座って眺めていた私に、隣に座っていた朋子姉様は私同様彼らを眺めながらそう言った。

「はい。お家の事も水野の伯父様から」

「・・・そっか」

両手を頭の上で組んで伸ばし、そのままゴロンと寝転んだ彼女は、空を見つめたまま言葉を続けた。

「瑞香ちゃんはどうして家族と別れて私だけが本家の離れに住んでると思う? 六年近く、しかも追い出されたとはいえ、私の家族が今住んでる家は本家から結構近いじゃない?」

彼女が離れに住んでる理由。それが何なのかなど、今までそれほど深く考えた事のなかった私には、その問いに答える事は出来なかった。

彼女のお祖父様が先代の瀬川家当主だったから。

・・・ならなぜ彼女だけが残ったのか。

お母さん達と仲が良かったから。

・・・だからといってお父さんが当主の座に就いた六年前、当時まだ中学生だった彼女が家族と別れて、一人本家の離れに住む理由にはならない。

よくよく考えてみれば、それらは理由の一つでしかないように思う。

もっと決定的な理由に付随するものの、一つに過ぎないのだろう。

あの頃は私もすでにお父さん達と一緒に暮らしていたけど、幼かった私には窺い知れない事がたくさんあったようだから。

だから私はお母さんが教えてくれた、『朋子姉様が離れで暮らしている理由』を今まで疑う事がなかったのだ。

私の沈黙を答えだと理解したのか、朋子姉様は「ちょっと暗い話になっちゃうかもしれないけど」と前置きをおいて語りだした。

「私はね。女として生まれた瞬間、両親から捨てられたの」                                              

その言葉は、一瞬で私から思考の全てを奪うのに十分なものだった。

「理由はね、女では瀬川の当主にはなれないから。そして私が女だったから。勿論外聞なんかもあるから、その辺にポイと捨てられたりはしなかったし、衣食住は保障されてた。でもそれだけだった」

普段のような言葉の勢いは無い。ただ淡々と語る姉様。

「だから私は高志や美咲と一緒に晴さんと冬さんに育ててもらったの。あの人達とは挨拶以外口を利いたことすらなかった。それも私の一方的な挨拶。・・・そんなあの人達と交わした初めての会話って何だと思う?」

私がゆっくり首を振ると、それまで無表情に淡々と語っていた彼女は鼻で笑い、それまで空を見つめていた視線を私に移す。

「裕紀兄さんが当主になって、昔兄さん達と色々とあった彼等を追い出そうとした時にね、両親は私にこう言ったの。『私達は血の繋がった家族なんだから、ここにおいてくれるよう裕紀にお前からも頼んでくれ』って。それが私と彼等の最初の会話。ね、馬鹿にしてると思わない? 家族ですって。それまで私のことを家族だなんて思ってもいなかった人達が? だからね、今度は私が彼等を捨てたの。私はその頼みをその場で断ったうえで、後腐れないよう完全に彼らを本家から叩き出すように裕紀兄さんに進言した。これが、私があの人達と別れて一人で暮らしている最大の理由。離れにいるのは、まぁ・・・私の気が楽なのと、裕紀兄さんのお情け、かな」

そう言って朋子姉様は最後に笑ってこう付け加えた。

「私とか江里子ちゃんみたいなそんな家族もあるんだって事、瑞香ちゃんは知らなきゃいけない。だから憶えておいて、誰もがあなたみたいに家族から愛されているわけではないという事を」

その時の彼女の笑顔は、それまで見てきた彼女のどんな笑顔よりも綺麗で、そしてとても悲しい笑顔だった。

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